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ごほ、と志賀は咳をした。内側から込み上げてくる感覚に堪え切れず、それでもどうにか押しとどめようとして不器用な咳が出るのがわかった。隣で寺坂が気遣うように視線を送ってくるのに、大丈夫だと呟く。
俺が消えるかもって怖がっていたくせに、先にいなくなったのはお前の方じゃないか、潮田。どうして、と思う。誰も答えてはくれない。
名残のような咳を一つして、大きく息を吐き出す。調子が悪いのは長いことそうだが、どうしてか寺坂と会ってからは少しだけ良い方向へ向いていた。それでも忘れるなと言わんばかりに、名もわからぬ部分が、鈍く痛む。
「お前、どっか悪いのか」
寺坂は前方に意識を向けながらも、心配するように志賀の顔色を伺う。志賀はその気遣いが居たたまれなくて、顔を背けて答えた。
「どうだろ、わかんないな」
「わかんないって、お前自身のことだろ」
まるで他人のことでも話しているような口ぶりをする志賀に、寺坂が困ったみたいに言う。でもなあ、と志賀は窓に肘をつけて、続ける。
「ほんとに、わかんないからな」
山を切り開いて作られたらしい高速道路では、ただただ緑に囲まれていて代り映えのない景色が続く。志賀はその景色の一つ一つに目を配りながら、海が見たいな、と思った。この光景が退屈だというわけではないが、ただ視界の全てが真っ青に染まるあの光景が、無性に見たい。
拒絶するように押し黙った志賀の様子を見て、寺坂はため息をついた。呆れているのか、諦めたのか、判別がつかない。それでも志賀が黙っていると、寺坂から零れるみたいにして言葉が落ちてきた。
「お前見てると、不安になる」
「——どうして」と志賀は問うた。「放っとくと死にそうだから?」
思い出したのは、数時間前の会話だ。寺坂はそうだよ、と頷いた。
「今にも死にそうな顔して、何にも期待してねえって様子見てりゃ、不安にもなるだろ」
寺坂は言葉を切る。言うかどうか迷うみたいに逡巡して、それでも言葉を続けた。
「自殺でもしそうって、顔してるんだよ、お前」
志賀は寺坂の言葉に僅かに反応を見せる。少なからず、動揺している。それが自分でもわかったから、平静を装わなければ、と思う。自身を落ち着かせようと息を吸って、まさか、と吐き出した声は少しだけ掠れていた。
「不思議だな、たった数時間前に会ったような他人なのに。そんな人間がどうなったって、どうでもいいって思わないの」
「思わねえよ」
あまりにストレートな解答だ。思わず少し笑みを溢して、志賀は寺坂らしい、と思った。たった何時間の間、言葉を交わしただけの中で彼がどんな人間かは判断できることじゃない。それでも、彼が卑屈に曲がり切った志賀とは違って愚かすぎるほどに真っ直ぐな人間であることを、志賀は感じていたのだ。
「他人の死に触れる怖さは、お前にもわかるだろ」
「……そうだね」
志賀は視線を落として、微かに震える自分の指先を見た。誤魔化すように強く握る。震えは止みそうになかった。
「俺は、もう人が真っ当に死ねないのを見るのは、御免だ」
寺坂が呟くようにそう言うのを、志賀の耳は拾っていた。寺坂にも、誰かを失った記憶があるのだろう。その記憶があるから、死の匂いに敏感で、どこか怯えている。記憶に囚われているのはお互い様だ。歪な共通点を寺坂との間に見出して、志賀は困ったなと思う。
「寺坂さんにも、何か、失ったものがあるの」
志賀の不意な質問に、寺坂が少しだけ反応を示す。逡巡するように口を閉ざし、ハンドルを握り直す。
「この年になって、そういう経験がないほうが珍しい」
「それも、まあ、そうだね」
頷く。易々と人に語ることの難しい記憶が彼にある。誤魔化すような返事は、その表れだ。
「でも、それだけじゃないでしょ。もっと、根深い」
志賀の追求が、寺坂の記憶を煙に巻くことを阻める。返事に困ったように寺坂が志賀へ視線を向ける。
「ごめんなさい」と視線に気づいた志賀が素直に謝罪の言葉を口にする。「聞いて欲しくないことの一つや二つある、よね」
志賀が引っ張り出したのは先ほどの寺坂の台詞だ。寺坂が別に、と呟いた。別に。しかしその先は上手く続かない。
逃げるように彼は煙草を取り出して、一本引き抜いた。右の手のひらでハンドルを保ちながらも、器用に火を点ける。
つられるように志賀も煙草をくわえる。甘いバニラの匂いが鼻をついた。軽い吸い口が人気の銘柄だが、煙が酷く目に染みるのが玉に瑕だ。若干の物足りなさはありつつも、吸いやすいそれを志賀は好んでいた。女みてえな煙草、と知り合いに揶揄されたことを思い出す。好みなのだから別に良いだろうに、周囲の目やイメージといった体裁をやたら気にする男だった。
志賀は煙を吐き出す。寺坂が薄く開いた窓の外へ煙を追い出しながら、呟くように口を開いた。
「まあ、人に軽々しく言えないような記憶は一つぐらいあった方が良い」
「……そうか?」
「うん。生きる理由に十分なり得るでしょ」
「生きる理由、な」
復唱した寺坂に、薄く笑った志賀が頷く。
「無いよりは良い」
「それはそうだな」と寺坂は言って煙草に口をつけた。「でも、こんな記憶に拠り所を求めるのも間違ってる」
「はは、厳しいな。まあ、一理ある」
掠れた声で笑った志賀が、軽く咳をする。それでも、志賀の拠り所はその記憶しかない。どんなに忌々しい記憶と一体だとしても、志賀にとって救いとなるものもそれだけなのだ。