ホワイトデーのこと 1
桜の花がすっかり散ると私の花見はすっかり終わり、青々と枝葉を伸ばす木々をぼんやりと眺めるようになった。
アルバイト先である喫茶店の敷地には、小さいながら桜の木が植えられていてそれが初夏の空に伸びていく様子は毎日違う。
早めに終わった授業のあと、時折こうして真昼のシフトに入ることがある。
そうした日は、気のいいマスターが昼食とコーヒーを賄いとして出してくれ、交代で食べたあと、午睡を楽しむようにコーヒーを飲みにやってくる客とのんびり過ごしている。
午後三時を過ぎると休憩にやってくる客が徐々に増え、住宅街に立つこの喫茶店は夕方に向かって盛況になっていくのだ。
その頃にはバイトがもう一人増える。
「今日は早い日か」
にこりともしない茶髪の男がエプロンを手にカウンターへと入ってくるのだ。
「ええ、そうよ」
客の注文のコーヒーをマスターが緩やかに入れる様子を眺めながら応えると、茶髪の男はわざとらしく溜息をついた。
「そうです、だ。先輩に敬語も使えないのか」
「同い年じゃない」
「俺の方が喫茶店では先輩だ」
「じゃあ、僕にも敬語じゃないといけないね、葛原くん」
穏やかなマスターがにこやかに言うと、茶髪の男、葛原はむすりと口を曲げる。
「俺はいいんだよ!」
マスターが入れ終えたコーヒーをお盆に乗せて私が歩き出すと「溢すなよ」の余計なひと言で見送られた。
喫茶店で働き始めた頃は、両手でお盆を持っていてもコーヒーをよく溢していたが、今では片手で盆を持っていても溢さない。
葛原を無視して客の前へにこやかに出ていくとマスターの忍び笑いが聞こえた気がした。
口は悪いが葛原には感謝している。
私がこの喫茶店で働けるようになったのは、彼の口添えがあったからだ。
最初、履歴書というものすら知らなかった私をマスターはコーヒーを飲ませて体よく帰らせようとしていた。それでも食い下がっていた私に、葛原が言ったのだ。
履歴書を書いて来い、話はそれからだ、と。
私はそこで人生で初めて履歴書というものを知った。
この、住宅街の真ん中にあって不思議と人が集まる小さな喫茶店で働こうと思ったのは、この店に一度だけ入ったことがあるからだった。
働きたい理由は吉之助に少しでも借金を返したいという思いからだが、それには経験が少なすぎると思ったのだ。一般的な人との関わりも、経験も私には無いに等しい。
けれど、私の行動範囲はバイト先を探すには狭すぎた。
大学の沿道に店はあるものの、どれもアルバイトを雇うような店ではない。かといって大学から家までの行動範囲を超えると都合が悪かった。
お嬢様学校とはいえ、課題は山ほどある。留年はできないし、就職活動もしなければならない私にとって、時間の浪費は何よりも省きたい。
それに、
(吉之助のご飯を用意してあげられなくなるじゃない)
彼の生活力の無さはこの半年でよく分かっている。特に食事に関しては最悪だ。放っておくと、彼は丸一日コーヒーだけで過ごしていることもあるほど食事に頓着しないのだ。
もしも一週間放っておいたら、餓死しているかもしれない。
世話になっている後見人が餓死するなど後味が悪過ぎる。
そこで、散々迷った挙句、一度だけ入ったことのある近所の喫茶店をバイト先候補に選んだのだった。
けれども、勇んで飛び込んだ私を待っていたのは、マスターのやんわりとした拒否だった。
「うちは、アルバイトの募集をしていないんですよ」
アルバイトというものは、募集があって始めてそれに応じるものであって、働きたいと飛び込んでくることはよほどの理由がない限り無いらしい。
愕然とした。
――こんなにも世間知らずだったなんて!
けれどここで働けなければ、私は一生働けない気がした。
だから私は困ったように微笑むマスターに食い下がった。
「どんな仕事でもいいんです、お給料が欲しいわけじゃ…いえちょっとは欲しいかもしれないけれど、とにかく働きたいんです。本当に、何でもしますから!」
後から思えばとんでもないことを口走っていたものだ。
けれど、私の様子を眺めていただけだった葛原が助け船を出してくれた。
「……お前さぁ、働きたいならまず履歴書だろ」
「え?」
「え」
ぽかんと振り返った私を見返した葛原も大きく口を開けて呆け、
「履歴書だよ、履歴書! 今時、中学生でも知ってんぞ!」
怒鳴った彼に私は唖然と返した。
「リレキショって、何?」
この後の葛原は見物だった。店中に響き渡るような声で私に説教をし、履歴書とは、アルバイトとは、ということを滔々と言い含めた。それは会計を済ませて帰ろうとする客に苦笑交じりに諌められるまで続き、ようやく我に返った葛原は「とにかく履歴書書いてこい! 書類はコンビニに売ってるからな!」と私を店から追い出したのだった。
私は、履歴書という言葉を知っていたものの、それが自分で書かなければならないものだということを知らなかった。
今まで私は、自分で書類というものを揃えたことがなかったのだ。
必要な書類すら書けず、自立したいなどと言っていた自分が情けなかった。
私は店を追い出されたその足で近所のコンビニに走り、私の鬼気迫る様子にいささか気圧された店員に履歴書というものを教えてもらい、家へ帰りついて夕食の用意をしてから履歴書に取り掛かった。
何度も書き損じた履歴書が出来上がったのは、結局、次の日の朝のことだった。
会心の履歴書を手に喫茶店へ向かうと、待ち構えていたのはマスターではなく葛原。彼は私を店の端にあるテーブルに座らせて自分もその正面に座って履歴書を広げた。
彼は、履歴書の空白を容赦なく尋ね、私がこの喫茶店へ一度だけやってきたことさえ訊き出してしまった。
言いたくもなかったその一度だけの来店は、とてもくだらない理由だ。
私のそれまでの食事といえば、広い食堂に何人かのメイドに傅かれて食べることが普通だった。家族が揃うことなど滅多にない。
それが、吉之助と食卓を共にするようになって初めて誰かと食べる楽しみを知った。
その吉之助がいない休日の食卓は火が消えたように暗く、味気ないので一人で食事をしたくなかったのだ。
たとえ、テーブルについているのが私一人であっても、誰かの居る場所で食事をしたかったのかもしれない。
そこで、以前から見かけていた喫茶店へと入ったのだ。
結果的に言えば、その食事はやっぱり味気なかった。
一日煮込まれ旨味の詰まったカレーライスの味にも、薫り高いコーヒーの味にも、私は何の感慨も抱けなかった。
ただ、今頃もどこかで吉之助がコーヒーを飲んでいるのだろうかと思っただけだ。
私の呆気なく終わった一人での外食話まで訊き出した葛原だったが、考え込むように少し押し黙った後、おもむろに口を開いた。
「お前、料理できるのか」
履歴書の特技欄に料理と書いた。他に出来ることが思いつかなかったから。
書面にあることを訊き返す葛原に何か言おうと口を開きかけたが、履歴書のことを教えてくれた彼に反抗ばかりするのは気が引けて、私は渋々と頷いた。
「――毎日作ってるけど」
「作っています、だ。じゃあ、家事全般一人で?」
「そうだけど…」
「お前、お嬢様じゃないのか?」
言いにくいことを尋ねてくるものだ。
それでも、嘘をつくことも馬鹿らしくて私は首を横に振った。
「元はそうだけど、今は違うわ。……家事が出来るだけじゃ、やっぱり駄目なの?」
履歴書を書きながら、アルバイトについて少し調べた。
一口にアルバイトと言っても様々だ。
中には資格のいるものもある。
「喫茶店のバイトに資格なんかいらねぇよ。――まぁいいか」
ぽん、と徹夜して書いた履歴書をテーブルの上に放り出す。
「マスターには俺から話しておいてやる」
「え?」
「勤務はシフト制。制服はないけど、あんまりひらひらした服着てくるな。エプロンは貸してやる。あとオーダーを溢したり食器を割ったりしたら給料から差っ引くから覚悟しておけ!」
早口に捲し立てられて何を言われたのかわからない私に、葛原は改めて言った。
「明日からうちで働いていいってこと。マスターに雇ってもらうから、よくお礼言っとけ」
葛原の言葉に驚いた私は、少なかったものの客が居る店内で大声で叫んでしまった。
「あ、ありがとう!」
「俺に言うな!」
葛原は苦虫を潰したような顔で怒鳴り返した。
あとでマスターから聞かされたところによると、葛原はマスターの甥らしい。彼はこの喫茶店を始めた時から手伝っていて、オーナーであるマスターよりもそれらしいと当のマスターが笑って話してくれた。
マスターが私を雇ってくれた後も、葛原は私を事あるごとに叱った。それはカップの持ち方だったり、料理の運び方だったり、様々なことに及んだ。マスターも私を優しく指導してくれ、今ではケーキのカットは私の方が上手いと褒めてくれることもある。
穏やかで優しいけれど、葛原よりもマスターの方が厳しいから、マスターに褒められるのは本当に嬉しい。
(ここで働けて良かった……)
この小さな喫茶店で働き始めて、一か月。
失敗ばかりをしたけれど、葛原もマスターも辞めろとは言わなかった。
最近ようやく出来ることが増えて、少しは役に立てているのかもと思えることがある。
「――高円寺さん」
忙しい夕方を終えて、そろそろ仕事を上がろうかという私を厨房裏のスタッフルームでマスターが呼びとめた。
「今日はお疲れ様。いつもよりお客さんが多いのによく頑張ったね」
確かに今日は客が多かったかもしれない。
「ありがとうございます」と返すとマスターはにこにこと笑い、自分のエプロンから茶封筒を取り出した。
「一か月、よく頑張ったね。少ないけれど、君の給料だよ」
「え? 給料…?」
何を言われているのか分からなかった。
「本当は銀行を通した方がいいんだけれど、やっぱり初めての時はこうして手渡す方がいいって言うものだから。葛原くんが」
「余計なこと言うなよ!」
いつの間にか顔を出した葛原が怒鳴るけれど、私はどうしたらいいのか分からなかった。
「……でも私、たくさん失敗したし…」
言葉も上手く出てこない私にマスターはうんうんと頷いた。
「失敗は失敗だよ。高円寺さんはたくさん頑張って働いてくれたからね。これは君が自分で働いて、初めて稼いだお金なんだ」
「さぁ」と促されて手に茶封筒を乗せられた。
さして厚くないはずの封筒が、ずしりと重くて思わず両手で包んだ。
「ありがとう、高円寺さん。これからもよろしくね」
これは何の苦労もせず与えられたものではなく、自分で働いたその対価。
でも、と私は思わず俯いた。
働いて得られる物は、何て大きいんだろう。
経験、信頼、生きていく上で必要な何かが全部が詰まっている。
(ここで働けて、本当に良かった)
感謝以外の言葉が出てこなくて、私はとうとう顔を上げられないまま。
「……ありがとうございます」
手にした封筒をきつく抱きしめていた。