桜のこと
暖かい日和と冷たい風を含んだ日が続くと、桜はあっという間に咲いた。
しかし社会は春になると途端に忙しい。
僕も世間に漏れずスケジュールばかりを刻み、彼女が楽しみにしていた花見の供をすることができずにいた。
彼女の方は、大学帰りに、買い物の帰りにと桜の時期を楽しんでいるようで、彼女の美味しい食卓に桜の話も乗るようになった。
「満開になったわよ」
先週の特に暖かい日和を受けて、桜は一斉に開花したらしい。
彼女手製のオムライスを食べながら、嬉しそうな話を聞いていると食卓に桜が咲いたようだった。
彼女は、春になってからアルバイトを始めた。
卒論で忙しい時期だというのに大丈夫かと思ったが、意外にも彼女はしっかりと頷いた。
――私が世間知らずだってことは承知しているの。
働くことなど知らなかったはずの彼女が、就職をしたいという。
生活費とは別に、彼女には十分な支援をしていたはずだったが足りなかったのか。
そんな僕の疑念を彼女はあっさり否定した。
――お金の問題ではないのよ。
そうきちんと言葉にした彼女は、大人になろうとしていた。
彼女がそのつもりなら、僕に否やを言う権利はない。
正直に言えば、僕が反対をしなかったのは、アルバイト先は決めてあるのだと紹介されたのがマンション近くの喫茶店だったからかもしれない。
アルバイトを始めた彼女は喫茶店で覚えたことを、僕に話して聞かせてもくれた。
オムライスはその一つだ。
彼女の作る料理はどれも本格的で、カレーを作ろうものならルーから作る本格派だ。けれど、喫茶店ではスパゲティやオムライスといったものを出すようで、ケチャップライスに玉子をふんわり巻いたオムライスに彼女はいたく驚いたようで、時々喫茶店で見たメニューを僕に披露する。
最近ではレトルトも覚えて、コンソメスープの素を気に入っているようだった。
雇い主も同僚も彼女を受け入れてくれているようで、楽しそうに話す彼女に僕は安堵していた。
だから、少しだけその喫茶店を覗こうと思ったのは、彼女には怒られるかもしれないが親心のようなものだった。
飴色の木枠の出窓が特徴的なその喫茶店は、住宅街にあって住民たちの憩いの場となっているらしい。
僕がやってきたこんな夕方でさえ人の出入りが多い。
帰る人はどれも穏やかな顔で、からんからんとドアベルに迎えられて見送られていく。
店に入ってみようか、と思ったのは僕の少しのいたずら心。
彼女の驚く顔が見てみたかった。
からん。
ドアベルに迎えられて目に入ったのは、
(麗子さん)
笑顔の彼女だった。
ふわふわの亜麻色の髪を束ね、見慣れないエプロンを身に付けた彼女がカウンターの傍で微笑んでいる。
彼女と笑顔を交わしているのは、学生らしいピアスの男。
見た目は茶髪で少し長い髪を首の後ろでくくっていて、目つきは悪いけれどきっと悪い奴じゃない。それは彼女を見る目に気遣いが見えるから。
ドアの前で立ちつくした僕にカウンターの後ろで彼女と彼を眺めていた店主らしい壮年の男性が気がついた。
でも、声を掛けられる前に僕は足を踏み出していた。
「麗子さん」
亜麻色の髪が振り返る。
みるみる内に丸くなるコバルトブルーの瞳。
いつもの彼女だ。
「どうしたの? 吉之助」
想像通りに驚いてくれるから、僕もいつものように笑うことができた。
「通りがかったんだ。麗子さんはそろそろ仕事は終わりでしょう? 一緒に帰ろうか」
「そうだけど…コーヒー飲んでいかないの?」
彼女の不審そうな顔が、僕の言葉がいつもと違うと告げている。
「――もしかして、高円寺さんの後見人ってヒト?」
ピアスの男が僕を見て、少しだけ険を強めた。
「はい。麗子さんがいつもお世話になっています」
ピアスの男と店主にそう挨拶すると、二人は少しだけ顔を強張らせる。
きっと、僕の目があまり笑っていないからだ。
それを自覚しながらも、整えることが今はできそうにない。
「麗子さん、待っているから荷物を取っておいで」
いつもより少し強引な言葉に、彼女は戸惑ったように店主とピアスの男を見るが、
「いいよ、高円寺さん。お疲れ様」
店主の方が察して彼女をスタッフルームへと送る。
そして僕をカウンターへと誘った。
「どうぞ。お待ちの間だけでも」
そう言って出してくれたのは温かいコーヒー。
カップのコーヒーの波紋を見つめていると、ようやく心の細波が収まってくる。
「……申し訳ありません」
いくらか取り戻した顔で店主を見遣ると、彼は苦笑した。
「いいえ。高円寺さんはとてもよく気の付く良いお嬢さんなので、一度後見人の方とお話をしてみたかったのです」
ほっと肩の力を抜いてくれるような声に、僕も苦笑する。
「――若輩者で、頼りない僕に何かと良くしてくれる優しいお嬢さんですよ」
そう溢して、僕はコーヒーを一息に飲み干した。
彼女はとても良い子だ。
優しくて、面倒見が良くて、それから少しだけ寂しがり屋。
帰ってきた彼女を連れて店を出ると、外はすでに暗い。
「どう? コーヒー美味しかったでしょう?」
少し自慢げな彼女に僕は「そうだね」と微笑む。
一息に飲み過ぎてあまり味が分からなかったと言うと、きっと怒ってしまうから。
「そういえば、お仕事はどうしたの? 車は?」
「マンションに近いんだから、僕だって歩くよ。仕事はちょっと早く終わったんだ」
言いながら手を差し出すと、彼女は不思議そうな顔をする。
「せっかくだから夜桜を見に行こうよ」
嬉しそうに輝いたコバルトブルーの瞳に、僕の胸の底に溜まった冷たい氷が溶けていく。
「もう、しょうがないわね!」
僕の手に重ねられた白い手は小さくて、子供のようだった。
この手だけが、僕に許された彼女との架け橋。
柔らかな亜麻色の髪も、滑らかな頬にも、他のどこも、僕は触れることを許されていない。
そして彼女はいずれここから飛び立っていく。
(それでも)
この一瞬の笑顔だけは独り占めしたいと思うのは。
(許してくれないかな)
たとえ、誰一人、神さえ許さないとしても。




