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お嬢様とわたし  作者: ふとん
お嬢様と彼の日々
7/19

花見のこと

 薄曇りの空を睨んでいると、ふいに遠くから笑い声が聞こえてきた。

 まだ春には遠い気温だというのに、ようやく芽吹いたばかりの芝生を子供と犬が駆けまわっている。気の早いことだ。


 けれど、子供のことを笑えない。


「まだ早かったみたいだね」


 傍らで私と同じように公園の様子を眺めていた吉之助は、大きなトートバックを肩にかけて厚手のコートに手をつっこんだままふんわりと微笑んだ。

 怒りもしないその様子に、私はついつい口を尖らせた。


「分かってるわよ! そんなこと」


 この、マンションからほど近い公園には多くの桜が植えられていて、桜が満開の季節には花見と称した酔客でいっぱいになる。

 だから、昨年までは蝶よ花よと育てられた私は迎えの車で大学からの帰り道に通り過ぎはするものの、公園に踏み入れたのは初めてのことだった。

  

 油断をすれば溜息が白く濁りそうな寒さを突っ切って歩くと、弁当を持つ手がじんじんと痛んだ。手袋をしてくれば良かった。

 どう思い返して意地になっても、やはり時期が早かったのだ。


 きっかけは昨夜のニュースで、一番桜が咲いたという何気ない季節の報だった。 

 私は実家の屋敷に桜があり、そもそも花見などで出かけたことがない。

 そんな話をしていると、やはり仕事が忙しい吉之助も最近花見には行かないという流れになり、どういうわけだか、共に珍しく休みだった日曜日に早すぎる花見に出かけることになってしまった。

 というより、私がはりきってしまった。

 花見に出かけるということ自体が物珍しいことであったし、今ならば入る勇気もなかった公園に出かけられるのではないかという子供のような期待も膨らんだ。


(だいたい、吉之助も悪いのよ)


 世事に疎い自覚はある。

 吉之助の方も敏いとは言い難いが、私と違って社会人だ。

 ニュースで一番桜が一輪咲いたからといって、近所の公園の桜が咲くとは限らないと、ひとことぐらい言い添えてくれても良かったのだ。

 

 芝生を囲む道沿いの桜は未だ固く花芽を守り、まるで凝ったように冬の残り香を漂わせている。

 晴れでもなく雨でもない、薄暗い曇りの空に相まって、私の心をますます憂鬱にさせた。

 

 幸い手にした水筒のコーヒーは温かいが、はりきって作った弁当はきっと冷えて凍っている。

 寒い場所で食べるよりも、家に帰ってしまった方がいいのかもしれない。

 自分の非を認めるのは非常に不愉快だったが、ぼんやりと何もせず公園を歩くよりいいはずだ。

 

 いざ、と振り返ってみると、私の後ろを歩いていたはずの男の姿がない。


(……まさか、帰ったのかしら?)


 弁当と水筒が重くなった気がした。

 意地を張った私に呆れて帰ったのだとしたら、それは彼を責めていいことかもしれない。


 でも、と何故か心がぐらぐらと揺れる。

 左右に視界を振り回して、自分より幾分か高い頭を探す。


(どうしよう)


 忽然と断りもなくいなくなった人間を探すほど手間なものはない。

 近所の公園とはいえ案内図を見た限り、この敷地はそこそこ広いのだ。

 小さいけれど森もあれば溜池もある。


 自分でもどうかと思うほど、不安と困惑で居てもたってもいられなくなってしまった。


「吉之助!」


「はい、麗子さん」


 思わず肩が飛び跳ねた。


 恐る恐る振り返ると、少し驚いたような吉之助が立っている。


「……驚かせてごめんね」


「驚いてない!」


 居ないと思って叫んだというのに、返事をされれば驚くに決まっている。

 けれど、ばくばくと騒がしい胸を抑えて私は吉之助の間抜けな顔を睨みつけた。


「どこに行ってたのよ」


「うん。見つけたからつい見に行っちゃって」


「何を?」


 訝る私に吉之助は「おいで」と手招いて、舗装された道を外れて落ち葉だらけの雑木林に入っていってしまう。

 落ち葉なんて、踏んだことが無かった。

 でも、「さぁ」と前を行く人に促され、私はつま先まで磨かれたブーツで落ち葉を踏んだ。

 

 がさり。


 がさり。


 ぱりぱりと靴底で音がする。

 体重のかかるヒールには、湿った土の匂いがついただろう。

 それでも私は、どういうわけだかこの踏み心地を嫌いにはなれなかった。

 時折私を振り返りながら進む吉之助の背中を見ているのも、嫌にはならなかった。


 しばらく雑木林を進んで、緩やかな傾斜を抜けると、


「これを見つけたんだ」


 少し丘の上に一本の桜があった。

 桜など、花が無ければ私には見分けがつかないが、この木はまぎれもなく桜だと分かった。


「花が」


 他の木の枝を退けて両手を広げるように枝を伸ばした桜の枝先に、小さな花がまばらについているのだ。

 遠くから見れば軽く雪が降ったようにも見えた。

 

「きっと、この公園で一番早い桜だよ」


 桜を見上げる私の傍で、吉之助は満足そうに言った。


「来て良かったね」


 そう笑って、私が大事に持っていた弁当と水筒を彼は取り上げてしまう。


「さ、食べよう」


 楽しみにしてたんだ、とお腹を空かせた子供のような顔をするので、私はさっきまでの不機嫌を忘れて思わず笑ってしまった。


「女の子にずっと重い物を持たせていたのに、現金ね」


「ごめんなさい」


 大の大人が小娘の私に謝って、苦笑する。

 この人はこういうことが出来てしまうから困ってしまうのだ。


「この桜を見つけたから、許してくれないかな」


 私は「いいわよ」とまるで女王さまのように鷹揚に頷いた。

 

 でも、本当は分かっている。

 私が、弁当と水筒を離さなかったのだ。

 二人分のランチを大事に抱えている姿を見ていて、吉之助は無理に奪うような真似が出来なかっただけ。

 私はそれだけ、この季節外れのピクニックを楽しみにしいていたから。


 吉之助が持ってきた鞄からレジャーシートとクッションを取り出して桜の下に陣取ると、私たちはようやく寒空の下でランチにありつくことが出来た。

 具のたっぷりと入ったおにぎりにかぶりつき、ホットコーヒーを飲みながら地べたに座って桜を見上げるなど、初めてだ。

 どれも野蛮で不作法と教えられてきたのに、土のついたヒールさえ可笑しくなってくる。

 

 かじかんでいた指先をホットコーヒーで温めていると、隣に座った人が膝かけを無遠慮にかけてきた。

 何も言わないからついそっと外された大きな手を目を見送る。

 すんなりとしているようでごつごつとした手は、きっと私の手をすっぽりと覆ってしまうだろう。


「満開になったら、また来ようか」


 手の持ち主は桜を見上げたまま、寒空の冷たい空気を楽しむように目を細めている。


「来年になったら麗子さんは卒業してしまうからね」


 まるで、私が来年にはこの世から居無くなるかのような口ぶりだ。


 もう二度と、吉之助には会えない場所に行ってしまうような。


 大学を卒業すれば、私は就職して吉之助に今まで借りた融資を返していくつもりだ。

 たとえ何年かかろうと、必ず。

 両親にも弟にも、吉之助当人にもこの決意は話していないから、早くその時が来ればいいと待っている。


 でも、今この時だけ吉之助の呟きに応えず、私はホットコーヒーの琥珀に独り言を落とした。


(もっと、冬が続けばいいのに)


 別れを告げる春なんか、来なければいいのに。




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