彼のこと
私が、二十歳になったとき、私の家は借金でクビが回らなくなっていた。
今まで何不自由なく暮らしてきた私たちは、唐突にやってきたこの災難を振り切れることができなかったのだ。
高円寺、といえば財閥のなかでも一目おかれている家柄で、稼ぎ頭ではないがその古式ゆかしい家系から輩出する人物は大方がアッパーに属するのが普通だった。
その高円寺本家が借金という驚くほど庶民的な災難に見舞われることになったのは、一重に私の父のためである。
高円寺家始まって以来の天性の気位の高さと人を見る目がなかった父は家柄目当てに寄ってたかってきた新興の金の亡者どもにあっという間に身包みを剥がされてしまったのだ。
あちこちにあった家や土地を売り払っても到底、積もりに積もった不良債権は処理しきれるものではなく、とうとう持ち株会社を全て手放すことになった。
ようやく私が事情を知ったのは、どこかの金持ちの後家として売られる算段がまとまった後だった。
「今日は大変だったわね、麗子さん」
典型的なお嬢様特有のおっとりとした口調で、友人の美由紀は私の向かいでアールグレイをすすった。
昼前の大学のオープンカフェにはあまり人はいないので、私は就職情報誌を堂々と広げた。ここの学生たちのほとんどは家業やコネで就職するため、こういう雑誌は好奇の的になるのだ。
「別に」
「あら、麗子さん。今日はお弁当ではなかったじゃない」
私が通う大学は、いわゆるお嬢様大学で、通う生徒のほとんどが不景気とはほとんど無縁の上流階級の家柄だ。最近、ようやく共学になったが、それでも金持ち大学と世間で囁かれてはばからない。
「……毎日作っているわけではないの」
それでも幾人か我が家のように落ちぶれる家もあるわけで。まるで貧乏神でも見るように友人のほとんどが私の前から消えていったが、この美由紀は残った少ない友人の一人だ。
「でも、山坂さんの分も作っているのでしょう? 山坂さん、きっと残念がっていらっしゃるわ」
美由紀は私が就職情報誌をめくっていた手を思わず止めたのを横目で見ながら、頬に労働を全く知らない指をあてた。
「お弁当を作るぐらいのことはしてさしあげて、いいと思うの。お世話になっているでしょう? 山坂さんには」
そう。私がこうしてどこかの金持ちのヒヒ爺に売り払われることなく大学生活を謳歌していられるのは、山坂吉之介のおかげだ。
山坂、というのは母方の姓で、本籍は赤木吉之助。親子三代で赤城グループを築き上げた赤木家の三男だ。そして、赤城グループは、父から財産をむしりとっていった新興企業の一つでもあった。子飼いのIT会社を通じて、不正取引を繰り返したツケを世間知らずな父に押し付けていたのだ。
それを、私の家に告げにきたのが、山坂吉之助だった。
他の不良債権ともども、自分が責を負う、と。
彼のおかげで、夜逃げは免れた。更に、高円寺の古い本家だけは確保してくれ、私と弟を大学卒業までは面倒をみるとまで約束してくれたのだ。
父は、当然と鼻を鳴らし、母は痴れ者と蔑んだが、私は、未だに納得できないでいる。
高円寺家を助けても何の見返りもない三男坊が、どうして私たちを助けてくれたのか。
「麗子さん、麗子さん」
美由紀の呼びかけに顔をあげると、自分の鞄の中で携帯電話が鳴っていることに気がついた。美由紀に詫びて、電話を取ると、
『麗子さん?』
「き、吉之助!」
先ほどまで頭の中にいた男の声を聞いて、思わず叫ぶ。だって驚くじゃない!
「ど、どうしたのよ」
驚いたことを隠そうとついふてぶてしい口調になるが、相手は気にする様子もない。
『麗子さん、今日の講義はいつ終わりそう?』
「講義? 五時には終わるけれど」
『そう、良かった。今日は外食でもどうかな。僕のおごりで』
穏やかな彼の言葉を聞きながら、不安になってしまう。
大学の学費から私の生活費まで、加えて私と弟には私費として毎月五万円が渡されている。大学から近いからと私が住んでいた別宅は売り払われてしまったので、他にマンションを探そうという吉之助に、私が同居を申し出た。彼のマンションは偶然にも大学からわずか一駅の場所だったから。そして、大学を卒業すれば、私はマンションを出て一人で働くことを約束している。
『毎日、夕飯も作ってくれているからね。たまには』
「それは、私の作る食事が不味いってこと?」
不安でたまらなくなる。
彼に寄りかかりきりで、私がなくなってしまいそうで。
『いつも美味しいよ。感謝してるんだ』
「だったら、今日も私が作る! いいでしょう?」
少しだけ、電話越しに彼の小さな笑い声が聞こえた。
『楽しみにしてるよ』
「人質も大変ね」
携帯を切ると、美由紀が面白がるように笑っていた。
そうだ。私は人質だ。
高円寺家が、山坂吉之助に差し出した大事な人質。
だから、彼も私を大切に扱うのだ。
父も言った。彼は三男坊のくせに野心家で、高円寺家の家名を狙って助力してきたのだ、と。
わかっているのに。
私は、夕食の献立を立てるべく就職情報誌を閉じた。