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お嬢様とわたし  作者: ふとん
長いエピローグ
18/19

春のあとのこと

『久しぶり、姉さん』


 元気だった、と電話から聞こえてきた弟の声は以前聞いたときよりもずっと大人びていた。

 大学一年となった弟の大貴は一人暮らしをしている。生活費や学費は援助されているけれど、大貴はすでにアルバイトをしている。旅費をこつこつと貯めて、大学の友達と旅行に行ってきたのだと私にお土産を送ってくれた。

 楽しそうに大学生活を語る弟の話が楽しくて、私はそれをいつも楽しみにしているけれど、今日の弟はそんな話をしてくれなかった。


『父さんや母さんから連絡あった?』


 大貴の言葉に私は少し押し黙る。両親とはもうかれこれ二年は会っていない。借金の返済について決めたことを時々手紙にして送るぐらいだ。ただし、自分の住所はいつも書かなかった。

 両親が高円寺の家に今も暮らしていることは知っているけれど、どんな暮らしをしているのかはまったく知らなかった。

 とにかく私は高円寺の家を出たかったから、親不孝な自分が今更両親と和解なんてできないと思っていた。けれど、接点を持たないのは薄情な娘だと罵られるのが怖いのかもしれない。最近はそう考えるようにもなっていた。


『……この前、俺、母さんから姉さんの居所を訊かれたんだ』


「え…?」


『元気にしてるのか心配してるって言ってたけど、ちょっと気になったから姉さんの住所は教えてない』


「そう……」


 考えてみれば母ももういい歳だ。子供を頼りにしたいと思ったのかもしれない。

 自分から縁を切るように生活してきた罪悪感がふつふつと沸いてきたけれど、弟は「姉さん」と強い口調で言う。


『あの人たちのこと、甘く見ない方がいいよ。――実は大学入るとき、俺も言われたんだ』


 大貴は大学受験の時、父は弟の決めた受験先に反対したそうだ。

 それがどういうことかと探ったら、父がすり寄っている名家のお嬢様が通う大学だった。


『あの人、俺をお嬢様の入り婿にしたかったみたいなんだ。同じ大学に入らせて接点作って、入り婿は無理でも最悪お嬢様の家の会社にコネ入社させたかったらしい。……あの人たち、本当に俺や姉さんを道具にしか思ってないよ』


 母と父は、よく言えば上流階級の申し子、悪く言えばその世界でしか生きられない人たちだ。その世界での地位や名誉が確立できなければ、きっと息もできないと思っている。そのためなら子供だって道具にする。それが子供の幸せだと信じているし、何より自分が幸せなのだ。

 そのことは、私も十分分かっている。


『姉さん、最近山坂さんと連絡とってる?』


 久しぶりに聞いた名前に、心が少しだけ竦むのを感じた。

 弟と決めた借金の返済は毎月欠かしていない。

 それに伴ったメールも。

 けれどそれだけだ。

 スマホの画面に映し出される無機質な文字は、彼の顔を映し出してくれるわけじゃない。


「……毎月連絡は欠かしていないわ。どうして?」


 かろうじてそれだけ答えると、大貴は少しだけ黙って「そっか」と肯く。


『この前、山坂さんと会ったんだ。大学生活は楽しいかって訊かれたよ。あの人、本当に借金取りらしくないよね』


 弟の軽い口調に、私も少しだけ口元をほころばせる。

 あの人は本当に変わらないらしい。


 そのあと、大貴はいつもどおり大学生活のことを少し話してくれ、「またかけるよ」と言って電話を切った。

 スマホを手にしたまま、ふー、と深い息が漏れる。

 きっとあの人の名前を久しぶりに他人から聞いたせいだ。


(元気そうなら、良かった)


 彼がちゃんと食べているのかが気になっていたから。

 ちゃんと寝て、食べて、煙草もほどほどにしているのか。気を抜けば弟に問いただしそうだった。

 でも大貴が彼のことを特に言わないのなら、きっと大丈夫。――そう自分に言い聞かせておく。


(吉之助)


 彼の名前を口に出さなくなって、もう半年が過ぎようとしていた。


 

 私が入社してから、季節は本当に瞬く間に過ぎた。

 数少ない新入社員の私は先輩たちから可愛がってもらえたけれど、怒られることも倍だった。

 怒られても頑張れたのは、喫茶店で葛原に叱られ続けた経験があるからだと思う。


 覚えることが多すぎて、泣きそうになることもあったけれど何とか形になりそうだと落ち着けた六月には、美由紀が結婚式に呼んでくれた。

 山麓の素敵なチャペルで開かれた結婚式は、美由紀の家柄からすればこぢんまりとしたものだったけれど「旦那様におねだりしたのよ」と可愛く微笑んだ美由紀は本当に綺麗だった。

 ブーケトスは参加してねと言われたけれど、結局私は少し離れたところに立ったので花束が届くことはなかった。

 政略結婚だと聞かされていたけれど美由紀は幸せそうで、旦那様は優しく彼女を見ていたからきっと幸せになるだろう。

 でもやっぱり美由紀の結婚式だけあって、上流階級の集まりでもあるから私は結婚式だけ参加してメッセージだけ預けて帰った。

 別に取り入ろうという魂胆なんてなくても、私のことを知っている人からはそう見られてしまう。だから、美由紀の迷惑にならないうちに帰ったけれど、その日のうちに美由紀から抗議の電話が来てしまった。


『お友達の結婚式にも最後まで参加できないなんて、そんな薄情だと思わなかったわ!』

    

 後日、旦那様も交えての食事会に来るよう約束させられた。

 美由紀は、本当に素敵な親友だと思う。


 喫茶店には今でも時々遊びに行く。

 葛原も就職して、今はマスターだけで切り盛りしているけれど、時々葛原とも鉢合わせする。


 今日もそんな日で、マスター特製のオムライスを夕食代わりに食べていたら乱暴にドアを開けて喫茶店に入ってきた葛原が、カウンターの私の隣にどかりと座った。

 マスターと私が葛原の様子に呆れていると、彼はイライラと持っていたカバンをカウンターの椅子に乱暴に置く。スーツ姿だから仕事帰りにそのままやってきたようだ。

 

「あー、もう! あのクソ上司!」


 今にも髪をかきむしりそうなほど苛立った葛原に、マスターが水を差し出すと彼は一息に飲み干してしまう。すると少し落ち着いたのか長く息を吐いて私を睨んだ。


「……ああ、もう何でお前いるんだよ」


「私の方が先客よ」


 私が憎まれ口を返すと、葛原は「ちっ」と舌打ちしてマスターにカレーを頼んだ。


「今日は特にご機嫌ナナメだね。どうしたんだい?」


 支度をしながらマスターに問われて葛原は溜息をつく。


「どうもこうも。上司と喧嘩した」


 不機嫌が冷めやらない葛原にマスターは「おやおや」と笑う。


「笑いごとじゃねぇだろ! ……この仕事、向いてねぇのかな」


 美大生だった葛原はデザイン事務所に就職した。でもデザイン案で上司とたびたび衝突するらしい。


「向き不向きは続けてみないと分からないよ」


 カレーのオーダーだったはずだけれど、マスターは葛原にコーヒーを出した。酸味のある香ばしい香りがふわりと漂って、葛原は少しだけ表情を緩めた。これは葛原が好きな銘柄のコーヒーだ。


「……仕事を続けるって、どれぐらいだよ」


 コーヒーには口をつけず、口を尖らせた葛原にマスターはのんびり答えた。


「うーん、十年ぐらいかな」


「それじゃあ、辞めるに辞められないだろ!」

 

「辞めて何をするつもりなんだ。うちでは雇わないよ」


 雇えない、ではなく、雇わない、と言われて葛原はうっと言葉に詰まった。


「さ、これでも食べて。また明日頑張って」


 マスターはようやく葛原の前にカレーを出してくれた。

 じっくりと煮込んだカレーはスパイスを深く溜め込んで、美味しそうな香りだけを放っているようだ。

 葛原はきっとこれが欲しくて今日はやって来たんだろう。

 何も言わずにスプーンをとって、彼はカレーを食べ始める。


「高円寺さんはここへ来ても愚痴を言わないね」


 マスターに水を向けられて、私は苦笑する。隣で葛原が嫌そうな顔をしたけれど。


「本当は愚痴を言いに来てるんですよ。でも、マスターの顔を見たら忘れてしまうの」


「口が上手になったね。すっかり、いいバイヤーさんだ」


 マスターはそう言って、オムライスを食べ終えた私におまけだとコーヒーとクッキーを出してくれた。

 私に淹れてくれたのは苦みの中に甘さがほんのり入り込んでいるような、ほの苦いコーヒー。


「……美味しい」


 コーヒーを飲んでぽつりと溢した私に、マスターは目を細めた。


「それが美味しいってことは、高円寺さんはもう苦みを知っているんだね」


 苦みを知っている。

 そう言われて少しだけ目を伏せた。

 苦いだけの思い出なら、ある。

 でもその先に残る甘味は何だろう。


 それはもう、きっと分からないままだろうけれど。


 カレーを食べ終えた葛原が途中まで送ってくれると言うので、駅まで一緒に歩くことになった。

 夜道は危ないとマスターと葛原に言われてしまったのだ。

 葛原はどこかぼんやりとした様子で何も話さなかったけれど、その時間は別に重くも軽くもなかった。彼はとても口うるさいくせに沈黙も大事にできる。見た目よりも彼は器用なのだ。

 でも駅が見えてきた頃、彼は立ち止まった。


「――なぁ、お前。後見人と何かあったのか?」


 じっと見つめられても、私には答えがなかった。

 だって、本当に何もないのだから。


「ないわ。何も」


 そう答えた私を葛原は穴が開くほどじっと見つめて、やがて「ま、いいか」とふっと息をついた。

 

「お前、また来いよ」


「え?」


「今度はお前の愚痴、聞いてやる」


 葛原はそう笑って歩き出す。彼について私も歩き出すと、少しだけ心が軽かった。

 誰にも何も言えないけれど、こうやって少しだけすくい上げてくれることがとても有り難かった。



 私の部屋から見える桜が淡く色づいた雪のような花をつけていた頃、一度だけ手紙が来たことがある。

 山坂吉之助、と律儀に差し出し人は書かれていたけれど、住所は私と彼が暮らしていた家の住所ではなかった。会社の住所だ。

 封を開けようとするだけで高鳴る胸を抑えて、手紙を開いてみるとそこには返済についての事務的なことが彼の字で丁寧に書かれてあった。

 振込先まで書いたあと、追伸のように「お元気ですか」とだけ書かれてあった。そしてその下にこれからの連絡はメールアドレスから、と添えてあった。

 早速メールをしてみたけれどその日に返信はなくて、返済日に返信があった。

 振込の確認と「仕事を頑張っていますか」と一言だけ。

 私はその一言だけに、何行もの返事を書いた。

 仕事は大変だけど楽しいこと。でも楽しいだけじゃなくて大変なことも多いこと。失敗して怒られて、少しだけ泣いたこと。弟が大学で楽しそうなこと。先輩にもらったお菓子が美味しかったことまで。

 それでも返信は「元気そうでよかった」の一言。

 その一言だけが欲しくて私は返信をする。

 部屋から桜が見えること。新緑がとても綺麗に見えること。夏は少し西日が暑いこと。近くの神社で夏祭りがあること。

 一緒に暮らしていた時、食卓で彼に話していたように返事を書いた。


 でも家具のお礼だけは言えなかった。

 本当はテディベアも捨ててしまおうかと思ったほど、彼との思い出に囲まれて苦しくなったから。

――それはきっと私の気持ちがまだあの家にあるからだろう。

 彼と暮らした長くも短くもない時間が、私の中で居座り続けている。

 それがとても辛くて、苦くて、大切だと思うから。

 

 でも私は、私の想いに最後まで気付けなくて良かったと思っている。

 もしもあの家にいるときに気付いていたなら、もっとみっともなく私は泣いて彼を困らせてしまった。

 たくさんの思い出をくれた彼を困らせることだけは避けたかった。

 

 彼に贈りたいのは感謝の言葉だけでいい。

 それ以外は、全部私の中に埋もれていけばいい。


 少しだけ時間が経って、私はそう思えるようになっていた。




 

 街路樹が夕焼けのように染まってきた頃、私は先輩との買い付けから会社に帰ってきていた。年に何度も海外出張のあるこの仕事はなかなかハードだったけれど、こんなに出張をさせて現地から直接買い付けをする会社も珍しいのだと先輩は教えてくれた。

 今回はヨーロッパのジビエに関する輸入品の交渉だった。私もホームステイをしたことがあるから知らないわけではなかったけれど、ベテランの先輩の知識には毎回驚かされてばかりだ。


 時差ボケも終わらないうちに出社して、めぼしい商品の報告書をまとめていると先輩から呼ばれた。


「あなたにお客さんが来てるんだけど」


 少し困り顔の先輩にどういう客なのか尋ねると、


「あなたのお父さんだって仰っているの」


「父が…?」


 会社に提出した書類の保証人欄にも緊急連絡先にも両親の名前はない。それを不思議に思われたかもしれないが、会社側からは何も言われていない。

 それに、父が私の会社を知っているとも思えなかった。

 どういうことなのか尋ねるべく、来客が待つという受付に行ってみると、久しぶりに見る父の姿があった。

 少しやつれたのかもしれない。けれどでっぷりとした体は変わらず、几帳面に髪を撫でつけて精いっぱい仕立てのいいスーツ姿だ。カバンなど持たないところが今でも変わらないのか、父は相変わらず手ぶらだった。

 父は私を見つけると駆け寄るようにしてやってきた。


「お前、こんな小さな会社に勤めているとは思わなかったぞ! 高円寺の名に恥じると思わないのか!」


 挨拶もないまま私の腕をつかむと、どこかへ連れて行こうとするので「待って」と押し留まると父はイライラとした様子で私を睨んだ。


「お前がいつまでも連絡を寄越さないから、人を使って調べさせて驚いたぞ。こんな会社にしか入れないとはな。やはり女の幸せは親が決めてやるべきなんだ」


「ちょっと待って! お父様。いったいどういう…」


「こんな会社、すぐ退職しなさい」


 父の言葉に私は耳を疑った。

 唖然とする私に父は言い募る。


「お前の結婚相手をやっと見つけた。高円寺の娘としてちゃんと役目を果たすんだ」


 ようやく彩りを持った私の世界が、灰色になる音を聞いた気がした。



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