あの日のこと
あの頃、僕はきっといつ死んでもおかしくなかった。
仕事の一環とはいえ、自分の仕事はうんざりするほど退屈で無意味だと思っていた。
休憩所で秘書に吸い過ぎだと言われる煙草に火をつけると、深く毒を吸い込む。その時間だけがまだ自分が生きているのだと思える時間だった。
人生を砂のようにさらさらと取りこぼしている。そんな風に思えてならなかった。
手に残るのは一粒の砂だけだろう。
長くアメリカに住んでいた僕を連れ戻した父は、僕から色々なものを奪った。仕事、会社、仲間。僕を形作っていたものを、今まで認知していたのかさえ怪しかった僕からすべて奪って日本に連れ戻し、自分の会社の歯車に組み込んでしまった。
それを疎んだところでどうしようもないと分かっていたけれど、家すら持たずに仕事だけに没頭している自分がもはや生きているのか、死んでいるのか。それすら分からなくなってきていた。
だから、会社の付き合いだというパーティに連れてこられても、おざなりに挨拶を交わしたらすぐに帰るつもりだった。
山の手の豪邸でのパーティには赤木のような成金だけでなく、由緒正しい上流階級のお歴々も顔を出していて、父や兄が顔を売りたいと乗り込んだのも分からないではなかった。でも僕には関係のない話だ。
(そろそろ結婚しろとうるさかったな)
きっと結婚ですら自分の自由にはならない。
そう思えば、体の中は煙草の煙を貯め込むだけの虚のようになっていく。
そうやって退屈なパーティに嫌気がさしていた僕の目の端に、何人かの若い男に囲まれて連れられている女の子を見つけた。
――よくない予感がした。
すぐ煙草の火を消して後をつけたのは、本当に気まぐれだった。
何もなければそれでいい。それぐらいの気持ちだったというのに、彼らは人気のない部屋に入り、しばらくして悲鳴が聞こえた。
咄嗟に入ったのは、僕にわずかながらの道徳心があったからか。
女の子が男に手を上げられそうになっている姿は本当に嫌気がさした。
迷わず男の手を止めて、出しうる限りの大声で使用人たちを呼んだ。
「誰か! 誰か来てくれ!」
若い男たちはこちらにつかみかかろうとしたけれど、人が来る方が早い。
どうしたのか、と駆けこんできた人たちは一目見ただけで現状を理解してくれたようで、若い男たちは人が来たことで散り散りに逃げ出そうとするが、野次馬に阻まれて逃げ出せない。
その様子を後目に男に襲われそうになっていた女の子の前に膝をつく。
こんな時、声をかけるのは女性がいいと思われたけれど、誰もいないよりかはいいだろうと思ったのだ。
床に押し倒したりするなんて僕ではまったく想像もできないほど、綺麗な女の子だった。
長い亜麻色の髪、華奢な手足、女の子らしいシフォンのドレスを身にまとった綺麗な娘。箸より重いものなんて持ったことはないだろうその手は、小鳥のように震えている。
でも、彼女は泣いていなかった。
(この子は…)
つい最近まで不良債権業務で関わっていて業務の一環として顔を見たことがあった。
彼女は高円寺麗子。
僕が債権者として関わった名家のお嬢様だった。
投資に失敗し不良債権をつかまされた高円寺家にはもう資産らしい資産など残っていない。残っているなら名家という名前だけだろうが、今夜のようなパーティに参加する余裕があるとは思えなかった。
どうしてこんな場所に、と思い至って資料の中で長女の婚約させようとしているという情報を思い出す。もしかしたら、彼女は金持ちとの結婚のためにこんなパーティに連れ出されてきたのかもしれない。今どき時代錯誤なことだと思うが、彼女たちは必死だ。
家や家族を守ろうと思ったことのない僕にとっては、不可思議にしか見えなかったけれど。
それでも、女の子がこんな風に物のように弄ばれていいはずがなかった。
「……怪我はない?」
他にどう聞いていいものか分からず、なるべく穏やかに尋ねてみるとお嬢様は震えていた手をきつく握りしめた。
「……じゃない」
「え?」
「……私は、ペットじゃない」
顔を上げた彼女は歯を食いしばっていた。
目にはやっぱり涙はなくて、その瞳は怒りが満ちていた。
――ペット。
誰がそんなことを言ったのか。
こんな風に誰も彼女を貶めていいはずもないのに。もちろん、彼女自身でも。
そのことにわけもなく腹が立って、それでも彼女に何か声を掛けたくて、僕は口走っていた。
「確かに君は猫には見えないね。君は人間だよ」
僕の咄嗟の言葉に彼女は一瞬怒りを忘れたように目をぱちぱちとさせて、僕を見た。
そして思わず、といったように苦笑した。
「……変な人ね。あなた」
怒りを少しだけ忘れたその瞳は、とても綺麗だった。
(ああ、綺麗な子だ)
自分のやったことは業務だけれど、彼女の人生を壊したのは間違いなく僕だ。
だから、せめて罪滅ぼしができないだろうか。
騒ぎを聞きつけて彼女を迎えに来た父親は彼女をひどく叱った。
――私はペットじゃない。
そうだ。彼女はペットじゃない。
理不尽なことを聞き入れるだけの犬じゃない。
犬だって理不尽な主人の言うことは聞かない。
(あの子が、少しでも幸せになれば)
僕にはどれが彼女の幸せかなんて分からない。
(でも何か、できるはずだ)
それが何かは分からなかったけれど、それでも何かしたいと強く思った。
――これが彼女、高円寺麗子を初めて認識した日の出来事。
もしかしたら、僕は僕の不遇を彼女に重ねていたのかもしれない。
他人によって理不尽に己の価値を決められてしまう、そんな境遇に怒れる彼女が羨ましかった。
僕はろくな抵抗もせず、その運命の歯車に組み込まれてしまったから。
両親が離婚したときから僕は一人で生きてきた。
子供の頃から他の家族を見ていても羨ましいとも思わなかったから、僕はそういった感情が抜け落ちているのかもしれない。
僕の人生は諦めで出来ている。
本当は、仲間や仕事を捨てたのは僕自身なのかもしれない。
僕の諦めが招いたことだとしたら、彼らの不幸は僕のせいなのかもしれない。
けれど彼女は違う。
せめて誰かが、例えば僕でもいいから手助けをすれば彼女はきっと自分の運命を自分ものにできるのではないか。そう強く思った。
どうしてそこまで彼女のためになりたいと思ったのか、そのときの僕には分からなかったけれど。
準備のために再び会いに行った彼女は、あの日声をかけた僕のことを憶えていなかった。
当然だ。あの日、彼女はひどく怖い思いをしたはずだから。
だから僕は借金取りとして彼女と出会い、彼女のためにできうる限りのことをした。
でも、ただ一つだけ誤算だったことがある。
僕が麗子さんと同居することになったことだ。
わざわざ麗子さんの大学に近いマンションを借りたというのに、僕までそこに住めと業務命令されてしまったのだ。
どこからか僕が麗子さんの援助をしていると知った父からの、実質的な命令だった。
会社に住んでいた僕はあえなく追い出され、慣れないマンションに移り住むことになってしまった。
他人との同居自体は長年シェアハウスで住んでいた経験からどうということはなかった。でも彼女は違う。基本的に同居人には不干渉というルールをたやすく破った。
朝の弱い僕を叩き起こして朝食を食べさせ、帰宅すると夕食を作って待っていてくれる。お嬢様ながら炊事洗濯は完璧だった。
彼女のおかげで二人で暮らす家は、同居人というには甲斐甲斐しく、家政婦というには他人行儀でもない不思議な環境となっていった。
彼女との優しい空間はひどく居心地がいい。
それは、遥か昔に忘れていた寂しさを思い出すほど。
孤独は恐ろしいものだ。
でも僕はずっと孤独と一緒に生きてきた。
そんな僕に彼女は思い出させる。
人は一人では生きていけないのだと僕に思い出させる。
それが苦しくて、切なくて、優しかった。
僕はきっとこれからも一人で生きていくというのに。
彼女のおかげで彼女がいない時間をこれからどう過ごせばいいのか分からなくなっていた。
麗子さんは僕が触れてはいけない女の子だ。
綺麗で、優しくて、決して触れてはいけなかった。
絶対に手に入らないものに、どうしてそばに居て欲しいと願えるだろう。
例えば両腕を切り落としてしまえば、僕は彼女を欲しいと願わなくなるだろうか。
それでもそばに居て欲しいと願ってしまうだろう僕はいったいどうすればいいのか。
僕はただ、時間と一緒に走っていく彼女を見送りたかった。
でも彼女の方から一人暮らしをしたいと言い出してくれなければ、僕はどうやってもそれを言い出せなかっただろう。
僕にはテディベアも彼女からの言葉もいらない。
僕には思い出がある。
それだけで良かった。
それがあれば、生きていける。
僕は全部砂のように取りこぼして生きていく。
手に残る最後の砂の一粒はきっと美しいのだから。