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お嬢様とわたし  作者: ふとん
お嬢様と彼の日々
16/19

春の少し前のこと

 風邪の療養を終えるともうクリスマスは終わっていて、あっという間に年は明けた。

 年を明けると入社の準備や卒論の提出に入り、一通り終えると気が付けばバレンタインも終わっていた。

 バレンタインは、ガトーショコラを振る舞った。

 喫茶店のマスターや葛原、美由紀、田上さん、もちろん吉之助にも。

 吉之助は殊の外このガトーショコラを喜んでくれて、ホワイトデーは楽しみにしてと言い添えた。


 吉之助は変わらない。


――変わらなかった。


 私が就職を決め、弟とも話し合って吉之助に今まで面倒を見てくれたお金を全額返していくと話しても、そして就職を機に私が一人暮らしをすると決めても、彼は何も言わなかった。


 ただ笑って、


「麗子さんが決めたことなら、僕はそれが一番いい」


 そう言って、何も言わなかった。


(きっと、何とも思わなかったのよ)


 クリスマスイブの前日に熱に任せて話した私の痛い思い出を、彼はただ黙って聞いていた。

 何も言われなかったことは、むしろ感謝すべきなのかもしれないけれど、私は彼から何か欲しかったのかもしれない。軽蔑でも同情でも、何でもいいから彼から何かが欲しかった。

 けれど、結局吉之助はいつものように苦い微笑みをくれただけ。


 吉之助には話していないことがある。

 私を助け出してくれた人のことだ。

 抵抗していた私が打たれそうになったところを、男の腕を止めて人を呼んでくれた人がいる。

 気が動転していた私は誰の顔も覚えていない。でも、助けてくれたその人がひどい煙草の匂いをまとっていたことだけは覚えている。

 煙草嫌いの私がその苦い匂いに何故か落ち着いて、何とか事情を話すことが出来たのだ。父が愛煙家だったせいかもしれないけれど、私を迎えにきた父はそのあと私をひどく叱ったから結局その煙草の匂いの思い出は苦いままだ。

 いつかその人にお礼を言いたいと思っていたけれど、あの世界を離れる私には無理難題となってしまった。

 きっと、もうお嬢様の世界には戻らない。

 私はこれから私となるのだ。

 お嬢様ではない、私に。



 冬の冷たさが先端から溶けるように温かくなってきた頃、私は一人暮らしのための部屋を借りた。ここでも吉之助に保証人になってもらってしまったけれど、これだけは彼が譲らなかった。

 でも敷金や礼金で家具を買い揃えるようなお金は残らなかったので、私は手持ちの荷物だけを持ってマンションを出ることを決めた。

 引っ越しは葛原が軽トラックを出してくれると約束してくれた。


 部屋の片付けはほとんど一人でやった。

 美由紀が手伝いに来てくれたけれど、忙しい吉之助や田上さんの手は借りなかった。

 吉之助が揃えてくれた家具は全部置いていく。どのみちこの広いマンションでの部屋に入っていた家具だ。単身者用の狭いアパートには入らない。

 去年のクリスマスにもらったテディベアも連れて行かない。


 綺麗に使っていたつもりでも埃は溜まっているもので、私は荷物をまとめると同時に大掃除もやることにした。

 自分の部屋から始まり、リビング、キッチン、バス、トイレ、ベランダまで掃除して、最後に残ったのは吉之助の部屋。

 家事をしていたから別に入ることを咎められはしないし、抵抗もないけれどドアノブを押すには少し力がいる。

 掃除機を手に入ると、見慣れた書斎が目に入る。黒を基調とした広い机にキャスター付きの椅子、壁面には本棚。奥にはベッドがあって、この家に来た頃はよく吉之助を起こしに行ったものだ。

 備え付けのクローゼットから寝ぼけている吉之助に服を出して無理矢理押し付けたこともある。

 朝、カーテンを開けて起こすと寝ぼけた声で「おはよう」と聞こえる。

 どうして私がこんなことを、と思いながらも必ず返ってくる挨拶に私は安堵していた。


(ちがう)


 私は吉之助の返事が嬉しかった。

 ただ、おはようと返されるだけでその日一日が楽しいと感じられるほど。


 ただそれだけで、私は救われていたのだ。


「――麗子さん?」


 いるはずのない部屋の主の声がして、はっと振り返ると吉之助は目を見開いた。スーツ姿のままだ。もう彼が帰ってくる時間だったのだろうか。


「どうしたの、麗子さん」


 吉之助は慌てたように近寄ってきて私の目じりをしきりに拭う。すると彼の指先が濡れた。


「……え?」


 泣いている。

 いつのまにか、私は泣いていたらしい。


「あれ、私、どうして……」


 自分でも涙をぬぐってみるが、一向に止まらなかった。


「……僕の部屋まで掃除しなくていいよ、麗子さん。ちょっと休もう」

  

 そう優しく私の手を引く吉之助を見て居られなかった。


(だって)


 彼は私が出ていくと言っても、顔色一つ変えなかったのだ。

 寂しげな顔一つ見せなかった。


「……吉之助は、私がいなくてもいいの?」


 一度溢した言葉は戻らないというのに、私は止めることができなかった。


「あなたにとって、私って何だったの……?」


 まるで恋人を責めるような言葉だ。

 けれど吉之助は私の恋人ではないし、友達でもない。

 私にとって同居人という枠はとても曖昧で、あまりに優しかった。

 あまりに居心地が良すぎて、自分の立ち位置を見誤りそうになる。


「……麗子さん」


 大きな手がためらうように私の両肩をくるむようにそっと触れる。

 涙の向こうで吉之助が困ったように微笑んだ。


「君は、高円寺麗子さんで、僕は――」


 と、吉之助の指がわずかに震えたのは気のせいか。

 けれど、今にも泣きだしそうな顔で吉之助は笑った。


「君の借金取りだよ」


 長い指が私の目じりに溜まった涙を拭う。

 そうやって債務者の涙を優しく拭う借金取りが他にいるだろうか。

 そんなことがおかしくなって、私は思わず笑ってしまった。

 でも、同時に思い知る。


 私はどこまでも彼にとって債務者なのだ。 

 


 ※


 

 入社式を一週間前に控え、私は引っ越しの日を迎えた。

 前日は喫茶店をマスターが貸し切ってお別れ会を開いてくれて、美由紀や吉之助も参加した。

 マンションでの最後の夜は美由紀とおしゃべりして過ごして、翌朝はいつものように吉之助を起こして朝食にした。


「――長いあいだ、お世話になりました」


 荷物を運んでくれる葛原の軽トラックに一緒に乗せていってもらうから、出勤前の吉之助にそう挨拶すると彼もあっさり頷いた。


「こちらこそ。麗子さんの料理、本当に美味しかったよ」


 吉之助は私に振り返っていつものように穏やかに笑った。


「大変かもしれないけど、麗子さんなら何でもできるから頑張って」


 無責任にも聞こえる言葉なのに、本当に勇気づけてくれるから吉之助は不思議だ。

 だから私も最後ぐらいはひねくれずに笑った。


「ありがとう、吉之助」


 私の顔を目を細めて見遣ったかと思えば、吉之助は「行ってきます」と出勤していった。


「行ってらっしゃい」


 もう私が出迎えることなんてなくなるのに、彼は私を振り返らなかった。


――こうして、私と吉之助のお別れは拍子抜けするほどあっさりと終えた。

 

 債権者の彼とはまったく会わなくなるわけではないが、もう一緒に暮らすことはないだろう。

 それが分かっているのに、驚くほど心が凪いでいるのはどうしてだろう。

 吉之助の心が、私にはほとんど向けられていないと分かったからだろうか。


 私は朝食の後片付けをしたあと、荷物を積み込んで待っている軽トラックに乗り込むために、誰もいなくなったマンションを後にした。 


 一人暮らしをするアパートは、吉之助のマンションから車で三十分ほどのところだ。

 入社する会社とスーパーが近い。

 二階建ての隅から二番目の部屋で、バストイレ、キッチンが廊下沿いに備えられたワンルーム。周りは住宅街ということもあって静かで、窓からは近所の公園の桜が見える。


「早く鍵開けろよ」


 荷物運びまで手伝ってくれた葛原に急かされて、大家さんから渡されたそっけない鍵で部屋を開けると、私は思わず立ち止まった。


「おい、何やって…」


 私の後ろで荷物を抱えて立ち往生していた葛原も、私越しに部屋の中を見て言葉を無くした。

 昨日まで何もなかったはずの部屋には、コンパクトながらも過ごしやすそうな部屋が出来上がっていた。

 オフホワイトを基調とした家具は、私がマンションで使っていた家具を少し小さくしたようだった。レース付きの水色のカーテン、伸縮できる丸いテーブル、一脚だけの椅子、鏡台付きのチェスト。以前使っていたベッドよりも一回り小さいベッド。

 呆然となりながらも、まさかとキッチンを覗いてみると、電子レンジや冷蔵庫だけでなく私が買い集めたものと同じ鍋や包丁、香辛料まで入っていた。

 そして部屋の奥のラグの上には、置いてきたはずのテディベアが座っている。

 テディベアは大きな花束を抱えていて、メッセージカードが添えられていた。


“ホワイトデーのお返しに”


 山坂、と署名の入ったカードを見つめていると、笑いだしたくなるというのに結局出来なかった。  

 本当なら、ホワイトデーのお返しが大きすぎると笑い飛ばしてやりたいのに。

 朝には確かにリビングにいたはずのテディベアがここにいるということは、吉之助がここにやってきたのだ。田上さんに任せたかもしれないのに、なぜか私はそう思った。

 吉之助は確かに保証人になってくれたけれど、この部屋には一度も来ようとしなかったのに。


(……ああ、私ったら、なんて馬鹿なの)


 こんなこと、気付いてはいけなかったのに。

 ちゃんと蓋をしておいたはずなのに。


(今更気付いても、仕方ないのに)


 それでも零れ落ちていくことを止められないものなのだろうか。


 いつからかなんて分からない。

 けれど、気付いたらどうしようもないと分かっていた。

 どうしようもないと分かっていたから、気付いてはいけなかった。


――決して報われないと分かっているから。


 彼は債権者で、私は債務者。

 最後までその関係は変わらなかった。


(あの人が……吉之助が好きだなんて気付いても、もう遅いのに)


 ここでいくら泣いたところで、もう涙を拭ってくれる人はいない。

 彼は、テディベアの思い出さえもいらないと私に寄越してきたのだ。


 告げる前に終わった想いを恋と呼んでいいのか分からない。

 けれど、泣くことぐらいは許してほしい。


 春の風を感じながら、私はテディベアを抱きしめた。





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