残暑のこと 3
少し迷うような顔をしたあと、田上は私を車に乗せてくれた。
「……私も、あいつはあなたと一度会った方がいいと思うので」
少しだけ砕けた言い方に、田上の吉之助への親愛が見て取れる。
彼は本当に、吉之助を心配しているのだ。
私は田上と共にマンションを出た。
田上の車の後部座席に乗せられて会社へ向かう道すがら、私は初めてこのマンションへ来た日のことを思い出していた。
あの頃の私は、荒んだ疑心暗鬼に囚われていた。
多少の虚栄心はあれど、信じていたはずの両親から聞かされた政略結婚。それから会社の負債。やってきた債権者からの明瞭な説明は明らかに父が騙されたことを示していて、子供の私には全てが真っ暗に見えた。
大学は諦め、どこかの金持ちにでも貰われていくのが幸せだと両親に説かれたりもした。
――あの頃の私は何の未来も見えなかった。
そんな私を家から連れ出したのは、吉之助だ。
不良債権を処理してくれるどころか、家族の生活を保証してくれ、弟と私の学費まで請け負ってくれるという。
そうして弟は寮生活に入り、私は大学から近いという吉之助のマンションに住むことになった。
思えば最初、不思議に思ったものだ。
真新しいマンションに使われたのかも怪しい家具、調理器具は新品で、その部屋はおよそ人が住んだ形跡がなかった。
吉之助に本当に住んでいるのかと問えば、彼は仕事が忙しくてほとんど帰らないと答えた。
だが、田上の言葉を信じるなら私と暮らすために揃えたというのだから、今なら肯ける。
しかしその頃の私はさして疑うこともなく、吉之助との生活を始めた。
どうでもよかったのだ。
吉之助がどういうつもりで自分をマンションへ連れ込んだのかも考えたくなかった。
私が彼のマンションへ行くと決まると、両親は口々に人質を取るつもりかと吉之助を詰った。両親にしてみれば私は大事な道具だったので、どこへもやりたくなかったのだ。
その部屋は社屋の上部ではあるものの、まるで地下のように暗く奥まっていた。
まだ昼間だというのに部屋の前には誰も通らない。
田上が私を促してドアの前まで案内してくれるが、それ以上は何も言わなかった。
連れられるままドアの前に立ってはみたものの、部屋の中からは昼間の活気は感じられない。ただそこだけが海の底にでも沈んでしまったようで、ノックしようとした私の手さえ拒むようだった。
(吉之助)
彼が、どんなことを思って私を助けてくれたのかも、優しくしてくれたのかも分からない。
いつだって彼は優しく笑っていてくれたのだから。
――あのキスのことも。
(どうして、あんなこと)
堂々巡りに考えていても、私一人では答えなんて出ない。
答えを出すのは、吉之助と一緒に。
小さく深呼吸をして、ドアをノックする。
コンコンコン。
控えめなノックだったが、応えは帰ってきた。
「――着替えなら、ドアの前に置いておいてくれ」
ドア越しにくぐもった声が冷たかった。
今まで聞いたこともない吉之助の声。
思わず怯みそうになったけれど、大きく息を吸う。
「……吉之助」
意を決したにしては小さな声だった。
「私です。麗子です」
細い糸を垂らすような小さな声だったが、
ガッシャン!
ドアの内側から物が倒れるような酷い音がした。
心配になって触れようとしたドアは、私の手が触れる前に鍵が外れて僅かに開く。
ふわりと漂ってきたのは鳥肌が立つほどの冷気と、ひどい煙草の臭い。
「……吉之助?」
暗い隙間に問いかけると、それは閉じかけたが私は咄嗟に指を差し入れる。
「あっ」と低く息を飲む声が聞こえてドアは私の指の手前で止まった。
私がドアに手をかけると、諦めたような溜息が聞こえてくる。
「……危ないよ、麗子さん」
人ひとりがやっと通れるような道を開けて、吉之助が苦笑する。
久しぶりに見上げる彼は思っていたよりも身綺麗だった。
髭は剃ってあるし、髪だって整えてある。上着はないもののワイシャツは綺麗だ。きっと田上のおかげだろう。けれど廊下の光を僅かに浴びる顔色は悪い。頬だって少しこけたように思う。何より、
「ひどい臭い」
コーヒーの苦い臭いを何倍にも蒸して焚きしめたような臭いが吉之助にこびりついている。
顔をしかめると吉之助の眉はますます下がった。
「――ごめん」
「……それは、何に対して?」
ケンカをしたいわけじゃないのに、私の声は険を含んで止まらない。
私は、決して怒りたいわけじゃない。
「あなたは何に対して謝りたいの? 今ここで私の指をドアで挟みかけたこと? 煙草の臭いがひどいこと? 一か月以上もろくに家に帰ってこなかったこと?」
吉之助を睨み上げると、彼の顔がこの上もなく引きつった。
「私に、あんなことをしておいて一人で逃げたこと!?」
あんなキスをしておいて、私の信頼を裏切って、一人で逃げて、私に優しくして、何を考えているのか分からない。
(違う、こんなこと言いたいわけじゃないのに)
久しぶりに吉之助の顔を見たから、何を言っていいのか分からない。
(どうして)
どうして、吉之助の前だと私は子供みたいになってしまうのだろう。
「……あんなこと?」
田上の低い声に思わず振り返ると、彼は眼鏡のブリッジを人指し指で押し上げながらこの上もなく不機嫌そうに口元を歪めていた。
「山坂、貴様、お嬢様に何を…」
「違う! 誤解だ! ああ、いや何かしたのは間違いないけど、誤解だからな!」
私以上に混乱した様子の吉之助は声を張り上げて何かを弁解して、「あとで説明するから!」と田上に言い置いて私に向き直る。
「……麗子さん」
静かな声に混乱の波が静まってきて私は改めて吉之助を見上げる。
すると途端に奇妙な居心地の悪さが沸き上がって視線を思わず下げると、吉之助が不意に屈んでくる。
視線を合わせた彼の視線は不思議な色をしていた。
「心配かけて、ごめん」
困ったような、ほっとしたような、色々な感情が混ざり合って、溶けていく。
それは私も同じで、二人で万華鏡の中に飛び込んだようだ。
どの感情も一瞬の光のようで掴めなくて、それでも心の中に確かにある。
「……今日は、帰ってくるのよね?」
吉之助の目を見つめたまま問うと「うん」と彼は肯いた。
「帰るよ」
吉之助が帰ってくる。
それだけで私の心はふわりと温かくなる。
「ご飯、作るわ」
そうだ、と田上を振り返って、
「田上さんも、予定がないなら食べに来て」
そう言うと難しい顔をしていた田上は少し目を丸くしたものの、いつもの調子で「お嬢様がよろしければ是非」と返してきた。
「……今日は早めに仕事を終わるよ。終わったら連絡する」
吉之助を顧みると彼はいつものように微笑んでいた。
けれど、「麗子さん」と次に呼んだ彼はその笑みを苦くする。
その瞳には見覚えがあった。
――あの日の彼だ。
飢えに飢えた、獣のような。
あ、と思った瞬間には長い腕が私の体を覆い、気付いた時にはワイシャツの胸に押し込まれていた。
抱きこまれたのだと気付くのはその半歩あと。
ぎゅうぎゅうと音がしないかと思うほど、私の髪を乱すように、しがみつくように肩に回された腕は硬く、息をするたびワイシャツに染みついた煙草の臭いが鼻をついた。
苦いその香りに思わずシャツの腕にすがりついたものの、それ以上引きはがそうという気にはなれなかった。
どくどくと唸るような心臓の音が私を放すまいとしていて、容易には離れないだろうと思った。
その心臓の音が、吉之助の物か私の物か分からなくなった頃、ようやく彼がふ、と息を吐く。
「……ごめん、麗子さん」
耳元で囁く声が苦い。
「これで、最後にするから」
最後?
彼の顔を見ようと身を捩るが、腕に邪魔されて叶わない。
どれが最後ということだろう。
「……ちゃんと、帰ってくるのよね?」
不安になって、吉之助の肩に尋ねると「うん」と彼は応えて、
「麗子さんのご飯が食べたい」
今度は「うん」と私が肯くと、ゆるりと腕が私から離れていく。
苦い香りが遠ざかって、冷たい指が私の頬を筆でなぞるように滑って去る。
その指を追いかけていくと、
「お土産も買って帰るよ」
いつものように吉之助が微笑んだ。
そのことにほっとしながら、私も見ないふりをした。
吉之助は帰ってくる。それでいい。
(だから)
苦い香りのことは忘れてしまえ。
それがどれほど胸を切なく、しめつけても。