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お嬢様とわたし  作者: ふとん
お嬢様と彼の日々
12/19

残暑のこと 1

 その唇が落ちてきた時、私はそれをぼんやりと見つめていた。


 時間の全てが緩やかで、私と彼以外は止まっているのかと思うほど静かで、それでいて私は指一つ、言葉の一つも動かせなかった。

 黒い影となった彼が私に重なるように唇に触れると、甘いような苦いような香りが私の中に広がった。

 それが彼の香りだと気付いたのは、止まっていた時が動き出すように雨音が再び部屋に戻ったあと。

 柔らかく薄い唇で急に小さくなったような自分の唇をなぞられ、私は這い上がる何かに悲鳴を上げた。

 

 

――こわい!



 あとから思えば、それは恐怖とは少し違う感覚だったが、その時の私はそれを恐怖だと思って、彼を振り払った。



パン!



 闇雲に振るった平手が彼の頬を弾き、私はそのことにも怯えた。

 そして震える私が見上げると、彼は別人のような顔で私を見つめていた。


 飢えに飢えた、獣のような顔で。





――それが、吉之助とまともに顔を合わせた、最後の記憶。






 梅雨を過ぎ、夏を迎えると私は本格的に就職活動を始めた。

 名門とはいえ、お嬢様学校からの就職はどこへ行っても奇異の目の洗礼を受けたけれど、次第に面接までこぎつけられるようになった。

 忙しい合間にもアルバイトは休まなかった。

 マスターや葛原は就職活動のアドバイスをくれたし、常連客からも助言をもらえたからだ。

 そうしているうちに、私の夏は瞬く間に終わった。

 ようやくカフェでお茶を飲むぐらいの時間がとれたのは、まだ暑いが木々の色が変わる頃になっていた。

 秋に入るとそろそろ修士論文に取りかからなければならない時期だからと、葛原にアルバイトを出勤禁止にされたのだ。



「――では、麗子さん。夏の間ずっとお仕事をされていたの?」


 大変、と目を丸くしたのは友人の美由紀だ。

 大学のカフェで久しぶりに会った友人は、以前と変わらず私に微笑んでくれた。


「ええ。……まだ内定はもらえていないけれど」


 同年代の学生は私よりもっと早くから就職活動を始めているのだ。

 かといって諦めるわけにはいかない。


「アルバイトも続けたかったのだけれどね…」


「就職活動も忙しいのに、論文まで抱えていては倒れてしまうわ。休ませてくれるなんて、良い雇用主さんなのね」


 のんびりとした美由紀の指摘は的を射ている。

 仕事に関しては、葛原はとても良い上司だ。口はとても悪いのだが。


「今は山坂さんもお忙しいのでしょう? あなた一人で暮らしているなんてとても心配だわ」


 何気ない美由紀の言葉に私は口を噤んだ。


 そう。あの日以来、吉之助はマンションにまともに帰って来なくなったのだ。

 最初の頃は着替えを取りに戻ることはあったようだが、最近ではそれさえ疎うのか秘書にその役目を押し付けている。

 まるで、私のことなど忘れてしまったかのように。


「……お仕事がお忙しいのよ。きっと」


 私の様子を気遣ってか、美由紀は優しい声で言ってくれた。


(心配なんて、かけたくないのに)


 社会に出れば、私は当然一人だ。

 今、その予行練習をしているのだと思えばいい。


「そうね」


 精一杯の明るい声を出してみたけれど、美由紀は何も言わずに微笑んだだけだった。


「――そういえば、美由紀さんは卒業したらどうなさるの?」


 私の質問に美由紀はふんわりと微笑む。


「私は、婚約者と結婚するのよ。お父様が決めたの。どこかの会社の役員らしいわ」


 今度顔合わせするの、と美由紀はのんびりと言う。


「何もお話しできなくてごめんなさい。大丈夫よ。お相手の方は三十歳らしいからそれほど年も離れていないわ。お姿もね、とても格好いい方らしいの」


 何も言えなくなった私の肩を美由紀はぽん、と撫でた。


「麗子さんほどではないけれど、私もお料理が好きなのよ。旦那様には料理が美味しいって言ってもらいたいから、今、お料理教室に通っているの」


「美由紀さん…」


 ようやく顔を上げた私は、どんな顔をしているのだろう。

 ほんの一年前なら、私も美由紀と同じく卒業と同時に顔も知らない誰かと結婚していたかもしれない。

 吉之助と出会わなければ。


「最近ね、思うの。幸せか不幸せかなんて、誰にも決められないことだと思うのよ。――確かに麗子さんのお家の事は大変だと思うわ」


 でもね、と美由紀は私をその瞳で見据えた。


「あなたが特別不幸だ、なんて私には思えないのよ。もちろん、私だってそう。私が特別幸せだとは思えないの」


 だって、と微笑む美由紀がとても綺麗だった。


「麗子さん、今のあなたはとても楽しそう。だから、自分の運命がつまらないことだらけなんて、思えないのよ」


 美由紀はそう言って、カップに残っていた紅茶を飲みほした。


「お互い幸せになりましょう。――さしあたって、麗子さんは山坂さんに会いに行くべきだと思うわ」


「え?」


 ぼんやりと返した私に、美由紀は素晴らしい悪戯を思いついたように「ふふふ」と笑う。


「自分の顔は鏡を見なければならないものね。だから、鏡の代わりに麗子さんの顔を見ていた私が教えてあげる。今のあなたのまま、山坂さんに会いに行くといいわ」


「それは…」


 まるで夏のあいだ私が散々悩んだことに、いとも簡単に答えを出されてしまったようだった。


「がんばって」


 すべて証明は終わったかのように美由紀は席を立ち、「式には出てね」と言い残して帰っていってしまった。

 何もかも微笑み一つで飲みこんでしまうような友人を、私は呆然と見送った。

 ふわふわと砂糖菓子のような彼女は、芯のしっかりとした女性なのだと改めて実感したようだ。

  

 そんなしっかりとした女性からの助言に、私は夏のあいだ悩まされていたループに迷い込んでしまう。



(何を、言えばいいの)


 吉之助は私を避けている。

      

 マンションを追い出されたりはしていないのだから、嫌われてはいない、と思う。


 けれど、一人だけで取り残されてしまった私はたくさん考えた。


 所詮、私は高円寺家から出された人質だ。動く人形のようだった私にちょっとちょっかいをかけただけで拒まれて、面白くなくなったのかもしれない。


(……吉之助は、そんな人じゃない)


 原因は、私にある。


 一緒に住んでいても、男性をほとんど感じさせない吉之助からは想像も出来ないほど、あの日の彼は普段とは異なっていた。

 そのためだろう。


 あの日の彼から、私は思い出したくない記憶を呼び覚まされてしまったのだ。 




 思い悩みながらマンションへ帰ると、玄関で私は思わず立ち止まった。

――見覚えのない、男物の靴がある。


 このマンションはオートロックだ。許可のない訪問者は入れない。

 

(まさか…!)


 居てもたってもいられず、私は部屋へと駆けこんだ。


「吉之助…っ!」


 人の気配のするリビングへ駆け込んだ私を、普段からは考えられないような驚いた顔で出迎えたのは、


「……麗子お嬢様」


 吉之助の秘書の田上だった。


「田上さん…」


「……勝手に部屋へと入ってしまい、申し訳ございません」


 少し怖いほど怜悧な顔を取り戻した田上は、残暑にもきちんと着こんでいるスーツには少し似会わないボストンバックを持っている。


「……また、帰らないの?」


 私がボストンバックを見つめていることに気付いた田上は少しだけ深い息をついた。 


「……私も正直困っているのです」


 そう前置きして、彼は口を開いた。


 私とのことがあって以来、吉之助は寝食も忘れたように仕事に打ち込んでいるらしい。信頼しているはずの田上にさえ事情は言わず、とうとう会社に泊まり込むようになった。


「いつ倒れるのではないかと、こちらはハラハラし通しですよ」


 田上は苦労を滲ませて自嘲したあと、私を見つめてそれを緩めた。


「――今となっては言い訳となりますが、私はあなたを引き取ると訊いたとき、反対しました」


 吉之助にとって、私は債務者であって恋人でも家族でもない。

 私がひひジジイのところへ嫁がされようと、助ける義理はどこにもなかったのだ。


「……ですが、山坂はあなたと過ごすことができて良かったのだと思っています」


「どういうこと…?」


 思わず尋ねると、田上は少しだけ逡巡したあと口を開いた。


「私から聞いたということは、どうか内密に」


 そう忠告して、彼は私の知らない吉之助のことを語りだした。




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