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お嬢様とわたし  作者: ふとん
お嬢様と彼の日々
11/19

嵐の夜のこと

 その日、暗い雲を見て僕は不安に駆られていた。

 

 思い返しても、朝からニュースは嵐の接近を声高に伝えていたし、仕事場の窓から見える空はいつまで経っても晴れることがない。

 暗くなっていくばかりの空を眺めては溜息をつく僕を、秘書の田上は呆れ顔で苦笑する。


「その書類が終わったら、今日はお帰りになって結構ですよ」


 デスクの上であと少しとなった書類を指していうものだから、僕は目を瞬かせた。


「本当?」


 ええ、と頷く田上を横目に僕はさっそく残りの仕事に手をつける。

「どちらが雇用主か時々分からなくなりますね」という秘書の独り言は、幸いなことに僕には聞こえなかった。


 彼女を嵐の夜に一人にしておきたくなかったのだ。

 二人の住むマンションは築五年の新しいもので、少々の嵐ならびくともしないと分かっていても、暗い部屋で彼女を一人きりにしていると思うと、自分の方が何かに駆り立てられるように不安になった。

 きっと、嵐で不安なのは僕の方なのだ。


 湧きあがってくる不安を糧にして、僕は仕事を終わらせて早々に退社した。



 

「――え? 帰った?」


 強くなっていく風を背にして、どうにか彼女のバイト先である喫茶店に辿り着くと、店じまいする手を止めてマスターが穏やかに応えてくれた。


「ええ。この風ですからね。遅くなると危ないと思って」


 ならばもうすでに彼女は一人であの部屋に居るのか。

 ほっとする反面、やはり早く帰らなければと思うと、僕の焦燥がますます酷くなる。


「あなたも早く帰ってあげてください。今夜は荒れそうですから」


 僕の焦燥を見て取ったのか、マスターはやんわりと笑ったが、奥で皿を拭いていたもう一人のバイトの青年が吐き出すように笑う。


「子供じゃねぇんだから家で大人しくしてるだろ」


 馬鹿か、と呆れたように言われるけれど、早く帰ることだけに気を取られていた僕は怒ることもできなかった。 

「そうだね」と生返事をして、睨まれながら喫茶店を出る。


 強い風で荒れ狂い始めた暗い空からは、ぽつぽつと水滴が落ちようとしていた。



 僕が家に帰りつく頃には雨はあっという間に大降りになり、風と雨で傘が役に立たなくなった僕はずぶ濡れになっていた。


「何をしてるのよ!」

   

 ずぶ濡れの僕を見て怒鳴った彼女だったけれど、すぐにタオルを渡してくれて風呂へと僕を追いやった。

 シャワーから出ると、彼女は温かいコーヒーを手に苦笑する。


「どうしたの? 今日は早いのね」


 嵐が来そうだから早く帰ったのだと白状すれば、彼女は呆れるだろうか。

 僕は結局、「こんな日だから早く帰れて良かったよ」と誤魔化した。


「じゃあ、晩御飯は何がいいかしら」


 考えてなかったのよね、と言いかけた彼女だったが、



 バリバリバリバリ!



 部屋中が轟音と共に白く濁った。


「きゃあああああ!」


 一瞬目の眩んだ僕は、彼女の悲鳴で咄嗟に近くあった彼女の体を抱きこむ。柔らかい体は素直に僕にしがみついた。


(震えてる)


 僕のシャツを握った小さな手が、布を強くつかんで震えている。

 粟立つ音が聞こえそうなほど緊張した背に腕をまわして、ゆっくりとさすると彼女はこれ以上ないほど僕のシャツを握りこむ。


「……麗子さん?」


 囁くように呼びかけると、腕の中の体がびくりと我に帰るように震えた。

 おずおずとこちらを見上げた彼女は、まるで迷子の子供のように不安げで、にわかに潤んだ瞳が男のよくない部分を刺激する。


(まずいな)


 気付かれないよう慌てて辺りを見回すと、いつの間にか電灯が消えている。待機しているはずの冷蔵庫やテレビの灯りも消えていて、これはいよいよ良くない。


「麗子さん、大丈夫?」


 暗がりでも青白く見える彼女が大丈夫のはずがなかったが、彼女は気丈に頷いた。

「ごめんね」と言って彼女の手を少し外し、僕はテーブルに置きっぱなしだった携帯を手に取った。

 管理室からメールが来ている。

 内容は、雷で一帯が停電してしまったというもの。

 ますますよくない。


 ピカッと雷が照明の落ちた部屋を照らし、すぐにバリバリとけたたましい音が鳴り響く。その、腹に響く低い音で彼女は再び僕にしがみついた。


(本当に、よくない)


 僕は彼女の柔らかい体を受けとめながら、早く帰ってきたことを後悔し始めていた。



 不安そうな彼女を宥めて、僕たちは懐中電灯と食べ物をかき集めた。

 リビングのソファに腰を落ちつけた頃には、彼女はようやく落ち着きを見せて、懐中電灯越しに僕を見て少しばつが悪そうな顔をした。


「……取り乱してごめんなさい」


 そう言って、彼女がテーブルの上に置いたのはどこにあったのかずんぐりとしたキャンドル。マッチでそっと火を灯すと、人工の灯りが無粋になるほど温かい明かりが暗い部屋に浮かぶ。

  

「そのキャンドルは?」


「去年の学祭でもらったのを、思い出したの」


 懐中電灯を僕が消すと、彼女はふんわりとキャンドルの明かりのように微笑んだ。


「学祭で、教室一つを真っ暗にしてキャンドルアートを作ったんですって。――学祭に行けなかった私に、友人が余ったキャンドルを譲ってくれたのよ」


 彼女の大学の学祭は秋にある。

 去年のその頃は、僕と彼女が暮らし始めた頃だろうか。


 知らなかったこととはいえ、僕は彼女の思い出を一つ潰してしまったことになる。

 思わず彼女を見遣ると、彼女は柔らかく笑んだ。


「私も余裕がなかったもの。学祭の手伝いなんてほとんど出来なかったわ。キャンドルを譲ってくれただけでも嬉しかったの」


 ゆらゆらと揺れる明かりが彼女の亜麻色の髪を絹糸のように妖しく艶めかせている。努めて見ないように視線をずらしても、暗闇に浮かびあがるような白い指先に眩暈がした。


(――どうして)


 どうして、この子はこんなにも美しいのだろう。


「吉之助?」


 彼女の方が不安がっているはずなのに、彼女は僕を心配そうに見つめている。彼女の吐息で揺れて、その軌跡すら見せつけるキャンドルの火さえ疎ましくなってくる。


――僕は今度こそ、この嵐の夜にこの家に居ることを後悔した。



 缶詰やパンだけの簡単な夕食のあと、僕は自分の部屋へと帰ろうと立ち上がる。

 けれど、


「あの」


 細い声に引きとめられて振り返ると、今にも暗がりに滲んで消えそうな彼女が俯いている。

 降り続いているはずの大雨すらどこか遠く、僕と彼女だけを影絵のように切り取ったようだ。


「……今日は、リビングで寝てくれない?」


 息を、呑んでしまった。

 咄嗟に言葉にならずに呑みこんだものが僕にとっても、彼女にとっても最悪なことだと予感する。

   

「も、もう気付いていると思うけれど、私、雷が苦手で…その、暗いところも、あまり…」


 消え入りそうな声の彼女に、僕は叫び出したい気分になった。


「リビングで、今日は一緒に寝てくれると…嬉しいんだけど…」


 今、ここで彼女の肩をつかんで揺さぶり、怒鳴りつけられたらどんなにいいだろう。

 君は何も分かっていないと、戸惑う彼女を抱きすくめて。


 ふとリビングの窓から外を眺めた。

 雨は相変わらず止みそうにない。


 糸を紡ぐように細く息を吐き出した。

 けれど、彼女はぎゅっと唇を噤む。きっと、僕が呆れたと思ったのだろう。

 呆れたのは間違っていない。

 それは彼女に対してではなく、自分に。


「……掛け布団を持ってくるよ。いくら夏でも、そのままソファに寝たら風邪をひくからね」


 僕の言葉にほっと息をつく彼女を眺めて、僕はひっそり苦笑する。


(この子のことを、僕はどこまで許してしまえるんだろう)



 ソファを布団代わりに枕と掛け布団だけを持ち寄って、僕と彼女は寝床を確保した。小さく「おやすみなさい」と布団に潜り込んだ彼女を見送って、僕は一人消えたキャンドルを眺める。

 火の消えた部屋には雨音が連なるように響いて、相変わらず文明の利器は死んだまま。

 隣には、美しい娘が居て彼女と箱の中で二人きり。

 それは世界の終わりはこんなものかと僕を錯覚させるには十分で、ひどく頭が重くてソファの背に体を預けた。


 もしも、本当に世界の終わりなら、僕は迷わないのだろうか。

 彼女を甘やかすことも、自分の激情をぶつけることも、全て晒してしまえるのか。


(……無理だな)


 すでに寝息を立てている彼女を見遣って、僕は思わず目を細める。


(いつの間に、こんなに僕を信用してしまったんだ?)


 彼女にしてみれば、僕はただの債権者だ。

 彼女が債務者である限り僕との縁は切れなくて、それ以下にもそれ以上にもならない。

 僕にとっても彼女は債務者であって、間違っても担保ではないのだ。

 だから彼女に今以上の関係を求めてはいない。


(求めていない、はずだ)


 知らず、見つめる視線の先に手を伸ばす。


 彼女は高円寺家から差し出された生贄でもない。

 決して。


 けれど彼女は、美しかった。

 

 それは時々忌々しくなるほど。


(本当に、厄介な)


 安らかな寝息を立てる彼女の頬に、僅かに手が触れると痺れたように強張った。けれど、しっとりと馴染むまろやかな頬を包むと、今度は吸いついたように離れない。――違う。離れたくないだけだ。


(このままずっと眠っていてくれたらいいのに)


 そうすれば離れなくてもいいのに、と馬鹿げたことさえ頭をよぎる。


「――吉之助?」


 重く閉じていたはずの目蓋が震えて開き、柔らかなコバルトブルーが僕を映す。

 不思議そうな瞳が僕の罪科を暴くようで、逸らすことが出来なかった。


「どうしたの、眠れないの?」


 とろりと溶けるように彼女は身を起こして僕を見つめるので、僕は彼女の頬を両手で包んだ。ぼんやりと眠気の抜けきらない彼女は、うっすらと暗がりに浮かんでこのまま捕まえていなければ消え入りそうに綺麗だった。


 雨はまだ降り続いている。

    

 僕は言葉を失くしてただ息を吐いた。


 部屋には僕と彼女の二人きり。


 静かに響く雨音と一緒に、僕は堕ちた。


「きちの…」


 ふわり、と飛び上がるような心地は高揚だろうか。

 

 一瞬のうちに消えた理性を追うこともせず、ただ彼女の唇に自分の唇を重ねていた。


 花のような香りがする。

 それをもっと追おうと柔らかな唇を食んで、僕は腹の底に溜まっていた不安や恐れが泡のように消えていくような、夢心地に陥った。だが、




 パンッ!



  

 弾けるような音と共に僕の夢は一瞬で消えた。

 ちかちかと逡巡するように電灯が灯って、僕を夢から現実に引き戻す。


 そこにいるのは、不安と恐怖で泣き出しそうな、一人の女の子がいるだけだった。

 

 僕を夢から引き戻したのだろう、僕の頬を叩いた手が薄く赤くなっている。

    

 彼女は顔を歪めて僕に何かを言おうと口を開きかけたけれど、堪え切れない涙に邪魔されてぐっと唇を噛んで俯く。

 それでも彼女の唇から嗚咽が漏れ、ぽたぽたとしずくがソファに落ちた。

 

(傷つけた)


 もう自分の不安などどうでもいい。


 可愛くても綺麗でも、彼女はただのか弱い女の子で、僕の物ではないというのに。


 ただ彼女を傷つけた事実が重く圧し掛かって、体を鉛のように重くした。

 鈍った喉は唸るだけで、言葉すら吐き出さない。

 苦しくて、息の仕方すら忘れかけた僕を、彼女がゆっくりと見上げてくる。


「……あなたまで、私を裏切るの」


 睨む彼女に僕は何も言えなかった。

 ただ彼女を見つめ返して、彼女が自室へと去っていくのを黙って見送るだけで。


 涙で濡れた彼女は、どんな宝石よりも綺麗だった。


 こんな時まで僕は彼女に見惚れている。

 それが何より、僕を後悔という名の真っ暗な崖へと突き落とす。


 這いあがることすら出来ないそれに、どこか安堵しながら。




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