ホワイトデーのこと 2
「ホワイトデー?」
スケジュールを確認していた僕の手が止まったことに気がついた秘書が、やれやれといった顔で笑った。
「二か月も前のスケジュールですよ、それ」
「あ、そうか」
スケジュールを映していたパネルを操作してみたが、先ほど見た単語が頭から離れない。
「田上君、ホワイトデーって何だっけ」
「え? ご存じないんですか?」
「うん。僕の周りでそんな日は聞いたことがなくて」
「ああ」と優秀な秘書は頷いて、自分も確認していた手帳を閉じた。この秘書は優秀で機械もすぐに使いこなすが、スケジュールは未だに手帳に書かないと気が済まない性質だ。
「諸説ありますが、日本で有名なのは、男性が女性にお返しをする日です」
「お返し…? 何の?」
「バレンタインの、です。……バレンタインはご存じですよね?」
「ええと、チョコレートを渡す日だっけ?」
「日本での一般的には女性が男性に、ですね。ホワイトデーでお返しをするのはその返答だとかいう説もありますよ」
「返答…」
「もしもバレンタインで告白を受けたら、ホワイトデーでイエスかノーかを応える」
「……恐ろしい行事なんだな」
思わず漏らした僕の言葉を秘書は笑った。
「堅苦しく考えるものじゃありませんよ。お遊び行事です。クリスマスにプレゼントを買うことと一緒です」
「つまり、プレゼント交換のようなもの?」
「そう解釈してもいいんじゃないでしょうか。……もしかして、誰かに告白でもされたんですか? バレンタインにチョコレートをもらう暇もなかったのに」
秘書にそう言われて何気なく二月のスケジュールをめくると、確かにもらう暇はなかった。二月十四日は朝から晩まで会議と会食で、顔を合わせるのは僕より年上の男性ばかりだったので、艶めいた話など出てくるわけもない。
昼間だけなら。
――陰謀なのよ!
そう言われて渡されたのは、チョコレートの入った肉まん。……チョコレートまんと呼んだ方が良いのか。
(……これは、どう返事をすればいいんだ?)
バレンタインはお菓子会社の陰謀なんだということを「そうですね」と肯定するためにお返しをしなければならないのだろうか。もっとも、バレンタインが陰謀かどうかは、僕に分かるはずもないのだが。
考え込んだ僕を秘書は牧羊犬のように追いたてて仕事へ向かわせたが、結局その日、僕の頭から思案は消えることはなかった。
――麗子さんに何を贈ろう?
ホワイトデーのことを調べてみると、お返しにはキャンディーが多いらしい。
しかし、今はもう五月。二か月も前のイベントの贈り物は時期外れもいいところだ。
(でも何か贈りたい)
お菓子?
洋服?
宝石?
「……何がいいかな」
考えあぐねてつい、夕食の席で漏らした僕の言葉を彼女は聞き逃さなかった。
「何か、選んでいるの?」
今日は彼女特製のポトフだ。たっぷりとした野菜とベーコンで煮込まれたそれは食卓でふくよかな湯気を立てていた。彼女のバイトが早上がりの日はこうして手の込んだ料理を作ってくれるのだ。
彼女の好きな甘いワインのコルクを抜いた僕にグラスを差し出しながら、彼女は訝しげだ。唇を尖らせるその様子が可愛くて思いのほか気が緩んでしまった。
「女の子って何が欲しいのかな?」
「は?」
しまった。
そう思った時には遅かった。
「……女の子に贈り物?」
ひやりと北風が頬を撫でるような声を突きつけられたかと思うと、僕が手にしていたワインを細い手が奪い取った。
そしてワイングラスになみなみと注いで可憐な唇が一気に煽ってしまう。
止める間もない。
案の定、彼女は白い頬を真っ赤に染めて、妙に据わった目で僕を睨んだ。
「どんな女の子に贈るの?」
――長い夜が始まってしまった。
結局、その日の夜はポトフとワインを僕はほとんど口に出来ず、彼女の愚痴とも悪口ともとれない話を延々と聞いたのだった。
最初から彼女に何が欲しいのか尋ねてしまえば、こんな馬鹿なことにはならなかっただろうに、僕も結局は最後までそれを話さなかった。
意地悪をしたいわけじゃない。
そんなことがしたいわけじゃないが、何だかよく分からないプライドが邪魔をしたとしか言えない。
ワインを丸々一本開けて眠ってしまった彼女をベッドに運んで謝った。
それに、怒られたことも無駄じゃない。
女の子が欲しい物を彼女はちゃんと話してくれた。
女の子が欲しいもの。
それは思い出だと言った。
贈られた物に、どれほど思い出が込められているか。それが大事なのだと。
もちろん、高価な物はそれなりに嬉しいものだが、それだけだ。
思い出は、例え物を失くしても残るから。
最後の方は少し泣き出しそうに言った彼女の顔が目に焼き付いていた。
僕と暮らすまでの彼女は、たくさんの物と思い出に囲まれていたはずだ。
それを突然失くしてしまうなんて、思いもよらないで。
(麗子さん)
辛いことも悲しいことも話してくれたらいいと思う。
それが虫のいい話だということも分かっている。
彼女の財産と思い出を奪った僕を、彼女が許すはずがないと分かっているから。
それでも彼女の笑顔を見たいのは、僕の勝手だ。
クリスマスに贈ったテディベアは彼女が大切にしていることを知っている。時々首のリボンが変わるのを、僕が楽しみにしていることを知っているだろうか。
(また、あの時みたいに笑ってくれたら)
僕はそれで救われる。
――しばらく彼女の心地よさげな寝顔を見て部屋を後にした僕は、次の日、彼女に爆弾を落された。
「――男の人って、何が欲しいのかしら?」
今度は僕がワインを一気飲みしたいんだけれど。
互いに爆弾を落としあった日の後、僕と彼女はしばらくぎこちない日々を過ごした。
彼女はどこか上の空だったし、僕の方も彼女への贈り物をどうするかで悩んでいた。こればかりは優秀とはいえ秘書や他の人の力を借りるわけにもいかない。
仕事で大きな失敗をしなかったのは、ひとえにその秘書のお陰だろうが。
(……これで、いいのかなぁ)
ようやく夕食までに帰れる目途がついたものの、僕は手にした小さな紙袋を持ちあげて睨んでいた。
考えに考え、煮詰まった僕は結局、宝石で手を打ってしまったのだ。
しかし彼女は普段イヤリングもピアスもしないし、僕は見ただけで指輪のサイズを計る才能もないので、無難なネックレスになった。
若い女性が付けやすいものと店員に勧められるままに決めた、トップに小さな花と蝶があしらわれた細いネックレスだ。
値段は安くもないが、高くもない。
果たしてこんな中途半端なものを贈っていいのか。
(それに何と言って渡そう?)
ホワイトデーのお返しから始まった僕の企みだが、すでに目的さえ見失いつつある。
それにこれではご機嫌取りのようなものではないのか。
悶々としながら帰り道で見つけた花屋で一抱えの花束を買った。
鈍る足を叱咤して家に帰りつくと、案の定、彼女は目を丸くした。
「どうしたの? 今日はパーティにでも行ってきたの?」
僕はたまに出席するパーティで会場の花をもらってくることがある。それを思い出したのだろうけれど、僕は「違うよ」と首を横に振る。
「……買ってきたんだ。君に」
そう言って花束を渡すと彼女は初めこそ驚いたものの困ったように微笑んだ。
「――どうしよう。本当に嫌になっちゃうわ」
それこそどうしたのかと首を傾げていると、彼女に「早く入って」と促されてダイニングを覗くと、
「……今日は、何かの記念日だった?」
いつにもまして豪華な食卓が広がっていた。
きちんと並んだカトラリーに、飾られたナプキン、それを従えるようにスープの鍋や骨付きチキン、その隣にはちらしずしまで並んでいる。――どれも、僕が好きな彼女の料理だった。
「あ、あのね」
花束をテーブルに置いて、後ろ手に何かを隠した彼女が僕の前に立つ。
「私、この前、初めてお給料をもらったの」
言葉を慎重に選ぶように彼女は瞳を左に右にと彷徨わせた。
「でも、あなたにいつ言い出そうか迷ってしまって」
「…どうして?」
つい最近まで働くことさえ知らなかった彼女が初めて働いて稼いだのだ。そんな大切なことを今まで教えてくれなかったなんて。
少し寂しくなってしぼんでいたプライドがいよいよ小さくなった。
「……だって、男の人への贈り物なんて、したことがないんだもの」
「え?」
「だから!」
堪え切れなくなったように彼女が僕の前に差し出したのは、小さな箱だった。
「私のお給料じゃ、こんなものしか用意できなかったの!」
受け取れと言わんばかりのそれを僕が思わず受け取ると、今度は恐る恐ると言った様子で彼女は僕を見上げてくる。
不安そうな顔が可哀想で促されるまま箱を開けてみる。
「――カフス?」
特別に高価でもないが安くもないだろう。でも、銀と青のストライプは色合いがいいのか何処か優しく見えて、普段使いに良さそうだ。
カフスを眺めていた僕を彼女は少し恨めしそうに見遣って、
「あなた、普段からタイピンは使わないし、煙草も吸わないし」
「……いや、煙草は時々吸うんだ」
「ごめん」と謝ると彼女は「どうしてもっと早く言わないのよ」と言って、
「値段のわりにいい携帯灰皿があったからそれと迷ったのに!」
「麗子さん、煙草嫌いでしょう?」
「嫌いよ! でもお父様がお好きだからお母様と時々お誕生日の贈り物に探すの」
なるほど。……いや、問題はそこじゃない。
「……もしかして、僕に選んでくれた?」
それまでまくしたてていた彼女が「うっ」と押し黙って口を引き結んでしまったというのに、僕は口元が緩んでいくのを止められなかった。
(本当に、困ったなぁ)
彼女は、初めての給料で他の何を買うのでもなく、僕のカフスを買ってくれたのだ。
「どうして、僕に給料を?」
ねぇ、と静かに尋ねると、彼女は視線を逸らせたまま渋々口を開いた。
「――最初から決めていたの。最初のお給料で、あなたに何か贈るって」
ゆっくりと顔を上げた彼女は、綺麗だった。
「働くって大変なのね。たくさん叱られたわ。家庭教師に叱られたことなんて比べものにならないくらい怖かったし、悔しかった。でも」
瞳を細めた彼女はとても満足そうだ。
「働くって、とっても素敵。仕事なんて面白くもない、つまらないことだと思っていたけれど、あなたが毎日夢中になるはずだわ」
だから、と悪戯を仕掛ける妖精のように彼女は微笑んで、
「あなたに最初のお返しをしようと思ったの。私がこうして満足に暮らしているのは、あなたが働いているお陰だし」
僕に贈り物と美味しい料理を用意して、今日を待ち構えていたんだろう。
「なのに、吉之助ったらこんな何でもない日に花束なんて買って帰ってくるんだもの。普段はそんなこと全然しないのに」
「とっても驚いたわ」と笑う彼女が可愛くてたまらなかった。
「僕も驚いたよ」
自分の浅はかな企みが彼女にまで届いてしまったようで、おかしくてたまらない。
「――ねぇ、麗子さん」
彼女は子供のように目をぱちぱちさせて僕を見上げた。
そんな彼女に微笑んで、僕はネックレスの紙袋を後ろ手に隠す。
「今日は何の日か知ってる?」
中途半端だと思っていたネックレスが輝き出すような気がした。
なんて素敵な日なんだろう。
彼女にかかれば僕のつまらない日々なんて、あっという間に様変わりする。
ありがとうと感謝を口にしない日はないほど。
「……分からないわ。何の日だったかしら?」
「麗子さんが僕にカフスを贈ってくれた日だよ」
――何でもない日、おめでとう!