単純な感情
「──お嬢! お待ちください、お嬢! まさか、今からカルタシアに向かう気ですか!」
窘めるような声色で、石畳の上を早足で追いかけてくるのはアイラの護衛であるイグリスだ。
肩上に切りそろえられた黒髪と、凛々しい表情は女性から好まれるようで、彼女に声をかけてくる女性達はいつも頬を赤らめている。それ程までに男前な護衛である。
「お嬢ってば!」
「だって、お呼ばれしたんですよ! 今すぐにでも行くしかないでしょう!」
「だからって……。ああ、もうっ! お嬢はリオン殿下のことになると周りが見えなくなってしまわれるんですから……!」
頭を抱えながらもアイラの後ろを付いてくるイグリスは、アイラが頑固で強情なことを知っているため、すでに説得することを諦めているようだ。
アイラは己の護衛の様子を無視してから、玉座がある部屋へと向かって行く。
玉座と言っても、それほど物々しい椅子ではなく、ただの木彫りの椅子だ。
しかも、国王であるディオスが座っている姿を見る光景を目にすることの方が珍しいため、玉座は他国からお客が来た際に使用される程度だった。
「お父様! お母様! お話があります!」
アイラが謁見の間の扉を思いっ切りに開け放してみれば、決して広いとは言えない空間の一番奥──木彫りの玉座にディオスが座っている姿が目に入った。
普段は自らの意思で玉座に座ることはないディオスだが、まるでアイラがやって来るのを待っていたようだ。
「アイラ、扉を荒々しく開け放つなんて、はしたないですよ」
そう言って、アイラを窘めたのは、玉座のすぐ傍に立っている母のセーラだ。
長い栗色の髪を一つにまとめているが、その姿はドレスではなく、狩りがしやすい軽装だった。
「どうせ、あなたのことだから、今すぐにでもカルタシア王国へ向かいたいと言い張るのでしょう?」
呆れたような視線を向けて来るセーラにアイラは一瞬だけたじろぐ。昔から、この母に口で勝てた試しがないのだ。
「も、もちろんです! だって、招待を受けているならば、行かないと失礼ですよ!」
食い下がるように言葉を返すアイラに対して、座っているディオスが低く笑っていた。
「まぁ、せっかく招待されておるし、わしは構わんが……」
そう言って、ディオスはセーラの方へと視線を向けた。どうやら、母の返答次第と言ったところだろう。
「あら、アイラ……。あなた、まだ礼儀作法の修練が終わっていないでしょう。私がいつ、あなたの淑女としての立ち振る舞いが完璧だと申しましたか」
「うっ……」
セーラは腕を組んでから、じろりとアイラを見下ろしてくる。まるで蛇に睨まれた小動物のような気分だ。
「それに座学だって中途半端なまま……。国家間の情勢や経済についての勉強は、どれほど進んでいたかしらねぇ……?」
「ぐっ……」
畳み掛けるような言葉にアイラは視線を盛大に逸らした。
背後に立っている護衛のイグリスは気まずそうな表情のままで、その場を見守ることに徹するつもりらしい。
「いくら嫁いだ先で王妃教育が用意されているからと言って、基本中の基本を今のうちに修めておかなければ後から苦労するのはあなただというのに……。それにもかかわらずアイラは毎日、毎日、森へ獲物を狩りに行くか、剣術のお稽古ばかり……。同世代の女の子達は縫物や染め物に精を出しているというのに、このままでは立派な狩人一直線……」
「えーっと……。す、すみません……」
「ほら、そこ! 『すみません』、ではなく『申し訳ございません』、でしょう! 言葉遣いは丁寧なものに直すようにと注意したはずですよ! あなたはただでさえ私に似て、手が付けられないほどにお転婆なんですから口調くらいは気を付けなさい!」
「ひぃっ……。も、申し訳ございません!」
恐らく、ラウリス国で最も恐ろしいのはこの母だろう。父であるディオスでさえ、彼女に口どころか剣術で勝ったところを見たことがない。
セーラを昔から知っている者達は口を揃えて、彼女のことをお転婆で意思が強く、男達が束になって斬りかかっても一蹴してしまうほどの実力を持ったじゃじゃ馬な娘だと言っていた。
普段は王妃らしく、自分を律しているようだが、それでも狩りに参加する時は誰よりも目が爛々と光っていることは周知の事実だ。
その瞳に睨まれてしまえば、恐ろしさで腰が抜けてしまう者もいた程だ。
つまり、簡単に言えば誰もセーラには勝てないということである。
「あなたがリオン殿下の妻になりたいと思うのであれば、それは王妃という立場がある人間になるということです。それなのに礼儀作法も言葉遣いも何もかもが王妃として不完全なままでは、リオン殿下に対して大変失礼でしょう? ……あなたがリオン殿下のもとへと嫁ぐ際には、完璧になったアイラを見て欲しいのです」
「お母様……」
想像していなかった、母親らしいセーラの言葉にアイラの胸の奥に何か温かいものが詰め込まれていくような気がした。
セーラは自分のことをしっかりと思って、厳しい言葉をかけてくれているのだ。
思わず、瞳が潤みそうになっていると、次の言葉によってアイラは崖の上から蹴り落された気分へと陥ってしまう。
「ですが、今の状態のアイラをカルタシア王国へ向かわせるわけにはいきません。あの国はラウリスとは違って、自由気ままには出来ない国ですからね」
ぴしゃりと言い切られた言葉に、アイラはとうとう世界の終わりだと言わんばかりに悲しみの涙を浮かべ始める。
昔に比べれば、泣き虫は直った方だと思うが、それでも感情がすぐに表情に出てしまうため、自制することを苦手としていた。
泣き出しそうになっているアイラに対して、イグリスがどう慰めるべきか、手を上下に動かしてはあわあわと困った表情で慌てている。
リオンに会えない。
そう思うだけで、悲しみと寂しさが身体全体に広がっていく。
その時、溜息まじりの声がぼそりと響き渡った。
「……まあ、一つだけ条件を出してあげてもいいでしょう」
セーラから告げられる言葉に、アイラはぱっと顔を上げた。
「二日でカルタシア王国の現在の情勢と経済についてと、基本中の基本となる礼儀作法を頭に叩き込みなさい。そして、カルタシアでは上品に振舞うと約束出来るのならば、長期滞在を許してあげましょう」
「ほっ……本当ですか!?」
「ええ。そのかわり、今から私が容赦なく教えていきます。一切の手加減はなしですよ。それでもやりますか」
「やります! やらせて下さい!」
即答するアイラに対して、セーラはゆっくりと首を縦に振り返した。
「よろしい。……では、イグリス。カルタシアの国王達宛てに手紙を書くので、書くものを用意してくれますか」
「かしこまりました」
イグリスはすぐに頷き、セーラの要望に応えるためにその場から去っていく。
「アイラ。まずは座学からやりますよ。あなたの部屋で準備してお待ちなさい」
「はい!」
アイラは勢いよく返事をしてから、両親に背中を向きかけて、そして留まった。
「あの……お父様、お母様。ありがとうございます」
真っすぐと両親を見つめながら、頭を深く下げる。何となく、二人にはお礼を言わなければならないと思ったのだ。
すると、アイラを見ていたディオスがぶわっと涙を吹き出しながら盛大に泣き始めたのである。
「ううっ……。小さい頃は泣いてばかりで、わしの後ろを付いて来ていたアイラがもう、お嫁に行ってしまうなんて……!」
「あなた……。アイラは、今回はリオン殿下の立太子式に婚約者として参加するだけですよ。お嫁に行くのはまだもう少しだけ先です」
厳つい顔に似合わず、男泣きし始めるディオスにセーラはどこか呆れた表情で宥めていた。
「だって、寂しいではないか!」
「娘達が嫁ぐたびに、あなたは大泣きする気ですか……。全く、泣き虫なところは昔から変わりませんねぇ」
アイラには弟と妹が一人ずついるのだが、自分だけでなく妹が嫁ぐ際にも、きっとディオスは大泣きするのだろうと何となく察せられた。
彼は豪胆で朗らかだが、嬉しいことや喜ばしいことがあると号泣してしまう情が深い国王なのだ。
もちろん、ちゃんと威厳もあるため、臣下や民達から冷めた表情で見られることはない。
むしろ、国王が泣いていても、何か嬉しいことでもあったんだろうな、という認識でいるらしい。
泣き続けるディオスにどのような言葉をかけようかと迷っているとセーラが、立ち去って構わないと瞳で語ってきたため、アイラはもう一度、頭を下げてから謁見の間から出て行くことにした。
背後からはディオスが野太い声で泣き続ける声が漏れ聞こえている。
……リオン様のもとへ嫁ぐ際には、お父様が泣き過ぎて脱水症状を起こしかねないかも。
妙な心配を抱きつつも、心はリオンを優先してしまうので、自分の感情は単純らしい。
それでも、リオンに久しぶりに会えるかもしれないという気持ちが勝り、ディオスが泣いていたことはすぐに忘れてしまうのであった。