はじまりの風
新連載です。完結しているお話なので、毎日定時更新にします。
宜しくお願い致します。
誰にでも大切にしたい思い出はあるものだ。それが例え相手が覚えていないものだとしても。
そして、その思い出こそが泣き虫な自分を動かす原動力になっているのだから。
深い森に囲まれているラウリス国は大国のカルタシア王国に隣接しているが、元々は小さな民族の集団が集まっただけの国だった。
主な産業は農業と狩猟で、生活する上での物資のほとんどが隣国のカルタシア王国のおかげで成り立っているような小国である。
ラウリス国の中央都市のフォルストには全ての小民族をまとめて、治めている王が鎮座していた。
だが、王とは名ばかりで普段は民と混じって狩猟に勤しむような、朗らかで庶民派な王であったため、民達からは絶大な人気があった。
そんなラウリス国の王ディオス・ヴァルトには娘が一人生まれていた。
まだ六歳の王女はよく父親の馬に同乗し、狩猟へと同行しては、自然という未知の世界を知ろうとする好奇心が旺盛な幼い少女であった。
だからこそ、自分がいかに無知なのかを知らなかったのである。
「……ここ、どこ?」
アイラは初めての場所に戸惑った表情を浮かべたまま、辺りをぐるぐると見渡していた。
ここは木々が生い茂るばかりの森の中。周辺には特に目印になるようなものは何も無い。
「とうさまぁ……」
呼んでみてもやはり返事は返ってこない。何せ自分から迷子になったのだから当たり前だ。
父の傍を離れなければ、これほど心細い思いを知ることはなかっただろう。
迷子になった原因は、可愛らしい兎を見つけたことが始まりだ。気になって、つい追いかけていたら、見知らぬ場所へと辿り着いてしまったのである。
今頃、父は狩猟に来ていた仲間達と一緒に自分を探しているに違いない。
迷惑をかけていることに申し訳なさを感じつつも、アイラは父達の姿を捜すしかなかった。
背の低いアイラでも歩けそうな道を選びながら進んでいくと少し開けた場所が視界に入ってくる。
アイラは頼りない足取りでその場所へと向かって行く。
開けた場所には小さな泉があり、周りを囲むように見た事もない美しい花々が咲き誇っていた。
「わぁ……」
美しいと思える光景を目にしたアイラは、押しつぶされそうだった胸から深い息を吐きだした。
泉の淵まで歩いていき、少しだけ疲れてしまっていたアイラはその場に腰を下ろすことにした。
「……」
泉へと顔を覗かせてみれば、水面に映るのは肩上に切り揃えられた短い栗色の髪。まるで男の子のようだ。
女の子はすぐに髪が伸びるものだと母が言っていたが、いつになったら自分は女の子らしい姿になれるのだろうかと小さく溜息を吐く。
「そういえば……今日はお客さまが来るって、かあさまが言ってた……」
お客が来訪するのは昼頃だと聞いているが自分のお腹の空き具合から、すでに昼時だろう。
自分にとっても大切なお客だと言われているため、会う際には同席するようにと言い付けられていたが、間に合わないに違いない。
元々、そのお客を美味しい料理で持て成すために、食材となるものを探しに狩りへと同行したのだが、こんな状況になるならば大人しく母と共に、城で待っていれば良かったのだ。
きっと、父もその大事なお客を迎えるために城へ戻ったのかもしれない。
「うぅっ……」
自分を探してくれる人は居るのだろうか──。
急に不安な気持ちが戻ってきて、アイラは涙を目元に浮かべ始める。
その時、森の奥で何かがざわめく音が耳へと入ってきた。
「な、なに……?」
アイラはばっと立ち上がり、音が聞こえた方へとすぐさま視線を向けた。
少しずつ近づいて来るのは、草木を擦る音と大きな歩みの振動。
アイラはまさかと思い、心臓が恐怖によって大きく脈打ったのが感じられた。
そして、予感していたものがとうとう目の前へと現れた。
「っ……!」
茂みの中から姿を見せたのは自分の身体よりも何倍も大きい熊だった。春を迎えたこの地には冬眠から目覚めた熊がたまに出没していた。
森から人が住んでいる場所へと下りてくる熊が、畑だけではなく人にも被害を及ぼすため、それを未然に防ぐために大人数での狩りが頻繁に行われていると聞いている。
「う、ぁ……」
熊はこちらを窺いつつも、堂々と距離を縮めて来る。まだ、大人になったばかりの熊のようだが、小さなアイラにとっては大きな敵だ。
自分を品定めしているのか、熊は満足したように鼻を鳴らしていた。
「いや……。来ないで……」
震えながらもアイラは腰に下げている護身用の短剣を何とか引き抜くことが出来た。
短剣を必死に自分の胸の前へと持って来て、威嚇しようと構えるが、熊には何の効果も無いらしい。
そういえば、熊除けの鈴を所持するのを忘れていた。恐らく奴は匂いで自分の居場所を見つけたのだろう。
一歩ずつ近づいて来る熊の息は荒いものへと変わっていく。アイラを完全に獲物として認識したのだろう。
以前、父が自分に言っていた。
どれ程、人の世が栄え、武力を持ち、強くなったとしても本物の自然に勝ることは難しいのだと。
そして、いかに無力なのだと教えられた。
──だれか、たすけて。
そう叫びたかったのに、恐ろしさの方が勝ってしまっているため、声さえも上げられない。
熊との距離が数メートル先へと迫ってきた時だ。
それまで、風一つ吹かない穏やかな気候だったというのに、その場に突如として全てを掻っ攫うような風が巻き起ったのである。
「ひゃっ……」
吹き抜けていく重い風にアイラは驚いて、つい尻餅をついてしまう。
今まで感じたことのない強い風だ。
だが、目を瞑っていても分かるのは、身体に吹き付けていく風がまるで自分を包み込むように優しく爽やかな風だということだ。
……でも、この風……ふつうの風じゃない……?
アイラは薄っすらと瞳を開けつつ、状況を確認する。
その瞬間、頭上から竜巻が降り立つように、自分と熊の間に影らしきものが割って入ってきたのだ。
アイラは何が起きたのか分からず、確認するために瞳を全開してみる。そこには先程までの光景を疑ってしまうものが視界の先に広がっていた。
目の前には見知らぬ人影が立っている。
艶やかな黒髪に、しわ一つ入っていない上品そうな服装。
背丈は自分と変わらないくらいなのに、その小さな背中がアイラにとっては大きなものに見えていた。
「あ……」
驚きで短い言葉しか発する事が出来ないアイラを目の前に立っている少年は少し振り返り気味にちらりと見てから、どこか得意げに小さく笑った。
「……大丈夫。おれが守るから」
見知らぬ少年の頼もしくも優しい笑顔にアイラの鼓動は大きく脈打った。
そして、少年は熊の方へと向き直り、慣れたような手付きで右手をばっと熊の方へと向けてから、はっきりとした声で叫んだ。
「──風よ、切り裂けっ!」
少年の声に反応しているのか、突如、空気中に見たことのない物体が無の状態から形成されていき、それらはまるで透明な刃へと姿を変えていく。
透明な刃は少年の掛け声に従うように、こちらへと近づこうとしていた熊に向かって一直線に突撃した。
それはまるで狩人が獲物に向けて弓矢を放った瞬間にも見えていた。
「ぐぁぅっ……!」
透明な刃による衝撃を受けた熊は鈍い叫びを上げてから、その場に静かに倒れていく。
もう、生きてはいないようで、攻撃を受けた部分からは真っ赤なものが流れ始めている。
狩りに同行していれば何度も見たことがある色だが、アイラは熊への恐怖よりも目の前の少年への驚きの方が大きすぎて、口をぽかりと開けるしかなかった。
熊を倒したことを確認してから、少年はくるりと振り返った。
そして、腰が抜けたままで動けないアイラへと右手を差し伸べてくる。先ほどの熊を一撃で倒したその細い手は自分と変わらず、小さいものだった。
「おまえ、怪我とかしていないか?」
少年の手を取ってみれば、すぐさま地面の上へと立たされたことで、改めて彼の顔をはっきりと見た。
自分と同じ国の人ではないことは分かるが彼が誰なのかは、自分は知らない。
アイラの顔を心配そうに窺ってくるので、気恥ずかしさを感じながら必死に頷いて答えるしかなかった。
「わ……わたし……。だ、だいじょうぶ……です」
「それなら、良かった」
少年は安堵を含めた表情で、にこりと笑った。
その笑顔はまるで春の太陽のように暖かく感じられる。
ずっと、彼の傍に居たいと思う程に心地よい柔らかさを持っており、その笑顔の眩しさに中てられたアイラは思わず顔を下へと向けてしまった。
「……あ、あの……ありがとう、ございました……」
「ん? ……おう! あ、名前を名乗っていなかったな。おれはリオンだ。おまえは?」
「わたし……あ、アイラです」
緊張で声が掠れてしまったが、何とか名前を答えることが出来て、アイラが密かに安堵していると、リオンと名乗った少年は何故か驚いたように目を見開いていた。
「……女だったのか……」
その言葉にアイラは少しだけ精神的な衝撃を受けてしまう。
確かに自分の見た目は男の子のように見えるだろう。
短い髪の見た目だけではなく、服装は狩りが行いやすい軽装で、ひらひらしたドレスなどではない。初対面で誰が見ても、男の子だと間違えてしまうことは仕方がないのだ。
気恥ずかしさと申し訳なさを感じたアイラは遠慮がちにこくりと頷き返した。
「そうか……。あ、男だと思っていて、ごめんな……?」
リオンの気遣うような言葉にアイラは必死に首を横に振った。
「よく、間違えられます。気にしないでください」
いつものことだから仕方がないと思うしかないのだ。
少しだけ悲しいが、自分に女の子らしい魅力が無いだけで、誰も悪気があって言っているわけではないと分かっている。
「んー……。あ、そうだ」
リオンは何かを思いついたのか、襟元に巻いていた赤いスカーフを躊躇うことなくするりと抜き取ると、アイラの頭にそのスカーフをリボンのように結んだのである。
「よしっ。これなら、男に間違えられないだろう。ほら、そこの泉で見てみろよ」
得意げな表情のリオンに促されて、アイラは泉の水面をそっと覗いて見る。
鏡のような水面には先程までの男の子に見えてしまう自分とは別人の女の子が居た。赤いスカーフが髪飾りのように、自分の頭を鮮やかに彩っている。
「どうだー? 可愛いだろう?」
「か、かわっ……」
初めて告げられた言葉にアイラは瞬時に顔を赤らめる。
「これなら、もう男になんて間違えられないと思うよ。そのスカーフ、アイラにあげるから、ずっと着けておけばいいよ」
「なっ……。だ、だめですっ……こんなきれいなもの、もらえないです……」
アイラは頭の上に飾られた赤いリボンを解こうとしたが、すぐさまリオンによって止められてしまう。
「似合っているって。それとも……嫌、だったか?」
寂しげな表情に打って変わるリオンを見て、アイラは先程よりも強く、ぶんぶんと頭を横に振った。
「そっ……そんなこと、無いですっ! すごく、すごく嬉しいです!」
リオンが自分を気遣って贈ってくれた物は、例えるならば優しさの塊なのかもしれない。嬉しくないはずがない。
「あの……。……あ、ありがとうございます」
アイラは顔を少しだけ赤らめながら、リオンを見上げるように見つめた。
彼は照れくさそうに小さく笑い、アイラの頭をぽんっと優しく撫でてくれる。