あたしの失敗
本当は7日にあげたかった
扉が閉まり、電車は元町・中華街方面へと去っていった。
それに釣られるように短く揃えた茶髪がなびく。
降りた乗客達はとうの昔に改札を出ていて、出発したばかりなのでホームで並ぶ乗客も疎らだ。
茶髪の彼は前者の「降りた客」だったが、連中に比べると慌ただしさや機敏さの欠片もない。
改札へあがるのも億劫そうに、ただぼんやりとホームに佇んでいるだけ。
男の名は若村 美香。
こんな名前だけどれっきとした男子高校生だ。
胎児の際、性器が指に見えたせいで産まれてくるまでずっと女の子だと勘違いされてしまった。
男だとわかった時にはもう大昔に親類全員集めて命名会議を終えた後。
彼の母の弟が挙げた美香は2位の愛梨に紙一重の差で競り勝ち、見事勝利をおさめた。
余談だが彼の2番目の兄は「あたしの考えた薫(15位)にしておけば男でも問題なく使えたんだ」と、しばらくボヤいていた。
完全に女なものと信じた母親は、友人同僚隣人そのへんの誰かに腹の指しては「美香ちゃんっていうのよー」と触れ回っていた。
そこで今更変えるのはシャクだしもったいないしそのまんま使っちゃいましょうとし、結果18年間ずっと「美香」だ。
とにかく名前以外はたぶんどこにでもいる普通の高校生。
普通に学校へ行って、普通に友達と下校中に騒いで、帰ったら普通にシコって、普通に音楽聴いて、普通に寝る。
好きな歌手はMJ。好きなダンサーはMJ。尊敬する人物はMJ。好きな動物はMJ。
好きな有機物はMJ。好きなゲームキャラはMJ。
一番好きな曲は・・・・・・決められないので「とりあえず人生で一番聴いたのはROCK WITH YOU」と答えることにしてる。
日本に250万人はいそうなどこにでもいる特筆する要素もないごく普通の男子高校生、それが若村美香だ。
名前以外。
「あら、アンタ、どっから入ってきたのよ。」
あと口調。
モノローグが冗長になってきたのでこれについては別の機会とし、今は話を進めさせてもらう。
彼は柱の陰で蠢く小さな生き物に気付き、近付いていった。
反対に彼に気付いた生き物は柱に沿って距離を置いていく。
カクッカクッと首を揺らしながら、せわしなく珊瑚色の足を進める。
灰と黒の油をを水面にぶちまけたような色彩の翼にモザイク状の白色が点在する。
街の身近な隣人、ドバトだ。
首が細長く、虹模様が薄いことからメスだとわかる。
今の時間帯なら他の住民(カラス、ネコ、ネズミ、浮浪者)とともに残飯を漁っている頃だ。
恐らくその最中に迷い込んでしまったのであろう。
このみなとみらい駅はいくら吹き抜け構造といえど、地下4階に位置し、その上クイーンズスクエアを通る必要があるため鳩の侵入は不可能ではないが容易でもない。
逆に言うとここから出るのも困難。
通勤ラッシュの今、すぐにまた大勢の人間がホームに降りてくる。
その時に踏まれるかもしれないし、線路に逃げて轢かれるかもしれない。
ホームから出てもクソ広いクイーンズスクエアからの脱出は鳩には少し厳しい。
この小さな街の仲間が生きて地上に帰れる可能性はあまり高くない。
どうせ毎年1億羽の鳩が天敵に殺されたり餓死や凍死や遂げている。
しかし見殺しにするのはどうも心に残る。
今日は起きてから一時間も経ってないのに良い事あって気分いいし、気まぐれが働いた事もあって彼はどうにかしてやりたいと考えた。
一方彼女は定期的にホームのスピーカーから流れるカモメの鳴き声に怯えている様子だった。
そのうえ自分より142cmも大きな人間までもがなにやら鳴き声を発しながら近づいてくる。
いくら人馴れした都会の鳩といえど地下駅に迷い込んだ状況に加えて、今にも飛び立ってしまいそうであった。
そうなればもう見つけられなくなるかもしれないし、線路に逃げるかもしれない。
そこで若村は蛇の如く素早く腕を振るう。
もちろん、腕の中で彼女は死にものぐるいで暴れる。
小さな身体からは考えられない力だった。
はばたくために胸筋などがかなり発達しているため鳩といえど相当力が出る。
喧嘩の際にはクチバシではなく羽で叩いて闘うという。
さっき鳩の描写を書く際にググって知ったウンチク自慢は置いといて、予想以上の抵抗に腕っ節には自信のある若村も流石に振りほどかれそうになる。
が、二瞬後には鳩は大人しくなった。
まるで金縛りにあったかのように動かなくなった。
若村はこの前テレビで見た動物の身動きを止める方法なるものを試していた。
仰向けにして頭(視界)を覆って隠すと防衛本能が働き硬直するというものだ。
もっとも、テレビで見たのはインコと鶏だったが。
手品で使用される鳩もこの方法で大人しくされてるらしいし、実際目の前で成功したわけだし彼の判断は正しかったようだ。
見様見真似のうろ覚えの割にはうまくいったワと一先ず安堵の表情を浮かべる若村。
いつまでもバイ菌まみれの鳥類を抱いているのは嫌だし、足早に改札へと向かった。
改札を出てまず左手に向かうと、短いエスカレーターが目に入った。
それを無視してまた左を見ると、地下三階から地上を結ぶ横浜で一番長いエスカレーターが現れた。
しばらく上っていくと右手に見えますのは巨大なアート作品でございます。
2001年宇宙の旅のモノリスを彷彿とさせる巨大な壁には詩が記され、その下にドイツ語の原文がある。
それは初めて訪れた者をまず圧倒し、次に詩に釘付けにさせ、意味を考えさせる。
毎日ここを通り高校へ向かう若村は詩の意味こそわからないものの、空で暗唱できるくらいには覚えていた。
おかげで少しドイツ語が言える。言えるだけ。
ここから興味を持ち独学で始めようと試みたが、多くの挑戦者の例に漏れず挫折し諦めた。
しばらく名詞の性だの格変化だのといった単語に強い拒否反応を抱くようになり、フランス語やサンスクリット語等も忌み嫌うようになった。
170cmくらいの茶髪の高校生が鳩を抱えて険しい顔で歩いている。
そんな光景に誰もが振り返り、好奇な目や怪訝な表情を向ける。
エスカレーターでは下りる通行人とすれ違う際高確率で対面するので特に顕著だった。
上りきってすぐ目の前のエスカレーターの右脇を通り、真っ直ぐと自動ドアへ突き進む
金粉を振りまくような陽光が1人と1羽を迎えた。
彼女がどのくらい地下にいたかを知る術はないが、太陽がとても懐かしいものに感じられただろう。
監獄を脱獄した元銀行員って気分だ。
ティム・ロビンスを迎えたのは日差しじゃあなくて土砂降りだけど。
すぐそばにあるオブジェの台座に、ドミノよろしく慎重に鳩を置く。
奇しくもそのオブジェは翼をモチーフにしたものだった。
端的に形容すると翼に布をおっかぶせたブロンズ像。
初めてベビーカーを乗り回し、夜中にヒステリーを起こして両親を困らせていた頃の若村曰く「おばけ!」。
先程のモノリスといい、みなとみらいにはこの手のよくわかんないオブジェが点在する。
近場ならさっき通り過ぎたエスカレーターで二階へ行き、右手の出口に進めばまた複雑怪奇な代物を見ることができる。機会があれば行ってみるといいだろう。
閑話休題。
金縛りが解けた彼女は千載一遇のチャンスとばかりに飛び立つと思われていたが、予想に反してその場に佇むだけであった。
ちょうど冒頭の若村のように。
とにかくこれでやることはやった。少なくとも見殺しにはしてない。
あとは勝手に残飯漁りに戻るなり公園で乞食するなり死ぬなりすればいいワと、若村はクイーンズスクエアへ踵を返した。
とりあえず、今すぐトイレで手を洗いたかったからだ。
彼女の鳴き声は二重の自動ドアに遮られた。
25か29でもよかったな
スマホだとなまらやりにくいっすねこれ