7 神社に忍び寄る、影
七月に入って最初の土曜日、朝早くに僕は神社の近くの和菓子屋、『せせらぎ』に足を運んだ。梅雨はまだ明けそうにない事を知らせる曇り空を見つつ、寂れたドアを開けると中で不愛想な店主、川上さんが頬杖ついたまま出迎えた。常連になりつつある僕には、最近挨拶すらしてくれなくなった。代わりに目で何かを訴えるように頷いてくる。この不愛想な店主と少しは距離が縮まった証拠だろう、と僕も割り切って店内を物色し始めた。
今日はどんなものがいいだろう。まだ雨が降っていない窓の外を見ながら、僕はしばし考え込む。天気予報によると午後からは降るらしく、降水確率八〇パーセント。ほぼ間違いなしと見てこの店に来たわけだ。
ようかんと、かのこの二つを見比べて悶々と悩んでいると、不意に川上さんが口を開いた。眉間に寄ったしわはそのまま、しかしその目にたぎる好奇心は子供のようで、僕よりも若々しく見える。
「和菓子をやる女ってのはどんな奴だ」
滅多に会話をしない彼にしては珍しく、僕のプライベートに突っ込んできた。以前、女性にあげるからと紫陽花のお菓子を貰ってから、たまにこうやって聞いてくることが増えた気がする。その実、僕も誰かに話したくてたまらない時があるので、遠慮なく話すのがいけないのだろう。内気な僕が話しているのは、川上さんにとって面白いことらしい。
「そうですね……その人は、雨宮さんっていうんですけど」
僕は間を置いて、彼女の姿を思い浮かべる。いつでも鮮明に思い出せる、あの存在感。浮世離れした儚さ。僕には眩しすぎて、勿体ない人。だけど、大好きな人。
僕は、その人を語る。
「雨宮さんは、素敵な人です。優しくて、可愛くて。いつも落ち着いて意見が言えて、だけどたまに子供っぽくて」
僕の些細な変化に気付いてくれるくらい、気遣いが出来る。
いつも僕に笑顔を向けてくれる。
雨がとても似合う。
歌が上手くて、聞いていると溶かされそうなくらい綺麗な歌声。
たまに雨に濡れる、そのしっとりとした髪。
実は直球で物を言うところ。
好きな所を挙げ出したらキリがない。きっと一年間ずっと話していられるほどに彼女には魅力的でいい所がいっぱいある。そして、僕はそんな彼女に惹かれてやまない。
何より、あんなに嫌いだった雨が、今は好きで好きで仕方ない。
雨の匂い、包み込まれるようなあの湿度、軽快な雨音。その全てが、今は愛おしいとさえ思う。
僕はそんなことをつらつらと話す。すると、川上さんは眉間に寄ったしわをさらに深めて手をひらひらさせた。
「あーあー、もう分かった、聞いた俺がバカだった」
え、まだまだ話したいのに。
「とりあえず、ヘタレのお前がそんなに惚れこむくらい、凄い女なんだな、その雨宮ってやつは」
「はい。もう、僕には遠い存在で」
「そうか。……なら、その遠い存在をもっと遠くしないように、これ持ってけ」
川上さんは呆れたように言うと、棚から何やらごそごそと取り出した。
そして小さな箱に入れたそれを僕に見せる。
「……これ」
僕は箱の中身を見て、次いで川上さんを見る。彼は、職人の腕前だとでもいうようにどや顔で居た。妙齢の男性でも、こんな凛々しい表情が出来るのかと驚いた。でも、それよりも、だ。
箱の中から顔を覗かせたその和菓子は、ようかんだ。もちろん、小倉の一般的なものである。
だけど、よくよく見ると中央に大ぶりの花びらが散っている。黄色のそれは、花びらだけでもわかる。
ようかんの中で咲き、散っていく、ひまわりだ。
「川上さん、もしかしてエスパー……?雨宮さんはひまわりが好きなんですよ」
「ほう、そいつは好都合だ。こりゃ夏にぴったりだと思ってな。もちろん絵面的にはミスマッチな気もするが、花びらだけが小倉に散ってるのも、なかなか風情な気がしてな」
「川上さんのセンス、少しずれてますね」
「なんだと」
川上さんは器用に右側の眉だけをあげて不審そうに僕を見た。だけど、僕はそれを気にするよりも箱のようかんを手に取って、見入っていた。
うん、この繊細さを思わせない絵面、だけど花びらが散るという儚い印象を持たせるこのようかん。
「だけど、僕のセンスには合っています」
そう言うと、滅多に笑わない川上さんが笑ってくれた。
そんなこんなで僕はようかんを二つ買うと、ようやく降り出した雨を眺めつつ神社に向かった。数分もしないこの距離に便利だなあとしみじみしつつ、毎度毎度おなじみの砂利道を踏みしめた。
鳥居を目指して歩いていると、ふと違和感を覚えて立ち止まる。
いつもはほとんど無人に等しい神社から、何やら複数の話声が聞こえるのだ。参拝客だろうかと思い、鳥居の奥に見える賽銭箱を見るけれど、そこに人は居ない。きっと話し声は神社の敷地の隅なんだろう。
それに、参拝客だとしても大勢の人の声が聞こえるのは可笑しい。なんたって、ここは僕と雨宮さん以外の人を本当に見かけないのだ。
不審に思った僕は忍び足で神社に近づき、鳥居の隅に隠れて中を覗き込んだ。ここからでは神社の敷地を全て見渡すことは叶わないが、それでも違和感の正体を突き止めるには充分だった。
そうして僕が見つけたのは、鳥居の奥、賽銭箱が置いてある階段の左端で十人ほどの男性が濡れるのも構わずに、何かの紙を見ながらああだこうだと話し合っている姿。
一体何の話をしているのか気になって、僕はそのまま耳を澄ませ、雨の音にかき消されそうになる会話を拾った。
「――で、ここは、こう、して」
だが、それでも微かな声しか聞こえない。歯がゆい状況に僕は地団駄を踏みたくなる。だけど、それよりも気になることがある。
十人の男性のうち、一人を除いてつなぎを着ていた。傘をさしているので見えにくいが、あれはどう見たって作業服に違いない。
「なんで、つなぎ?」
無意識に声が出てしまい、僕は慌てて口を押さえた。その呟きが聞こえてしまったのか、唯一つなぎを着ていないスーツ姿の男性が振り返る。
真っ黒な傘から見え隠れするその男性の姿は、鼻筋がスッと通っていて、眼光は驚くほどぎらぎらしていた。長い髪を後ろに束ねているのか、しっとりと濡れていて男の僕でも妙な色気を感じてしまう。優しげで清らかな雰囲気をした端正な顔の男性なのに、こちらを向くぎらぎらとした双眸が僕を射貫いて、雰囲気をぶち壊していた。
「……っ」
僕は慌てて目を逸らし、何でもない事のように賽銭箱の下へと向かう。鷹の目が僕を見ている気がしたけれど、そこは無視だ。ヘタレが直視するにはいささか刺激的すぎる。
数秒かけてたどり着いた賽銭箱の階段に腰かけると、僕は素知らぬ顔で空を見上げる。雨宮さんが居ないのは、彼らが居るからだろう。
「……そろそろ撤収しましょうか」
尖ったナイフのような声で、あの男性がそう言う。他の男たちも頷くと、早々と神社を去っていった。
一体何だったんだ。首を傾げて彼らが去っていくのを見ていると、隣で人の気配がして視線を移す。いつの間にか雨宮さんが座っていた。
「何だったんでしょうね、あの人たち……」
「私にもよく分かりません。でも、最近よく見かけます」
そう言うなり、雨宮さんは僕の持つ紙袋に釘付けだった。期待されていることを悟った僕は、苦笑して紙袋から小さな箱を取り出す。
やがて現れるひまわりの最後に、雨宮さんはどんな顔をするだろう。
僕は楽しみで、こんな毎日がずっと続きますようにと祈った。
だけど、終わりの合図は着々と僕らに歩み寄っていた。