4 襲い掛かる不安を
結局その日、二人は僕のヘタレな考えに納得してくれて、意思を尊重してくれた。二人は良くも悪くも、僕が変に頑固で意思を曲げないことを知っている。
だけど、その二人の気遣いは今回ばかりは僕を動かすことになった。いつものように二人の気が済むまでアドバイスをくれたら、きっと僕は意固地になって本当に動かなかっただろう。人の話を聞かないこの性格をどうにかしたいと思いつつも、直らないのは困ったものだ。
おかげでいつものようにしつこく言ってこない二人に、僕は不安を覚えて神社に向かうことになる。
だって、肝心なところで僕の事を考えて口をつぐむのは、親友たちの変わらない最大の気遣いなのだ。つまり、僕に、自分自身で考えて行動しろよ、と言いたいのだろう。
そんな時、意固地で頑固で、草食系男子な僕は二人に感謝して、意思を曲げることを試みる。
雨がザアザアと音を立てる中、濡れないように傘で頭を必死に隠しながら急ぎ足でいつもの道を辿る。道端に咲いた紫陽花が、梅雨を喜ぶように雫を滴らせて、それが僕に安心感を与える。
まだ、六月だ。終わりがけとはいえ、梅雨っていうのは七月上旬まで続くもので、それまでは。それまでは、きっと大丈夫だ。
僕は妙な焦燥感に駆られながら、それでも神社にたどり着いて鳥居を潜ると、落ち着きを取り戻し始める。もはやこの場所は、僕にとって家よりも安心できるところになり変っていた。そこに雨宮さんの愛しい姿があれば、更に二重丸。僕は賽銭箱の下へやって来ると、傘を閉じて穏やかな笑みを称えた雨宮さんにこんにちは、と声をかけた。
「こんにちは。今日も土砂降りですね」
「そうですね。嬉しいですか?」
「もちろん。雨が大好きですから。それに、赤瀬さんに会えるし」
恐ろしい一言をぶち込んできた雨宮さんに僕は赤面しながら、隣に座る。どう答えればいいんだ、こういうのって。
「そ、そう、ですね!それに力もたまるし!僕も雨、大好きですし!」
挙動不審、そろそろこういうところは直ってほしいのだけれど全くそんな兆しはない。僕はいつになったらヘタレを卒業できるのだろうか。
雨宮さんをちら、と盗み見る。相変わらずの綺麗な長い髪、白い肌、華奢な腕。全てが清廉で、白のワンピースに身を包んだ彼女は、なるほど女神だ。
僕は、いつかこんな素敵な女神と会えなくなるのだろうか。
友喜の言った言葉が、何度も頭を過る。
――そんなんじゃ、雨宮さん離れてくぞ。
分かってる。僕だって、そんなことは分かってるんだ。
いつか別れは来る。再会したって、ずっと一緒に居られるわけじゃないから。雨宮さんは、僕ら人間よりもずっと不確定な存在だから。
だから、僕は何か繋ぎ止めるものが欲しい。何でもいい。雨宮さんと、少しでも居られるような、何かを。
言葉でも、物でもいい。
ただ、僕は雨の日にこうして雨宮さんと会って話が出来ればいい。それだけなのだ。
不安が顔に出てしまっていたのか、いつの間にか雨宮さんがこちらを見つめて眉を寄せていた。形の良い眉がキュッと締まって、目も細められて。あれ、もしやこれは睨まれているのでは。
「雨宮さん?」
「せっかく来てくれたのに、上の空で何を考えているんですか?」
「えっと、それは」
僕は口をもごもごとさせて視線を逸らした。今、雨宮さんの顔を見たら泣き言を言ってしまいそうだ。だって、彼女はあまりにも儚くて、僕には眩しい。
「……赤瀬さん」
「はい」
「こっち、向いてください」
と言われても向けるわけない。僕の心はぐちゃぐちゃで、どうにもならない。こんな情けない所、見られるわけにはいかない。僕だって、男なんだ。
それでも雨宮さんは諦めずに僕の頬を触り、そして。
つねった。
「あだっ!」
いきなりの事にどうしたらいいか分からず、ひとまず頬を押さえる。無意識に雨宮さんを見ることになって、これは彼女の作戦なんだなと気づいたころにはもう遅かった。
雨宮さんは、僕の頬をつねった指先を、今度は僕の目元に這わす。優しく、拭う。
土砂降りの雨の中、それでも濡れるはずのないこの両目から何かが溢れているのに気付いて、僕は更に雨宮さんの指先を濡らした。僕は、泣いていた。
「泣かないで」
「……すみません。いきなり泣き出して、情けないですよね」
「いいえ、そんな事ないですよ。だって、私を想って泣いてくれているのでしょう?」
「……何でもお見通しなんですね」
「もちろん。赤瀬さんをよく見ていますから。事情を、聞いてもいいですか?」
僕は無言で頷くと、雨宮さんの指先を優しく包み込んで両目から離した。そして、未だ止まらない涙を無理やり拭って、今日あったことを話し始めた。
「友喜と幸弘に、このままだと雨宮さんと離れちゃうぞ、って言われたんです。もちろん二人は雨宮さんの事情を知らないし、ただ親しい間柄だと思って言ったんでしょうけど。僕にはそれが、どうしても引っかかって」
「私が、また消えてしまって、離れ離れになると思ったんですか?」
「はい。だって、梅雨が終わったら、雨宮さんは消えてしまうかもしれない、ですよね。また会えるかどうかもわからない」
もしかしたら、明日には会えなくなるかもしれない。例年より早い梅雨明けが来るかもしれない。可能性がないわけじゃない。いつか、僕らはきっと会えなくなる日が来る。
それが今すぐだと思うと、酷く寂しくて悲しくて。僕はもっと雨宮さんと居たいのに、ただ会えるだけでいいのに、それすら叶わないなんて、あまりにも悔しくて。でも、僕には彼女を繋ぎ止める何かを持っているわけでもない。どうすれば、いいんだろう。
「赤瀬さん」
僕の気持ちを掻い摘んで話をすると、雨宮さんは驚くほど優しい顔をしていた。全てを包み込むような、そんな顔だ。これこそ、雨の神様に相応しいと、そう断言できるほどに。
「私、そんな簡単に消えたりしませんよ」
「え?」
「何十年、何百年も。……遥か昔から存在する私は、確かに神という名の下で、不確定な存在ですけど。それでも、その長い間意思を保ち続けたんです。だから、そう簡単に消えません」
「……でも、二年間、会えませんでした」
「それは力を使い切ったからです。姿を現す力はないけれど、私はいつだってこの神社に居て、意思を持っていました」
それに、と雨宮さんは続ける。気づけば土砂降りの雨は小降りになっていて、空もかなり明るくなってきていた。ああ、雨が止んでしまう。太陽が、出てしまう。そうしたら、この時間も終わりだ。
そんな不安を抱えていると、彼女は階段の脇からオルゴールを取り出して、僕に見せた。
そして、穏やかな顔で言う。
「赤瀬さんが私を繋ぎ止めるものを何も持っていないなんて、嘘です」
オルゴールのネジが細い指によって巻かれる。やがて流れ出す、穏やかなメロディー。二人の天使が、軽やかに踊り出す。僕らの、思い出。
「二年間、雨が降るたびにここへ来て、お賽銭をして、お供え物をして、私に楽しいお話を聞かせてくれたのは、赤瀬さん」
雨が、止む。雲が太陽を舞台に引きずり出す。蒸し暑いはずなのに、きらきらと輝く太陽は、僕らを母のように包み込む。
そして、太陽の下で見る雨宮さんの顔。一層際立つ白い肌。なのに、とても消えてしまいそうな予感はさせない、力強さ。
「貴方なんです」
僕が、ちゃんと繋ぎ止められていた。そんな、事実が、今目の前にあった。
「大学で留年しそうなこと、友喜さんと幸弘さんの話、春さんのお葬式の話。全て、私は聞いていたんですよ。そうして、貴方の想いの強さを受け取って、私はここに、戻ってきました。貴方の隣に」
ほら、太陽の下でも平気でしょう?
そんな言葉が聞こえて、僕は俯いた。ああ、本当だ。二年前と変わらない雨宮さんは、でも確かに変わっていた。太陽の下でも、姿が見られる。あの日のような、病的なものが一切見られない、元気な姿が。
僕の目に映っていたんだ。
「ずっと僕の隣に居てくれたんですね」
「ええ。ずっと」
「消えないんですか?ホントに?」
「そりゃあ、二年前ほど弱くはないですよ。なんたって、赤瀬さんの力で動いてますから」
「そうですか」
「はい。あ、でも晴れた日に遠くに行くのはちょっと厳しいですけど。力を回復するのに時間かかってしまいます」
「でも、前みたいに完全に消えない?」
「大丈夫です。二、三日すれば元通りです。それこそ、赤瀬さんが今でもお供え物をしてくれるから」
和菓子の事だろう。神様には、何よりも気持ちが大事なのだということを僕は学んだ。僕は嬉しくて、ちょっと気持ち悪いけど顔をだらけさせたまま、雨宮さんに向き直る。本当に、平気なんだなという証拠を見るために。
「梅雨が終わっても、今までのように会えますか?」
「はい、もちろんです。雨の日に限らず、晴れの日にだって、たまになら会えます。一日中、でも」
「そうですか……、じゃあ、買い物に行けますね」
「ええ。またあのショッピングモールに行きたいです」
「行きましょう、絶対に。じゃ、じゃあ、ですよ」
ついこないだ見た、大学の廊下にあった張り紙を思い出す。夏祭りの開催日と場所と、それと。
意を決して口に出す。多くは望まない。雨宮さんに負担をかけないように、だけど二人で居たい。
「花火を見ませんか。もうすぐお祭りがあって、その、場所に行くんじゃなくて、ここで、二人で」
「ええ、もちろん」
そう言って笑った雨宮さんは、ひまわりのようなのびのびとしたもので、僕は、それを見て前に進むことを決めた。
僕は、雨宮さんと、ちゃんとした関係を築く、と。
いつの間にか、オルゴールの音は止まっていた。