15 たくさんの気持ちを受け取ってほしいから
部室に入った途端、聞こえてきたのは雨宮さんの感嘆の声だった。普段は雑然としていて、もはや何をしているか分からないような室内が、見事に変わり果てている。
そこかしこにありとあらゆる植物が見栄え良く並び、時にはレポートやポスターで分かりやすく解説されていて、植物に興味がない人でも楽しめる内容になっていた。観葉植物や色とりどりの花の合間に覗いた僕たちの育てた拙い花も、見事に咲き誇っていた。課題のコスモス以外は幸弘が全て担当していて、植物オタクの腕の見せ所だった。
「植物園のようですね」
「幸弘が植物オタクですから……。あいつが部長になってから、この研究会が立ち直ったくらいなんです」
「素敵ですね。だからこんなにも、空気がいいのかも」
雨宮さんはくすっと笑みを零すと、気が向くままにくるくると部室内を見て回った。さほど広くない部室だけに、密集した植物たちがざわざわと触れあう。窓から吹き込む風が、僕らの空気を動かす。
これが赤瀬さんの育てたコスモスですか?とっても可愛いですね。太陽みたいにキラキラしてる!そうだ赤瀬さん、帰りに何かお花を買っていきましょう。お部屋にも飾りましょうよ。
そんな言葉たちが、僕の耳を吹き抜けていく。そうですね。買って、帰りましょうか。
たったそれだけ言うのに、僕は絞り出すように気力を使っていた。緊張して心拍数が挙がる。小人が僕の心臓を太鼓のように鳴らしているとしか思えなかった。
でも、やるしかない。
「あ、雨宮さ、ん!」
呼びかけると、はい、と振り向いて笑顔を見せてくれる。その手には幸弘直筆のレポート。子供でも分かるように書かれた、優しい内容だ。
「あ、あ、あの、の、です、ね」
どういうわけが呂律がまともに回らなかった。今までも緊張して喋れないなんてざらにあったけれど、今はそれどころではない。まさかまともに声が出ないなんて。コミュ障なんてレベルではない。これでは会話をする気すらないように思える。気張れ僕!勝負はここからだぞ!
「赤瀬さん?」
「いや、実はですね。雨宮さん、に。わちゃしたいものがあって」
噛んだ。
盛大に。
噛んだ。
そして、同時に雨宮さんがぷっと吹きだす。僕は羞恥で俯いて、何も出来なくなる。やがて僕の気も知らずに彼女は割れんばかりの笑い声をあげた。お腹がよじれるんじゃないかと思うほどの大声に、いつものおしとやかさが消える。
「そんなに笑うことないじゃないですか……」
「だって。す、すごく噛んで……」
未だにふふふ、とお腹を押さえる雨宮さんはたまらないとでもいうように手を叩いた。彼女らしからぬ姿に、新たな発見をしていつもなら嬉しく思うのだけれど。さすがに今回ばかりは自分の羞恥心が勝ってしまって言葉が出てこなかった。
「酷いです」
「ご、ごめんなさい。……もしかして、怒ってます?」
雨宮さんは手に持ったレポートをそっと戻すと、僕の目を覗き込んだ。深い夜の瞳の中に月を見つけて、僕は唇を尖らせる。眉を下げて、少しだけ後悔しているその表情を見ると、僕は何も言えなくなる。ずるい。可愛い。けど、やっぱりずるい。
「怒ってないです。けど、笑いすぎです」
「はーい。これからは気をつけます」
ビシッと敬礼してふざける彼女に、とうとうたまらなくなって僕まで笑い出した。何だっていうんだ。悩んでいたのがバカみたいじゃないか。緊張感を返してほしい。
雨宮さんもつられて声をあげると、部室内に奇妙な音が響き渡る。二人の男女がひたすら笑いを漏らすその空気は、不思議だけど、明るいものだ。
「悩んだ僕がバカでした」
「……はい?どうか、したんですか」
「ええ、どうかしているんです。雨宮さん、よく聞いてくださいね」
緊張は僕の心から羽ばたいていった。残るは最悪の結末が訪れてしまったら、というネガティブな不安。でも、それは押し隠す。
「渡したいものがあります。……雨宮さんのために、育てた花があるんです」
僕は部室の隅に、誰にも見られないように置いていたその鉢植えを雨宮さんに見せる。深海のような色をした花弁がいくつも芽吹いているその姿は、愛らしい。
雨宮さんは口元を押さえて、花弁に指先をつけた。揺れた小さな花を二人で見つめて、僕は再び口を開いた。
「雨宮さん。僕は二年前、貴方に出会って、人生が変わりました。雨がたまらなく楽しくなって、大切な人を見つけて、尊さを知った」
「私だって、赤瀬さんに出会って、変わりました。考え方も、生き方も」
「それなら良かった。けど、雨宮さんは途中で消えてしまいましたね」
「はい。……私自身、自分の事が分かっていなかったから」
「辛かった。僕に、人を失う怖さを教えておきながら、自分まで最後なんて言って消えていくんですから、腹も立ったんですよ」
「ご、ごめんなさい……」
「でもね、同時に実感したんです。待ち続けた二年、そして再び雨宮さんと一緒に過ごせるようになってからの日々の中で、僕は改めて思いました」
「実感?」
「はい。二年前も、言ったんですけどね。僕は、雨宮さんが好きです。女性として、大好きなんです。……僕と、恋人、という関係になってくれませんか。こんな僕だけど、雨宮さんが好きな気持ちなら、誰よりも負けません」
言い切った瞬間、エボルブルスがふわふわと揺れ始めた。ふと、窓の外を見てみると、さっきはあれほどカンカン照りの晴れ模様だったのに、雨雲が空を覆いつくしていた。今にも雨が降り出しそうな、そんな雰囲気だ。
目の前でエボルブルスを見つめている雨宮さんは、俯いたままで、何も言わない。
しばらく待ち続けると、ようやく、絞り出すような小声で返ってきた。
「私で、いいんですか。……前にも言った通り、私は何者か分からない、不完全な人間ですよ」
「雨宮さんじゃなきゃダメです。僕にとって、大事にしたい女性は雨宮さんただ一人です。この花だって、雨宮さんのために育てたんですよ。色も、形も、花言葉も、全部。あなたにぴったりだと思って」
雨が似合う彼女は清涼感に溢れている。そして、そんなあなたに、あふれる想いを抱えています。
どうか、この気持ち。
伝われ。
「僕と、付き合ってください」
そう言った瞬間だった。
耐えきれなくなったように、雨雲が涙を流し始めて、大学祭を包み込んでいく。瞬く間に大雨を降らす雲に、僕は神秘を感じた。俯いた雨宮さんの答えが怖い。
けど、この雨によって、既に答えは受け取っているようなものだった。
「勿論です。こちらこそ、よろしくお願いします」
勢いよくあげられた顔には天使かと見紛うような笑顔。けど、その瞳には雨が降っている。僕もつられて、雨を降らした。
彼女は恐る恐るエボルブルスを受け取ると、大事に抱きかかえて僕にそのまま寄りかかる。心臓は驚きと嬉しさで馬の如く早鐘を打った。
僕は、流れるままに、彼女を抱きしめた。
「この花、大切にしますね」
「はい。今度は一緒に、育てましょう」
そうしてただのヘタレ草食系男子である僕と、神様である雨宮さんは恋人という関係になった。
その後、僕たちがどう生きてどう過ごしたのか。
それは、またの機会で語るとしよう。
ひとまず、これより先は、この部室を薄闇に連れ込んだ雨雲だけが知っているのだから。




