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神様の涙2  作者: 美黒
2 歩み寄る日常
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11 突然のあらゆる感傷

 二人きりで話したいんです。出来れば、落ち着いた場所で。

 そう言った恩田さんは、講義が終わった後、屋上に行こうと前方を歩いていた。陽が傾きかけた屋上は残暑の残り香で生暖かい。時折吹く風が心地よくて、僕は目を細めた。恩田さんが座ったベンチに一人分、間を空けて座ると、二年前を思い出した。

 雨宮さんがもうすぐ居なくなる、そして僕が自分の気持ちに気付いた時、友喜と幸弘がこのベンチで僕を叱って勇気を奮い立たせてくれた。思い出想い深い場所なのだ。

 そんな感傷に耽っていると、しばらくだんまりだった恩田さんは、スッと、何かを差し出した。無意識に受け取ると、僕は首を傾げた。手のひらサイズの長方形に、シルバーに輝く桔梗の模様。薄い鉄で出来た上部には、ピンクのリボンが巻き付けられている。

「……栞?」

「そうです。この栞、見覚えがありませんか」

「ううん?確かにどこかで見たことがあるような」

 その可愛らしい栞を凝視すると、僕は傾げた首を更に深く倒して大袈裟に反応する。栞なんてつい最近の記憶ではない。僕は本を読まないから、持っていても意味がないからだ。

 そういえば、春さんが生きていた頃は彼に近づきたくて一時期読書がブームだったような。

 そんなことを悶々としていると、やがて恩田さんが待ちきれないとでも言うように口を開いた。彼女は、何処か遠い空を見ていた。

「私達、幼い頃に会ったことがあるんですよ」

「……え?」

 まさか。そう思った僕は、栞と恩田さんの顔を見比べて、記憶を辿る。幼い頃と言われても、よく覚えているわけではない。そもそも、小さい頃から女性に免疫がなかったのだから、話す機会だって全然ない。学校では女子の前で縮こまっていたのだから。

 幼い頃に話していた記憶のある女性なんて、それこそ美代子さんしか居ないのでは。栞をあらゆる角度から観察して、僕は記憶の糸を解こうとするけれど、まるで覚えていない。

「本当に、覚えていないんですね。その栞だって、先輩がくれたのに」

「僕が?」

「はい。病院で、本が嫌いな私に」

 そこで、ようやくおぼろげな記憶が過る。病院、のワードで思い出したそれは、確信はないものの、それでもある一人の少女を彷彿とさせた。

「小学生の頃、僕に本はつまんないって駄々をこねた子?」

「そうです」

「その後、僕が本の読み聞かせをしてあげた?」

「はい。……ようやく、思い出してくれたんですね」

 恩田さんは可憐に笑うと、ボブの髪をいじり始める。その頬が少し赤いのはどうしてだろう。僕は、栞を返すと、忘れていてごめん、と謝った。僕の人生で、珍しく女性の気配があったというのに全く覚えていないだなんて、失礼にもほどがある。


 それは、僕が小学生の頃の話だ。低学年だったのは覚えているけれど、それ以上はあやふやだ。

 僕は幼い頃から春さんが全てで、家を追い出されるまでは彼にべったりだった。本物の兄弟以上に兄弟らしくて、だけどなりきれない、複雑な関係だった。

 春さんが大好きな僕は、幼い頃に、彼の何度目かの入院に酷く落ち込んでいた。毎日彼に会えないのは苦しい。臆病者だから毎日会いに行くほどの勇気はないし、空いた時間を遊びに回せるほどの友人関係を築けてもいない。彼女なんてもってのほかだ。

 そんな僕は、春さんの気を引きたくて読書を始めた。読書家で、あらゆる本を読んでいた彼と話が出来るように苦手な活字を無理やり頭に叩き込んでいた。

 彼の本棚にある小説を読み切って、感想を伝えた日には二人で盛り上がり、それが楽しくて仕方なかった。本の話が出来て、春さんも嬉しそうだったのが記憶にある。

 おかげでしばらくの間、僕は読書がブームになって、あらゆる本を図書館から借りることになった。形から入ることも重視していたのか、好みのブックカバーや栞を見つけると少ないお小遣いで買ってしまう事もしばしばあった。

 そして、恩田さんの持っている栞は、春さんにあげようと店で見かけて買ったものだった。

「あの頃、私は外で遊んでばかりいて、大けがをしたんです。それで、貴方のお兄さんと同室になって、つまんない、ってずっと言ってました」

「そうだった。それで、春さんが検査で居ない時に僕がお見舞いに来ちゃって」

 ――それ、なあに?

 ――ひっ……

 ――ねえ、なにって聞いてるの!

 ――し、栞。ここに居る、春さんって人にあげるの

 ――栞?本に挟むやつ?

 ――そう

 ――ふうん。本、面白い?ここのお兄さんもずっと読んでる

 ――面白いよ

 怯えながらも懸命に答えていた僕は、やがて目の前の少女が本は嫌い、難しい、と言い始めて、それがなんだか悲しかった。春さんが好きなものが、みんなに受け入れられるものじゃないなんて、って子供ながらに傷ついて、それで、僕は絵本なら、って読み聞かせをしてあげた。

「浦島太郎ですら知らなかったんだから、あの時は驚いたな」

「本に全く触れることがなかったんです。今思えば、絵本すら読ませなかったうちの両親もちょっと変わってますね」

 春さんの棚にあった浦島太郎を拙い声で読み聞かせたら、意外にも彼女は気に入ってくれたようで、もっと、とせがんできた。だけど、そのタイミングで春さんが検査から帰って来て、しかも、明日には退院できるという嬉しい報告まで持ってきてくれた。そうなると僕は春さんの事で頭がいっぱいで、普段大人しい身体も全力で飛び跳ねた。

 けど、恩田さんに読み聞かせをすることは出来ないという現実も同時にやって来る。僕は、お詫びのしるしに春さんにあげるはずだった栞を彼女にあげたんだ。

 桔梗を象った、可愛い栞を。

 ――ご、ごめん。読み聞かせは出来ないの。でも、この栞をあげる。よければ使って。これで本を読んだら、もっと面白い話が見つかるよ

 そう言って僕たちは別れた。

 たったそれだけだ。

 でも、恩田さんはまさか覚えていてくれたなんて。僕なんて、人生で女性と話した貴重な場面をすっかり忘れていたというのに。

「この栞、ずっと大切にしていたんです。あの日、誰もお見舞いに来てくれない中で先輩だけが私に構ってくれましたから。凄く嬉しかったんですよ」

「そうなんだ……。本は、好きになれた?」

「勿論です。今ではすっかり読書家ですよ。体育会系から文系にシフトチェンジです」

「それは凄い。僕はたまに読む程度だから、恩田さんに追い越されたかも」

 何より、本を見るとどうしても春さんを思い出してしまう。あらゆる本を読んでいた彼は、その短い人生で様々なものを蓄えて、僕に知識を与えてくれた。僕は、本を見るたびに、春さんがどう感じていたか、どう読んだかが過ぎって、胸が痛くなる。やっぱり、彼の死は克服できていないから。

「この栞をずっと大事に持ってました。お守り代わりなんです。……そんなお守りをくれた先輩が隣に住んでいると知って、私、びっくりしたんですよ」

「でも、僕の顔を見てよく分かったね。そんなに変わってない?」

「変わってません。それに、病室で見た赤瀬という名字、滅多に見かけなかったから。まさか、なんて思ってたんです」

 くすくす笑う彼女に、僕は感心していた。そうか、そんなに変わっていないのか……。女は化けるけど、男はそうでもないのかな。と、どうでもいい事を考えながら彼女の顔を見つめる。何処となく、上の空に見えたからだ。

「恩田さん?」

「先輩。よく、聞いてくださいね」

「う、うん……?」

 呼びかけると、真剣な目で僕と視線を合わせる。雨宮さんではない女性と目を合わせるなんてそうそう出来るものではなくて、逸らしそうになったけれどぐっと堪える。

 だけど、直後に放たれた言葉で、僕はその堪えをいともたやすく崩すことになる。女性とはあな恐ろしや。

「私、先輩の事が好きです。付き合ってください」


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