10 人の気持ちを考えるという事
突き動かされる感情をエンジンにしてアパートに辿り着くと、僕は鍵がかかった玄関を拳で殴った。勿論痛い。きっと雨宮さんは、僕に内緒で外に飛び出して、それで、きっと黙っているつもりだったんだろう。たったそれだけだ。でも、それが許せない。何事も無かったのように、鍵がかけられた玄関でさえ、憎く見える。ねえ、たったこれだけで感情を湧き上がらせるのは、可笑しいのですか。これが、恋なのか。
「……ただいま」
いつもの調子で、とはいかずに、玄関を開けて家に入ると、声のトーンがかなり低くなってしまった。それでも勘のいい雨宮さんは僕が帰ってきたことをすぐに察知するはずだ。そう思って、歩き慣れた廊下をずんずんと進んだ。
けれど、予想に反して雨宮さんは僕が帰ってきたことに気付いていなかった。ベランダに繋がる窓にもたれて背を丸めている。時折聞こえる嗚咽で、僕は昂らせていた感情が萎んでいくのを感じた。
雨も降っていない窓ガラスに映った雨宮さんは、震えている。黄昏色に染まりつつある空が、僕らを淡く包み込む。電気もつけないで、彼女は何かを悲しんでいる。
「雨宮さん」
「っ……赤瀬、さん。お帰りなさい」
「ただいま」
僕は手に持ったどら焼きを机に置くと、彼女に近づいて、丸まった背中を撫でた。視線を合わせようとすると、濡れたまつ毛が伏せられて嫌そうに拒否反応を起こす。僕は、ぐっと唇を噛んだ。
「何か、あったんですか」
「……何も、ありません。……川上さんは、上手くいきましたか?」
「ええ。どら焼きを貰ってしまいましたよ」
「それは良かったです」
無理に笑おうとして、涙がこぼれた。僕はその涙を指先で拭ってやると、今度は彼女が唇を噛み締める番だった。
「話を逸らさないでください。何かあったんでしょう。どうして泣いているんですか」
「何も、ないんです。大丈夫ですから。放っておいてください」
「そんなわけ」
そう言いかけたところで、僕は雨宮さんの手の中にあるものに目を見開いた。いつもベランダの祠の中に祀っているはずの、あの石が彼女の中で息づいていたのだ。相も変わらず光の加減によって色彩を変え、僕の目を侵す。宝石のようなそれは、雨宮さんの心臓で、だからこそ、大事にしている二人の物だ。
「どうしてその石を?」
「別に、何もありません。ただ、傍で見たいなって」
「じゃあどうして泣くんですか。それだけで、泣くことないでしょう」
素っ気ない言葉に、僕も思わず責めるように言い返す。けれど、すぐに後悔してしまった。雨宮さんが、これまで見た事のないような表情で僕を睨みつけていたからだ。
「雨宮さんっ……?」
「どうして、ですか。そんなの、どうだっていいじゃないですか。私には私の事情があります。話したくないんです」
「……でも」
僕は口ごもって、やはり心の奥底で今か今かと噴火しそうな炎を煮えたぎらせた。そして、我慢がきかない僕は、まんまとそれを爆発させる。
「さっき、天城さんを訪ねていたでしょう。どうして、黙って出て行ったんですか。それがどれだけ危ないか、分かっているはずです。せめて一言、欲しかった」
「見て、たんですか」
「たまたまです。ねえ、どうしてですか。泣いてる原因と、関係しているんですよね」
雨宮さんの華奢な肩を掴んで揺さぶった。絹のような髪が僕にふわりとかかる。でも、その先に見える彼女の顔はいつもの癒しをくれる顔じゃない。雨神様の、きつく人を呪ってしまうような、恐ろしい顔だった。
「っ」
やがて夕闇に染まっていたはずの空が、ぽつぽつと涙を流し始めた。雨神様は、自ら泣くことをやめて、空に自らの感情を託してしまった。
「私にだって、話したくないことはある。それの、何がいけないんです。私は、私は。……私は、何なのですか」
雨宮さんはそう言うと、僕を押しのけて立ち上がり、やがて玄関を飛び出していった。一人取り残された僕は呆然としてその場に留まることしかできない。自分の心臓と共に家を出て行った。その事実を理解する前に、僕は外から聞こえる雨音に心をかき乱された。
ザアザア、ザアザアと音を立てるそれに目を向ける。大好きな雨。傘を持って、二人で話し合った、あの日々が僕にとって何よりの救いだった。
そんな僕は、初めて雨宮さんと喧嘩した。
そのことに気付くのは、もう少し経ってからの事だった。
一週間は七日間。七日間は一六八時間。一六八時間は……。そう考えていると、僕はとてつもない虚しさに襲われる。そう、一週間だ。あれから七日間もの日付が過ぎた。雨宮さんと喧嘩して、彼女が石を持って飛び出して、そうして。
その一週間、雨宮さんは僕の家に帰ることはなかった。
それがどれだけ僕の心身を侵すか、今までの状況を考えたら容易いだろう。何せ、僕は二年もの間、居るはずがないと思いつつも雨の日に神社に通い続けた未練がましい男なのだ。草食系男子の未練を舐めるな。女性絡みの問題を侮ることなかれ。
そんなこんなで、ようやく一週間目にして僕は不安を爆発させた。雨宮さんに嫌われたかもしれない、もう二度と会えないかもしれない。そんなことを心中にわだかまらせて、吐き出す場所を探した。
そして、その場所もいつも通り、あの植物研究会である。
「雨宮さんと喧嘩した……。もう会えないかもしれない」
「はあ?」
「何だって?」
時は昼過ぎ、植物研究会の部室にて、友喜と幸弘、そして他のメンバーがぞろぞろとごった返す部屋の中で、来る大学祭に向けてレポートやら写真やらをまとめている時である。部長である幸弘の指導は他のメンバーにもてきめんで、意外にも植物に興味を持つメンバーが増えてきた。僕なんかよりもよほど有能なメンバーが出来上がるその様は、王国と言っても過言ではない。
そして、そんな中で、なぜかいつも通りメンバーのように居座る友喜とレポートを書き上げていた中で、僕は涙声でそんなことを呟いた。ざわざわと皆が楽しそうにしている中で、僕たちのグループだけはどんよりと湿った。自分のせいだと分かっていても、こればかりは仕方ない。だって、雨宮さんの顔を一週間も見れていないのだ。
「詳しく話せ。さもなければ俺はお前に鉄槌を下すぞ」
「それはご勘弁を。その、さ」
僕は二人に、色々と誤魔化しながら割愛して話すことにした。もちろん、二人は恩田さんと違って雨宮さんと暮らしていることを知らない。そのうえ、やはり神様であることを話すわけにもいかない。なので、とりあえず天城さんの家から出てきたところと、その後問い詰めたら泣き出して飛び出していったことを話した。よくよく考えてみれば、雨宮さんはどうして怒っていたのだろう。どうして泣いていたのだろう。人に話すと、自分の頭の中で整理されて、疑問が確かなものに変わる。それだけでも、二人に話して良かったなと思った。
「なんだかよく分からないけれど、雨宮さんが泣いている時にお前が問い詰めたってこと?」
「そういうこと……になる。ダメだった?」
「ダメだな」
幸弘のバッサリとした言葉に胸が貫かれる。そうだよな。うすうす感じていたけれど、嫉妬の炎を煮えたぎらせてそのまま問い詰めたのはまずかったかもしれない。もっと、優しく聞けばよかった。
「例えばだな。お前が雨宮さんに知られたくない事でひっそりと悩ませて泣いているとしよう。そう、女性が苦手であると」
「ヘタレ具合の真骨頂だね」
「そうだ。しかしそんな情けない姿を雨宮さんに見られたくないだろう。悩みだって聞かせるわけにはいかない。だけど、悩んでいることを無理やり話せと雨宮さんが迫ってきたらお前はどう思う。素直に話せるか?」
「絶対無理でしょ。だって時也だもん」
「俺も無理だと思う」
「酷いよ二人して!無理だと思うけど!」
「だろ?話せるわけないのにそれでも問い詰められたら、お前、ちょっとイラっとするんじゃないか?嫌だなって思うだろ?」
「あ……」
僕はなんて愚かなんだろう。自分の感情に身を任せて、彼女の気持ちを無視していた。こんな簡単な事にも気づけなかった。相手の気持ちになって行動する。考える。そんな、人ならば当たり前にしなければならない事を、僕は出来なかったんだ。確かに無理やり聞かれたらむかつくに決まっている。しかも傷心中なら猶更だ。
「分かったか?」
「分かりました……」
「ならさっさと会いに行って謝れ」
「そうそう。もうすぐ大学祭なんだよ?それまでに仲直りしないと、あの花、渡せないよ?告白だって出来ない。そんなの嫌でしょ」
「それは嫌だ……」
僕の横で必死な顔を覗かせているエボルブルス。これを無駄にはしたくない。雨宮さんを体現したかのような、可憐な花をこのまま終わらせるのは、雨宮さんにも、この花にも、そして必死に協力してくれたこの二人にも失礼だ。
「だろ。じゃあ謝れ。仲直りしろ」
「そうそう。いい報告、待ってるよ」
「うん……そうする」
実のところ、雨宮さんの居場所は知っている。多分、天城さんの所に居るはずだ。ただの勘に過ぎなかったそれは、つい三日前に天城さんから連絡が来て、どうにかしてくださいと皮肉交じりに僕を叱咤し、核心に至らせた。それでも僕は、喧嘩なんて初めてで、何をしていいのか分からなくて行動を起こせなかった。ヘタレ、ここに極まれり。
でも、簡単な事なのだ。喧嘩したら謝ればいい。ごめんなさいって一言、自分が悪いことを認めればいい。無理に聞き出すことはしなくていい。だって、雨宮さんは雨宮さんじゃないか。何があっても僕は彼女を好きでいられるのだから、彼女が悩んでいるようだったら黙って寄り添えばいい。いつかの、僕を支えてくれていた時のように。
「今日、謝りに行ってくるよ」
そう言って決意の顔を浮かべた僕に、背後から名前を呼ばれて、肩を震わせた。その声は、最近よく聞く恩田さんだ。そう言えば、恩田さんはこの間雨宮さんと何やら不穏な空気を漂わせていたけれど、あれは何だったのだろう。
「恩田さん?」
「その話、本当ですか」
「その話、って?」
「エボルブルスをあの女性に贈るという事です。告白もするとか」
「う、うん。そうだよ?」
僕が答えると同時に、友喜がやべ、と声を漏らすのが聞こえたけれど、どうしたのだろう。何がやばいのだろう。どちらかと言えば、女性と話さなければならない今の僕の方がヤバいと思うんだけど。
「……そう。そうなんですね」
恩田さんは既にまとめて終わったレポートを幸弘に渡すと、なぜか沈鬱な表情を浮かべて僕を見つめてくる。やめてください緊張で爆発する。
「なら、仕方ありません。……赤瀬さん、後でお話があります。少しだけ、二人になれませんか」
「え?……うん。大丈夫、だけど」
二人で。その単語に僕は頬が引きつるのを感じたけれど、それでも隠すことに徹した。
何故なら、恩田さんから発せられる雰囲気がただものではなくて、何かを決意したかのように思えたからだ。
横で親友二人が息を呑む中、僕はこの後訪れる二人の時間に、不安を募らせた。




