9 夫婦の形
ついにやって来た川上さん夫婦の結婚記念日、当然彼と奥さん二人きりで過ごすだろう、と思っていたら。
なぜか僕は、川上家の敷居をまたいで、ケーキ作りに腕を振るっていた。
というと、聞こえはいいけれど、やはり失敗の連続で本番だというのに、川上さんと二人でため息をついていた。
時刻は既に午後三時。どうやら奥さんは病院に行っているみたいで、もうすぐ帰宅するらしい。
けれど、それまでにケーキを作り上げられるかというと、難しい話だった。
「こないだは膨らんだのに、どうして膨らまねえんだ?」
「知りませんよ……。僕だって聞きたい」
朝方、こっそり川上さんが一人で作っていたのだが、例によって上手くいかず、僕が呼び出しをくらったというわけだ。
しかし、ダークマターを作り出す僕を呼んだってたいした戦力になるわけもない。
二人で首を傾げて、目の前のケーキもどきを見つめた。
せせらぎの看板は、晴れ間だというのに音を立てることもない。さて、これからお客さんがやって来るのかなと心配になりつつも、目の前の現状をどうにかしなくては、と頭を唸らせた。
「しまったな。これじゃ間に合わねえ……」
「もうすぐ帰って来るんですよね。ううん……」
今から作っても、また失敗するのは目に見えているし、何より奥さんはもうすぐ帰ってきてしまう。だというのに、この台所を地獄のままにしておくのも忍びない。川上さんは、もはやあきらめの境地に立ったようで、肩をすくめてケーキの残骸をほったらかし、食器を洗い始めた。唯一上手く出来た生クリームのボウルと、膨らまないスポンジが乗せられた皿が、寂し気に映る。
「俺には、あいつのためにしてやれることなんて何もないのかもな」
「まさか!諦めるんですか?」
「こうなりゃ仕方ねえだろう……。こんな失敗作を渡すわけにもいかねえし」
「でも」
「土台無理な話だったってわけだ」
川上さんは呟くと、作りかけのケーキを手に、ゴミ箱に入れようとした。その顔がすねた子供のようで、僕は止めようとした。
けれど、それを遮る白い肌が見えて、僕は咄嗟に目を見開く。皺くちゃの腕を遮ったふくよかな一つの掌。顔をあげると、そこには眉を寄せて川上さんを見つめる、女性が居た。
「お前……いつの間に帰って来てたんだ」
「ついさっきですよ」
そう言って皿をゴミ箱から机の上に置いた彼女こそ、川上さんをずっと支えてきたあの奥さんだ。明るくて優しい声は聞き覚えがある。
「初めまして……いつもお菓子を買わせて頂いてます」
「初めまして。貴方が赤瀬くんね?話はこの人から聞いているわ。いつもお菓子を買ってくれる、若い男の子が居るって。この人、あんまり人と関わろうとしないのに、貴方の話はよくするの。一度会ってみたいと思ったから、とっても嬉しいわ」
川上さんよりもずっと朗らかで、コミュ障の僕を圧倒させるような会話の切り出し方に感嘆する。なるほど、こんな人なら川上さんをずっと支えられるわけだ。
「それよりも、ですよ」
奥さんはふくよかな頬を手に当てて、ちょっとだけ低い声を出す。怒ってはいないけれど、小さな子供を咎めるような口調だ。
「食べ物を簡単に捨ててはいけません。本当に、貴方は頑固で融通が利かないのだから」
奥さんはそう言うと、棚から箸を取り出して、器用にも未完成のケーキに生クリームをつけて口に入れた。僕と川上さんは唖然として黙りこむ。
「不味くないのか」
「まさか。……貴方が、和菓子一辺倒のあなたが。私のために作ってくれたケーキを、不味いはずがありません」
そう言う奥さんは、確かに美味しそうにケーキを頬張っていた。味の良しあしはともかく、その姿は嬉しそうで、川上さんも照れくさそうに頬をかいた。
「……そうか。もしかして、気づいてたのか?」
「ええ。とっくに、ずっと前から。だって、あんこの匂いしかしないはずの台所から香ばしいバターの香りがしたら、誰だって気付きますよ」
そう言う奥さんは壁に掛けたカレンダーに目を向けてにこりと笑う。あがった口角から放たれた言葉は、川上さんを優しく包み込ものだった。
「結婚記念日だから、私のためにケーキを作ってくれたのでしょう。全部、お見通しですからね」
「……そうか」
「とっても、嬉しいですよ」
「ああ」
川上さんは照れくさそうにそっぽを向くと、それ以上は何も言おうとしなかった。けれど、ここまで来て何も言わないのは僕が許さない。
僕は川上さんの背中を叩くと、口パクで言って!と脅迫する。彼は逡巡した後、ようやく固すぎる口を開いた。
「なあ。……その、だな。結婚してからずっと、俺を支えてくれて、感謝してる。……いつも、何もしてやれなくてすまん」
「いいの。私は、貴方の和菓子に必死な背中を見るだけで、充分幸せですから」
「でも。俺たちは見合いだろう。……お前の夢も諦めさせて、何もしてやれなかった」
頑固者で、無口で照れ屋な川上さんは、それでも小声でそんなことを言う。僕もその点に関しては、奥さんの忍耐力の底知れなさを感じている。こんな状況で、それこそ、夢もなくして和菓子しか見ない夫と暮らして幸せと言える彼女は、どういう心境なのか。
「あらやだ、そんなことを気にしているの」
「そんな事って、お前なァ……。洋菓子の類だって一切食べれなかっただろう。お前、結婚する前パティシエになるって言ってただろうが」
「ええ、まあそうですけどもね」
奥さんは目を細めて、一つ、箸で未完成のケーキを川上さんの口に放り込んだ。むぐ、と声を漏らした彼は、そのケーキの味に顔をしかめた。やはり、その。味は、あれだったのだろう。
「なりたいって言ってそう簡単になれるわけありませんよ。何だか勘違いしているようですから、ここではっきり言ってあげます。私はね、貴方の作る和菓子が好きなんです。羊羹も、羽二重餅も、おまんじゅうも、何もかもね。おかげでこんなに太ってしまったわ。パティシエを目指していた時、貴方に出会って、和菓子を食べた時、こんなにすごいものを作る人の傍に居られるのはどんなに幸せなんでしょう、って思いました。だから結婚したんです。いくらお見合いだからって、気に入らなかったらお断りしていますよ」
奥さんは一息にそう言うと、ため息をついた。川上さんが口を開けたまま、奥さんを凝視していて、僕は苦笑した。まさかここで本音が聞けるなんて思っても見なかったのだろう。
「それに、私は外で洋菓子だって食べているんですからね」
「えっ」
「そうなのか……?」
強かな告白に僕まで声をあげてしまい、奥さんに笑いかけられる。そうか、じゃなきゃストレスで倒れても可笑しくない。なるほど、川上さんに内緒で食べているあたり、奥さんは外で色々しているに違いない。でなければ、長年連れ添う事なんて出来ないだろう。
「でもねえ。不思議なのよね。貴方の和菓子を食べるようになってから、他の甘いものがあまり美味しく感じられなくなってね。……ふふ。だからこそ、貴方の隣に居たのよ。勿論、和菓子に向き合う貴方が大好きです。……だから、安心してください。
私は、充分幸せですから」
川上さんの作ったケーキは、確かに美味しくなくて、だけど、いつまでも温かいものが駆け巡るような、そんな味だった。
その後、奥さんはおろか川上さんからも頭を下げて感謝され、何もしていない僕は恐縮してしまった。どうやら奥さんは川上さんから僕の事を色々聞いているみたいで、好きな女性のために必死だとか、神社の一件だとか、諸々を知っているようだった。恥ずかしいやら何やらで僕が照れていると、二人はその好きな女性とおたべ、なんてどら焼きの詰め合わせをくれて今度は僕が頭を下げることになる。
何もしていないと思っていたけれど、それでも僕の行動で何かが変わって、あの夫婦の仲がさらに深まったのなら良しとしよう。
僕は夕暮れ色に染まった空を仰ぎながら、帰ることにした。
両手に持ったどら焼きは正直二人で食べきれるほど物でもない。明日友喜と幸弘にもあげることにしよう。二人には今回も精神的に支えてもらって、また感謝のしようもないのだから。
そして、僕は近所に天城さんの家があることも思い出して、来た道を引き返した。少し遠回りになるけれど、寄っていってどら焼きをお裾分けしよう。憎き相手でもあるけれど、雨宮さんのルーツとなる歴史を守る家系でもあるし、何より彼女の心臓を渡してもらった恩もある。
早足で向かうと、すぐに見えてきた豪華なお屋敷に、僕は安堵してインターホンを押そうとする。すると、中から声がして、僕は手を引っ込めてしまった。
「待ちなさいっ」
その声が天城さんのものであると気づいた頃、その声から逃げるようにして去っていった姿に僕は目を見開いた。
翻るワンピースの裾と、長い髪。必死に足を動かす華奢な身体。見間違うはずがない。
雨宮さんだった。
彼女はそのまま一目散に駆けて行って、やがて路地の奥へと消えていった。僕は呆然としてその姿の幻影をいつまでも思い描いていた。
「雨宮さん……、どうして」
「全く、突然なんなんですか。……おや。貴方も居たのですか」
「天城さん……。あの、雨宮さんがどうしてここに?」
僕が問うと、天城さんは肩をすくめて何も言わずに屋敷へと戻ってしまった。相変わらず性格があまりよろしくない。おかげで僕は、感情をぐるぐると渦巻かせるだけの機械に成り下がってしまう。
おかしい。だって、雨宮さんは出かける時、僕と一緒じゃないと外に出るなんて言わない。それよりも、あの不安定な存在の中で、僕に一言もなく外出なんて危険だ。雨だって降っているわけじゃない。
どうして。黙って、外に。それも、天城さんの所へ。
ぐるぐると渦巻いていたはずの感情は、気づけば噴火寸前だった。真っ赤な炎が燃えている頃、天城さんと二人きりだった可能性を思い浮かべて僕は唇を噛み締めた。
そうか。
僕は嫉妬しているのか。
そう気付いた時、感情に支配されるまま駆け出していた。
今やどら焼きなんて頭から抜け落ちて、代わりに駆け巡った考えはこうだ。
雨宮さんが他の男と一緒に居るのが許せない。
問い詰めなきゃ、と。




