8 彼女といる理由
目の前に広がった惨状を形容するのなら、地獄だろう。
黒焦げの残骸、あちこちに飛び散ったクリーム色の液体、一体どうしたらこうなるのだと問いたくなるほどに真っ黒なオーブン。ついでに言えば道具も使ったまま洗っていないので、台所は魔の巣窟と化していた。
「嫌な予感は当たる……」
僕は呟くと、そのまま隣で茫然としている川上さんに視線を向けた。彼は気まずそうに顔を背ける。これだから嫌だったんだ!
結婚記念日である九月二十六日の一週間前、せせらぎにて、僕と川上さんは奥さんが居ないのを見計らって、ケーキを作る練習をしていた。どうせ今日はお客なんて来ない、そして奥さんも町内の食事会で夜まで帰ってこない、と言ったのは他でもない川上さんで、僕はそれに付き添うことになった。外は嬉しいほどの大雨で、これならお客さんも滅多に来ることはない。万が一の時に備えてレジに呼び鈴を置いてきたが、雨の日は僕以外のお客さんが来ることは珍しいみたいだ。ちなみに家を出る前の雨宮さんはまたも上機嫌だった。それだけで今日一日が幸せに過ごせる気がするから不思議だ。
そしてせせらぎの開店に合わせてケーキ作りをしてみたのだが、この現状である。ケーキとは何ぞや、という結果が目の前に広がっている。そして聞いてほしい。これで二回目の失敗なのだ。気づけば時刻はとうに十二時を大幅に回っている。時計を見た瞬間にナイスタイミングでぐう、と腹の音が鳴ってしまって僕は赤面した。ケーキを作っているとはいえ、とても食べられるものじゃない。何か食べたいな、と川上さんを見ると、彼は珍しく苦笑して肩をすくめていた。
「お腹空きましたね」
「そうだな。……一度片付けて、何か食べるか」
川上さんは食器をまとめて流し台に放り込むと、手早く洗い始めた。僕はそれを横目に、散らかった台所を綺麗にするべく、布巾で拭き始めた。
「川上さんっていつもお昼ごはんは何食べてるんですか?」
「握り飯。あいつが作ってくれてるんだ」
どうやら川上さんは極度の小食らしく、それこそ和菓子以外の食べ物をほとんど口にしないのだという。夕食も残すことが多く、そう言ったものを食べやすく具にして握って、次のお昼ごはんに出すそうな。そんなに甘いものばかりで血糖値の方が気になるところだけど、そこはきっと自分で管理している、と思いたい。
「じゃあ今日も?」
「ああ。食べるか?」
「いいんですか!僕、お昼どうしようか迷ってたんですよね」
「ああ。俺はいつも残すからな」
更に昼ご飯まで残すとは、一体どういう身体をしているのか。僕は訝しみつつも台所を綺麗にして、川上さんが終わるのを待つ。すると彼も食器をピカピカにして少し誇らしげに胸を張り、冷蔵庫に入っていたおにぎりを出す。
そして、僕は先ほどの言葉を前言撤回しようと思う。
川上さんが小食なのではない。
奥さんの作るご飯の量が多いのだ。
「え、と。……これ、毎日ですか?一食の量?」
「ああ。小食の俺には少しきついな。あいつもそこそこ食べるんだが、まあどうしても残る。食べてくれるならそれに越したことはない」
そう言ってお皿に盛られたおにぎりを、先ほど僕が吹き上げた電子レンジに放り込んだ。直径二十センチもあるお皿にてんこもりのおにぎりは、とても一人で食べきれる量ではない。たぶん、川上さんが小食なのではなくて、奥さんの作る量が間違っているんだろうな。そう悟った僕は、それでもありがたくおにぎりにかぶり着いた。
川上家の昨日の晩御飯はひじきの煮物だったらしく、中から煮汁と共にひじきがあふれ出してくる。程よい塩加減と、白飯の相性は抜群で、家庭の味がした。正直とても美味しくて止まらない。
「お前よく食べるな」
「いつもはそんなに食べないんですよ。でも、このおにぎり凄く美味しくて。……家庭の味って、いいですよね」
僕はしみじみとそう呟くと、五つ目のおにぎりを手に取った。どうやら一つ一つ具が違うらしい。これもまた、止まらない理由の一つだ。次は何が入っているのだろう、と考え出すと、どうしても手が伸びてしまう。おにぎりは日本人に欠かせない食べ物だと思う。最高、と叫びたかった。
「でも、食べきれないのにどうしてこんなに作ってしまうんでしょうね」
「……ああ、あいつの家族が結構な大家族でな。いつも大量に作っては振舞ってたから、その癖がいつまでも抜けないらしい」
「へえ……」
僕は写真立ての奥さんを見つめた。穏やかに笑う彼女は、実家でみんなにご飯を作り、美味しそうに食べているのを笑って見守っているのだろう。温かい人のはずだ。
「本当に。……どうして、俺は、あいつにいつも我慢をさせているんだろうな」
何一つしてやれない。作ったご飯でさえ、完食できない。古びたメモを見つめる川上さんは、見ているこっちが辛いほどだった。
それから僕らは、夜までぶっ通しでケーキ作りに専念した。何度も失敗していくうちに、ようやくコツなるものを掴み始めて、初めてスポンジケーキが膨らんだ時は、川上さんとハイタッチをしてしまったくらいだ。
この二人で作るなんて、絶望しかないと思っていたものだけど、意外と何とかなるものなのだな。まだ完成とはほど遠いものだけど、味見した歪なケーキは美味しくもなく、不味くもなかった。これから先、練習すればもっといいケーキになるはずだ。
そうして僕は、程よい達成感を胸に帰宅することになった。
せせらぎを出ると、雨は既に止んでいて、雨宮さんが待っていることを思いだし、早足になる。今日の晩御飯は何にしようかな、と考えつつ、やがてたどり着くアパートの階段に足をかけると、誰かの声がした。
「貴方は……不思議な感じがします。……どうして、先輩と暮らしているんですか?恋人なんですか?」
「……いえ。そんなこと、は」
「じゃあ、なぜ?」
ぼそぼそと聞こえるその声の持ち主は雨宮さんだった。どうして外に、と言いたいところだけど、攻めるように言い放ったのは、多分隣室の恩田さんだということに気付いて訳が分からなくなる。恩田さんには雨宮さんを紹介したことがあったけれど、どうして二人がこんなところで?
なぜか妙な雰囲気になっているところを僕が邪魔するわけにもいかない。壁に隠れて二人の会話に聞き耳を立てていると、恩田さんは明らかに怒りをため込んでいた。
「何だか、怖い。そう言われたこと、ありませんか?」
「そんなことは。……それに、あまり人と話さないので」
「そうですか。では、私が言ってあげます。何だか、貴方は得体が知れません。だからこそ、信用ならない。……赤瀬先輩と一緒に居る理由も分からない。……どうして、先輩と一緒に居るんですか?」
僕は冷や汗をかいていた。たかが数度顔を合わせただけで核心に触れるような疑問を抱く恩田さんの観察眼に舌を巻くしかない。そして、やけに攻撃的なのも気になる。どうして雨宮さんが責められなくてはいけない。彼女は何もしていないのに。
でも、同時に雨宮さんの答えも気になっていた。
雨宮さんにとって、僕と一緒に居る理由とは。果たして、僕が心臓を受け取ったから?本当にそれだけなんだろうか。
気になった僕は、結局その場から動けなかった。
「…………」
「だんまりですか。もういいです。……あまり、下手な事しないでくださいね。……貴方はとても、怖い」
恩田さんはそう言うと、ついに玄関を開けて中に入っていった。
雨宮さんはそうしてしばらく、茫然と立ち尽くして、やがて僕がしびれを切らして姿を現すまで、ずっと動かなかった。その顔には、不安の色が濃く映っているように思えた。
それからの雨宮さんの様子は、何処となく可笑しかった。けれど、僕があの日、恩田さんとのやり取りを見ていたという事は言えなかった。雨宮さんが酷く傷ついて悩んでいるように見えたからだ。
得体が知れない。
見る人によれば、確かにそう思うかもしれない。不確定な存在で、儚い彼女は、人を魅了し、恐れさせる神だからだ。
でも、それが何だというのだ。
僕は、雨宮さんの悩んでいる姿に気付かないふりをしつつも、なるべく明るい話題を振って元気づけようと日々を過ごした。最近の話題と言えば川上さんとのことばかりだけど、そんな時ばかりは彼女も元気に笑ってくれる。不器用な僕には、たいしたことは出来ない。だから、言葉をかける。
「雨宮さんと居ると、とても楽しいです」
もちろん、彼女も嬉しいです、私もです、と返してくれる。
ねえ、雨宮さんと居る理由なんて、たったそれだけで十分じゃないか。
僕たちは、一緒に居たくて暮らしているんだ。楽しいんだ。
幸せなんだ。
それだけで、事足りるだろう。




