2 頑固親父の想い
土曜日、大学の講義もサークル活動もない僕は、雨宮さんの甘いものが食べたいですという可愛いお願いを聞くために、もはやこの店で一番の常連なのではと誇らしくなる『せせらぎ』に足を運んだ。
家からも神社のあったあの場所からも近いこの店は、古びた藍色ののれんに刺繍でせせらぎ、と書いてある。そして、そののれんの奥にあるくすんだガラスの扉を開いて足を踏み入れると、そこにはいつも通り、仏頂面した店主、川上さんがいるはずだ。
さて今日はどんな嫌味を言われるやら、ともはやあいさつ代わりのそれを期待しながら僕はこんにちは、と声をかける。
カウンター席で退屈そうに頬杖をついて、また来たのか、なんて言われるかと思いきや。
「……どうしたんですか?」
珍しく川上さんは俯いて頭を抱え、白髪だらけの髪をわしゃわしゃと撫で繰り回していた。
僅かに覗く顔には、眉間にいつも以上に深いしわが刻まれていて機嫌でも悪いのかと身構える。
「ああ、なんだ。お前か」
僕の姿を確認した川上さんは、俯き加減だった顔をちゃんと真正面にあげて、はあ、と深いため息をついた。上下に揺れる大袈裟な肩が、何やら哀愁を漂わせている。
声のトーンからして、機嫌が悪いわけではないらしい。一度、彼の機嫌が最高潮に悪い時に遭遇してしまって、そのまま愚痴られた時があるのだけど、その時は凄かった。何せ、声が地を這うようなってもんじゃない。火山が噴火したまま、僕に迫りくるかのような恐怖心を抱かせるのだ。川上さんは絶対に怒らせてはいけない人だ。
「ため息なんて珍しいじゃないですか」
「俺だってため息くらいつくに決まってるだろ」
「全然そうは見えませんよ……。むしろため息ついて悩む人を笑い飛ばしてそうです」
「そんな失礼なことを言うのはどの口だ、あぁ?」
おお怖い怖い。僕は肩をすくめて軽口をたたくのをやめ、店内を物色し始める。さて、今日は雨宮さんにどんなものを買っていこうか。
羊羹、饅頭、どら焼き、べっこう飴。実のところ、この店は和菓子の種類が豊富で、どうして繁盛してないのか疑問すら浮かぶほどなのだ。世間と僕の好みは違うということだろうか。ここに通い始めてからスーパーやショッピングモールの和菓子を買わなくなってしまったというのに。
ううん、今日はどら焼きを食べたい気分だ。あ、苺の餡なんてのもある。普通のものと一緒に買って、雨宮さんと半分こしよう、とにやけた顔で妄想しながらどら焼き二つを手に、川上さんへと近づく。川上さんはいつもの如く、無言で商品を受け取り、しかし迅速に、丁寧に袋詰めをする。
「四百円」
「はい、お願いします」
僕が千円札を出して、代わりに商品を受け取ると、川上さんが釣銭を渡してくれる……かと思いきや、彼は千円札を手に持ったまま、微動だにしない。本当に今日は様子がおかしいぞといよいよ不安になり、彼を見つめる事数秒後。
ついに、川上さんは切り出した。
「お前、女に物を贈るとしたら、何を贈るんだ」
「……は?」
唐突すぎて、思わずそんな間抜けな声が出てしまった。だって、この頑固で何を考えているか分からなくて、人の不幸に興味津々で、だけどとっても優しくて、和菓子の話しかしない川上さんから。女性への贈り物、だって?
驚きすぎて僕は後ずさり、袋を片手に大袈裟に反応してしまった。だって、あんまりにも突然だったんだもの。
「何だその反応は。文句あるか」
「いや、そうじゃなくて。まさか川上さんからそんな話が出てくるなんて思わなくて。……贈り物、ですよね。どうして僕にそんなことを聞くんですか?」
彼も知っての通り、僕は女に縁がない一生を送っている。ようやく雨宮さんという近しい存在が出来たものの、未だに女性とはまともに話せない最低男子だ。
そんな僕に、女性への贈り物だって?頭でも打ったんだろうか。
白けた顔で聞いた僕が気に入らないのか、川上さんは乱暴に釣銭をカウンターの上に置くと、そのまま、珍しくもごもごと声をつまらせた。
本当にどうしたというんだ、明日は雪でも降るのか?
「……お前に感化された」
こそっと刺激しないように釣銭の六百円を財布にしまい、さてどうしたものかと様子を伺っていると、やがて川上さんは恥ずかしそうにそう切り出した。僕に、感化?
いきなりの言葉に、どうしていいか分からず、首を傾げて続きを促すと、川上さんは諦めたのか、声を荒げて恥ずかし気に背を向けた。
そして、ぽつぽつと事の次第を語り始めたのだ。
「実はな、来月……九月二六日は結婚記念日なんだ」
「そうなんですか!それはおめでたいですね」
僕が素直にそう言うと、川上さんの背中は小さくなった。そして、いたたまれないとでもいうように、顔を俯かせる。
「ああ、まあな。それでよ、いつも世話になってる嫁に、たまには礼を尽くしたいと思ってな。俺たちには子供もいないし、店の事で毎度苦労をかけちまってる。今は裏に引っ込んで 作業してるが、本当は休みなしの毎日にうんざりしてても可笑しくねえ」
せせらぎの奥の部屋は、川上家へと繋がっている。一度も顔を合わせたことがないのは残念だけど、彼の奥さんの声くらいは何度も聞いたことがある。溌溂としていて、だけど落ち着いた声は、何処か、田舎のおばあちゃんという印象が強い。
「へえ、それはいいですね。だから贈り物ですか。……僕に感化されたっていうのは、ちょっと謎ですけど」
「お前、女に入れ込みすぎて、神社のために必死だったろ。無駄なのにな」
「その無駄に付き合ってくれたの、川上さんですよ」
「うるせえ。……でも、大事な人のために真剣になるっていうのは、良いもんだ。俺は、今までそんなこと、してやれなかった。いつも自分の事ばっかで、嫁に気を遣うことなんて……な」
くるりとようやく顔を僕に向けてくれた川上さんは、穏やかだけど寂し気だった。後悔の念があるらしい。その表情に感化されてしまった僕は、すっかりその気になって、一緒に考えましょう、と口火を切った。何より、いつもお世話になっている川上さんの頼み事だ。それくらい、お安い御用ってものだ。
「僕も正直、プレゼントとか自信がないんですけどね。……今だって、悩んでるところだし」
おかげで花選びに大失敗したのだから。僕は最近の苦い思い出に肩をすくめて、カウンターに手をついた。川上さんは頷いて、やる気満々な様子だ。
「以前はどんな事してたんですか?プレゼントとか、他に贈ったものは?」
興味本位半分と、参考半分で質問すると、川上さんは無言で立ち上がり、そして僕と目を合わせる。ほとんど身長の代わらない僕たちの間に、微妙な空気が流れる。彼の青ざめた顔色に、僕は頬をひくつかせた。
まさか。
まさかまさか。
「プレゼント、したことないんですか……!?」
「……結婚指輪なら」
「そういうんじゃなくて、付き合ってる時とか、クリスマスとか!今ほどじゃなくても、昔は何かあったでしょう!」
「だから、嫁に気を遣ったことはねえって言ってんだろうが」
「そりゃあんまりですよ!じゃあ、今まで結婚記念日とかクリスマスとか、それこそ奥さんの誕生日は何してたんですか」
「仕事」
「はああああああああ」
思わず深い深いため息をついてしまった。なんたって即答である。仕事人間っていうのはいいとして、奥さんの誕生日すら何もしていないだって?むしろそれで不満一つ漏らさない奥さんが出来すぎだろう。いくら色恋沙汰に疎い僕だって、イベントに何もしてくれない 彼氏や旦那が女性からどんな目で見られるのかくらいは察しがつく。大概、女性というのはイベントが好きだし、それに付き合ってあげられる男は思いやりがある。友喜がそう言っていた。
「じゃあ、川上さんって僕と同じ、経験値ゼロ……」
「お前と一緒にするんじゃねえ。俺は結婚してる」
「むしろどうして結婚できたのか、そこが知りたいですよ……」
最強ヘタレ男子と、女性に気を遣えない頑固親父。果たしてこの二人で、結婚記念日という大事な日に、奥さんが満足するような贈り物を用意することが出来るのか……。先が思いやられる。
今度は僕が頭を抱えて唸っていると、それでも川上さんは大仰に、上から目線で言い放つ。
「結婚記念日だって覚えてはいるが、口に出したことはねえ。いつもいつも、素通りさせてきた。クリスマスだって、誕生日だって。バレンタインにチョコを貰ったが、お返しは何一つしたことない。……何をしたらいいのか分からねえ」
「そんな……」
「だけどよ、それでも俺についてきたあいつに、俺は少しでもいいから、感謝してんだ。……だから、初めてではあるが、何か贈って、喜ばせてやりたい。……神社を失いかけてた時、女のためだと言い張ったお前のせいだぞ。責任とれ。……ヘタレ男子の意地、俺に貸してくれねえか」
長々と言い終えた川上さんは、深々と頭を下げた。今日だけで頑固親父というイメージがボロボロと剥がれ落ちた彼の顔は、穏やかで、真剣だ。
なるほど、若葉マークがついた僕でもいいというのなら。
再びため息をついた僕は、それでも頭を下げた彼に視線を合わせて、にこりと笑う。
「ヘタレ男子は、余計ですよ」
奥さんに最高のプレゼントを用意して、泣かせてやろうではないか。




