2 貴女の好きな花
最近の日課は、和菓子にハマりつつある雨宮さんのために、近くの和菓子屋に寄ることだ。
その和菓子屋さんは僕が住むアパートから徒歩五分ほどの、寂れた商店街の一角にある。
昔はそれなりに賑わっていたのだけれど、最近は三年ほど前に出来た、反対方向にそびえ立つデパートに客をとられつつあった。
こんな田舎町にデパートを建てるなんて、と当初は思ったものの、デパートは案外利用しやすくて僕も途中からこの商店街には来なくなった。経営者の思惑通り、という奴だろう。
「ああ、いらっしゃい」
土曜日、外は薄暗い一時過ぎ。ギィ、と重たい扉を開けて中に入ると店主の川上さんがかったるそうに声をかける。その言葉にどうも、と会釈すると小さな店内をゆっくり見て回った。
雨宮さんが消えてしまった当時は、お供え物に関しては近くのスーパーなどで売っているもので済ませていた。
しかし彼女と再会して以来は、もっと色んなものを用意したくてここに通うようになったのだ。何より彼女が嬉しそうに食べている様子を見ていると、もっといろんなものを食べてもらいと思ってしまう。
ぼんやりと店内を眺めつつ何かないかと探していると、予想外にも店主が話しかけてきた。
「あんた最近よく来るな。お前みたいな若いもんがこんなとこに来るなんて物好きなもんだ」
しわが多い顔をしかめ、余程暇だったのだろうか、レジの横で肩肘つきながらぶっきらぼうにいう様は、まるでこの寂れた商店街のようだ。
「はあ……。最近親しい人が和菓子好きみたいで」
「なるほどな、もしかして女か。あんたのその顔じゃ、経験不足で必死に良いように見られたいって事か」
「……まあ、そんなとこです」
何ともかちんと来る言い方をする店主だが、こんなことでいちいち気にしていたらキリがない。そういう人なんだと一人納得して欲しいものを選んでいく。
すると突如として店主が立ち上がり、奥に引っ込んでいく。
一体どうしたのだろうかと思いつつも目の前にある二、三種類の和菓子を見比べるのに忙しくて、すぐに意識はこっちに向いた。
月をイメージした綺麗なまんじゅうと、桃色に染められた桜のような羽二重餅を手に取りうんうん唸る。
彼女には見た目も綺麗なものを用意して楽しんで欲しいのだけれど、羊羹が食べたいとも言っていた。
羊羹なら定番の小豆色をしたもので充分だろうけど、それだと面白くない。だけど、雨宮さんの願いを聞き届けたい。ううん、どれにしよう。
「あああああ……」
奇妙な声を出して悩むものの、そんなことで解決できるわけもなく。
どうしようかと迷っているとき、後ろから声が聞こえてきて、無意識に振り返った。そこには奥に引っ込んだはずの店主が、相変わらずの仏頂面で佇んでいた。
「これは、いかんのか」
「……は?」
相も変わらず不機嫌そうな声に情けない声を漏らすと、店主は元々気難しそうな眉間のしわを更に深くさせた。
その様子に内心ビクビクしながらも彼の手元を見ると、そこには紫色の透明感を出した、まるでナタデココのような小さな正方形が重なっている可愛いものがあった。
いくつかの正方形の下には葉っぱを模したのだろうか、こぢんまりとした緑色の餅のようなものが敷いてある。
「……これって?」
「女にやるんだろ。しかもいいとこ見せたくて。ならこういう季節もんは喜ぶぞ」
「え、じゃあもしかして」
僕は目の前に出されたお菓子を凝視する。季節ものということは、今は梅雨の六月。
そしてそれっぽいものといえば。
「紫陽花……?」
しんどそうに頷いた店主を見て、納得がいく。
ああ、確かに、こんなに透明感があって、それで可愛くて美味しそうなものは、女子受けがいいかもしれない。
「こりゃ寒天で紫陽花に見立ててある。下の葉は薄い餅にしてあるんだ。見た目と時季で考えたらこれが一番だろ。お前の持ってるその桜と月の奴なんてダメだな」
最後の一言はぐさりと来たが、確かに今の季節ならそれがいいかもしれない。
「でもそれ、店に並んでないじゃないですか。買えないものなんじゃ」
「バカ言え、仕入れたばっかで出してないだけだ。もってけ、そんでいい所見せてこい」
「……いいんですか?」
「こんなシケた店に来るお前のためだ。まぁせいぜい玉砕しないことだな」
最後に一つ一つ嫌味を言われるが、悪い人ではないらしい。
態度や口が悪いだけであって、奥底は優しい人なんだと思うと、自然と頭を下げて礼を言っていた。
良かった、これで雨宮さんに喜んでもらえる。
そう思って思わず笑みを浮かべると、代金を払って店を出る。
曇り空がどんよりと広がる中、雨宮さんの笑顔を浮かべ、足取り軽く神社に向かう。
和菓子屋から神社は三分もかからない。小ぶりな雨を、真っ黒な傘で受けつつ、目の前に迫った鳥居を潜る。
もちろん、雨宮さんはいつものように賽銭箱の下の階段で座って、僕がやって来るのを待っていてくれた。
雨宮さんがこちらに気付くのと、僕が駆け出すのはほぼ同時だった。
手に持った和菓子を崩れないように支えながら、小走りに彼女の元へと向かうと、雨宮さんはわざわざ立ち上がって出迎えてくれた。
「こんにちは、赤瀬さん」
「こんにちは。見てください、今日はいい和菓子を買って来たんですよ」
手に下げた袋を彼女の前へと差し出すと、雨宮さんはぱあっと顔を輝かせた。そして、待ちきれないとでもいうように階段に座り直す。僕もそれに倣って、彼女の隣に座った。
小ぶりだった雨はいつしか大きく音を立てて降り出し、湿気を増長させている。僕はそんな空模様を、昔は嫌いだったはずなのに嬉しく思ってしまう。蒸し暑いはずなのに、とても居心地がいい。
それもこれも、隣に居る雨宮さんのおかげなんだろう。
「開けてもいいですか?」
「どうぞ。悪くならないうちに食べちゃいましょう」
小さな箱を、雨宮さんは丁寧に開ける。白地に桜模様のついたその箱は、あの和菓子屋のメインの柄だ。
そして雨宮さんは、開け放たれた箱の中に入った、小さな二つの紫陽花を見て目を輝かせた。
「わあっ……これ、紫陽花ですか?」
「はい。梅雨と言えば、紫陽花かなって。雨宮さんのイメージにもピッタリだと思って」
「嬉しい……。何だか、食べるのが勿体ないですね」
そこまで言ってくれるとは思わず、僕は内心冷や汗をかいた。本当にこれを選んだのは和菓子屋の店主であって、僕ではない。だけど、そんな事言ったら格好悪いし、黙って頷くしかない。男はこういうところで、見栄をはるものなんだよ、多分。
雨宮さんはしばしうっとりとその紫陽花を見つめると、やがておずおずと黒文字を手に取り、紫陽花を食べ始める。ちなみに、黒文字というのは和菓子と一緒についてくる爪楊枝みたいなものだ。僕も最近知った。
「…………美味しい」
「それは良かった。じゃあ、僕も」
横で雨宮さんが目を細めて味を堪能している間に、僕も黒文字を手に取る。だけど、突如として雨宮さんはそれを手で阻止してきた。え、僕は食べちゃダメ?
「雨宮さん?」
まさかそんな意地悪しないだろうと思いつつ、彼女に視線を向けると、雨宮さんは黒文字を手に、もう一つの紫陽花を取った。そして、片手を下に添えて落ちないようにしつつ、そのまま雨宮さんの口に収まるかと思いきや。
何故かそれを僕に向けてくる。
「…………へっ?」
「はい。……あー………………ん」
いやいやいやいや。待ってくれ、あーんが長い。そして僕は恥ずかしい。まさか食べさせてくれるのか。冗談じゃなくて?
首を振って遠慮すると、雨宮さんはムッと頬を膨らませた。早く食べろということらしい。彼女の耳が真っ赤に染まっているのを見つけて、僕は意を決してその紫陽花を食べた。お互い恥ずかしい。
「どうですか?」
「はい。……美味しいです」
正直味とか分かんないし、ていうか味わえる状況じゃないし、何より雨宮さんが食べさせてくれたっていうのが事実として嬉しすぎて、え、これ僕どうすればいいの?
そんなこんなで、僕は和菓子屋の川上さんおすすめ紫陽花を、味が分からないまま、だけど幸せな状況で食べられました。
わあ、これじゃ川上さんに怒られちゃう。
「雨宮さんは、何の花が好きなんですか?」
食べ終わって、二人が恥ずかしさでお互いの顔を見れずにそっぽを向いているこの状況は、何とかしなければいけない。
そう思って、僕は意を決して話しかけた。
すると、雨宮さんは、ようやく正面を向いてくれる。髪の隙間から見え隠れする耳は、まだ赤かった。
「紫陽花はもちろん好きなんです。雨とよく似合うから」
雨が大好きで、雨の化身である彼女の言葉は予想通りだった。だけど、その次の言葉は予想外だった。
「でも、一番好きな花はひまわり、なんです」
「ひまわり?」
「はい。ひまわり。太陽の下で、大きく咲いた、あの元気いっぱいな花は……手に届かないようなもので。憧れなんです」
そう言ってくしゃりと顔を歪めた雨宮さんを見て、僕の胸は痛んだ。
雨宮さんは、力を雨で蓄える。よって、基本的に雨が降る日にしか姿を現せない。晴れの日に太陽の下で姿を現せるのは、余程力が有り余っている時らしい。そして、あの時のように、消えてしまうのを覚悟した時だけ、姿を現す。
二年もの間、雨の日でも姿を全く見せなかった雨宮さんは、僕のお供えと願う力で、ようやく雨の日にだけ会えるようになった。
そんな彼女にとって、太陽の下で思いっきり咲くひまわりというのは、憧れ以外のなにものでもない。
「……雨宮さん」
「はい、なんでしょう」
「僕が、いつか必ず。太陽の下でも元気いっぱいに……それこそひまわりのように動けるようにします。だから……もう、消えないでくださいね」
僕が切実に頼むと、雨宮さんはしばらくポカンと口を開けて、それから思い出したように笑った。
「はい、もちろんです。私だって、もう赤瀬さんと離ればなれは嫌ですから」
雨の神様は、僕の願いを聞き届けてくれた。
その笑顔は、まるで紫陽花のように控えめで、だけどとても美しかった。