19 神社を守る意味
朝の十一時を過ぎた頃、僕は大学の植物研究会の部室で、花に水やりをやっていた。いつもは賑わしいこの部屋も、講義がある時間帯だけに、誰も集まっておらず、僕だけの息遣いが聞こえるばかりだ。本当なら、朝だろうが昼だろうが、この部屋には誰かしらが暇つぶしに来ていて、幸弘が怒りのじょうろを片手にサークル活動をしろと遊んでいるメンバーに叱りつけているのだけどな。
これだけ物が溢れかえっているというのに、どうにも殺風景に見えるのは、そんな理由からだろうか。僕だけが講義の時間じゃなくて、暇を持て余しているというのもなんだか虚しい。水やりを終えたら、署名活動をしよう。空いた時間は全てそちらに回して、少しでも数を集めなければならない。
そうして僕が、のんびり、幸弘に課題として出されたコスモスと、こっそり育てている桔梗に水をやり終えると、部室の扉がこんこん、とノックされた。
デジャブを感じ取った僕は、それが誰の来訪を知らせているのか予測して、少しだけ上がり気味の声でどうぞ、と答える。
すると、扉の向こうから予想通り、恩田さんが現れる。
「えっと……どうしたの?」
恩田さんは部室に入るなり、キンキンに冷えた室内にぶるりと身体を震わせると、僅かに肩を抱き寄せるそぶりをして中におずおずと入り込む。
そうして僕の手にある、じょうろに視線を移すと、恩田さんは私も、と呟いた。
「私も?」
「いえ、その。まだ入ったばかりで何も知らないから、なんでしょうけど。私も、何か植物を育てた方がいいのでしょうか。赤瀬先輩は何を育てているのですか?」
「僕はコスモス。幸弘がこれなら初心者でも簡単に育てられるからって」
「そうですか。そういったことは、杉田先輩に聞けばいいのですか?」
「う、うん。植物オタクだし、何より部長だから。恩田さんにも育てやすい花を紹介してくれると思う」
どぎまぎしつつも、水やりを終えた僕は、じょうろをラックの上に置いて頷いた。そう言うことは、全て幸弘に任せてしまえば万事解決だ。
まだ入って一週間も経過していないというのに、恩田さんはちゃんと顔を出してくれるところが真面目だ。ここが単なる遊び場としてのサークルだと知ったら、どんな反応をするのか、少しだけ興味が湧いた。まあ、最近は幸弘という部長の存在で、それも薄らいではいるけれど。
「署名は、集まりましたか?」
何度目か分からない問いかけに、僕は苦笑して返した。最近は誰もが僕にそんな問いかけをするなり、不安や心配、果てには同情といった眼差しで見つめてくる。だけど僕には、そんなものすら通用しないほどに、活動に必死で、無我夢中で、だからこそ、最近は笑って誤魔化すようになった。
二十日という決戦の日に、結果を伝える。あえて署名の数は、数えないようにして、当日、四人のノートを天城さんに渡して終わりにするつもりだ。
そこでどう出るかは、僕らの努力次第。
僕は何も答えるつもりがないので、首を振って肥料が詰まった袋を取り出すと、恩田さんに背を向けた。女性と会話をするというのも、相変わらず慣れなくて、実は緊張していることを、彼女は悟ってくれるだろうか。
「赤瀬先輩は、どうしてあの神社を守るんですか?」
しばらく作業をして、二人の間に重苦しい沈黙が流れていた時の事だった。恩田さんは背後でそんなことを言うと、肥料の袋の口を縛ろうと紐を持ってくる。ありがとう、とお礼を言いつつ、僕は少しだけ間を開けた。随分前にも、彼女には話したはずなんだけど、それでも恩田さんは真剣な様子で僕の目を見つめるものだから、ぽつぽつと差支えのないように話し出す。
「前にも言った通り、大切な人との想い出の場所なんだ。だから、守る」
「それだけ、なんですか?本当に?」
「……どうして?」
「だって、赤瀬先輩はそれ以上の何かを抱えている気がしたから。大切な人との想い出の場所、って言われて、納得はしますけど。核心は、違うんじゃないのかなって」
恩田さんは鋭いな、と思うと同時に、僕は何処まで話すべきか迷った。協力してもらっている手前、あまり下手に扱えないし、だからと言って、雨宮さんの事をべらべらと話すわけにもいかない。幸弘や友喜が知っている範囲の事なら教えてもいいけれど、どうにも天城さんの事でトラウマがある。
うっかり口を滑らせて、雨宮さんが人ならざるものだと知れたら、周りがどんな反応をするのか。想像力の乏しい僕では、あまりよくない展開しか思い描けなかった。
「僕の大切な人の、大切な場所なんだ。あの場所がなければ、僕らは出会わなかったし、今の僕は居なかった。それだけだよ」
「……赤瀬先輩は、その人のことが。……好き、なんですね」
小さく呟かれたその言葉に、僕は弾かれたように後ろに後ずさる。幸弘や友喜に雨宮さんが好きと教えてもらった時とは違って、なんだかとても恥ずかしい。出会って間もない恩田さんに分かってしまうくらい、僕はあからさまだったのだろうか?如何せん、こと恋愛に関しては初めてなので、感情がもろに出てしまっているのかもしれない。何より、初恋にして二年の片思いだ。たぶん。
「そ、そんなに分かりやすかった?」
「いえ。分かりやすい、というよりは、大切な女性のためにそこまで動けるのだから、そうなんだろうな、と予想しました。……でも、今の先輩、顔が真っ赤ですから。すぐに分かってしまいますよ」
恩田さんはからかうような口調で言ったのち、儚げに笑うと、机に置き去りのノートに指を指す。
「そ、そっか……」
「はい。署名、あと数日ですけど頑張りますね。赤瀬先輩の大切な場所が守れるように」
恩田さんはそれだけ言うと、足早に部室から去って行って、また僕だけが取り残される。雨宮さんに恋をしている、というのを改めて指摘されたような気がして、しばらく僕は、呆然と立ち続けていた。