18 気持ちの入れ替えの大切さ
閉店間際のスーパーは、駐車場も店内も、果てには道路でさえ閑散としていて、まるで捨てられた土地のように、人気がない。時折、中から聞こえてくるピッ、ピッというレジの音だけが、現実に引き戻してくれて、僕はノートに連なる文字を追って、ため息をついた。
暗闇の中で見るノートは、文字がかくれんぼをしているのかと、つい現実逃避をしたくなる。だけど、明るい所で見たって何も変わらないだろう。目に見えた結果は、ただただ僕を苦しめるだけだった。
恩田さんが晴れて植物研究会のメンバーになった後、僕らは署名活動をする場所を、再び練り直した。
僕はいつも通り、スーパー周辺。友喜は住宅街が近いため、神社の近く。幸弘は隣町に近接したデパート周辺。そして新たに加わった恩田さんは、遅くまで残って、寝泊りもする生徒達を狙って、僕たちの大学。
これからは、この四つの各持ち場で、期限までに二百人の署名を集めるべく、ひたすらに駆けずり回ることになる。
これからの予定を頭の中で反芻する傍ら、通行人の少ない駐車場をぼう、と見つめる。
「失敗したな」
そうだ、失敗した。たまには気分転換にと夜に活動を回したけれど、この時間では大声をあげられないし、何より人も集まらない。夜の繁華街ならまだしも、近所のデパートに客を取られつつある小さなスーパーでは、署名を集めるなんて夢のような話に思えてきた。
他の三人は大丈夫かな。外れくじを引いたのが自分だけでありますように、と祈りつつ、僕は夜だからと気にしてビラを配るだけにとどめた。人の視線を集めるような行動はしないようにしよう。まだ七時とはいえ、近所迷惑になってしまうし。
「神社取り壊しを阻止するために、皆さんの署名が必要です。どうかご協力お願いします」
これだけ人がまばらだと、逆にターゲットを絞りやすいというのは利点だと思う。昼間は片っ端からぽいぽいとビラを撒いていたのだけど、今は来る人全員にビラを行き渡らせることができるし、話を聞いてくれそうな人を判断しやすくなる。
僕は明らかに仕事帰りのサラリーマン、といった風貌の男性に、ビラを半ば無理やり押し付けつつ、署名をしてもらえないか交渉してみる。
「すみません、お仕事お疲れ様です」
「……はあ。どうも」
「あの、天神社ってご存知ですか」
「天神社?いや、知らないなあ」
「そうですか。あの、このビラを見て頂ければわかるんですが、今、その神社が取り壊されそうになってて。だから署名を集めて阻止したいんです。どうかご協力願えませんか」
「そうはいっても、その神社の事を知らないし……。ごめん、急いでるから」
苦笑気味に、足早に去られて、僕は肩を落とす。たいてい、ここで逃げられてしまう。僕にもっと、人と話す技術があれば結果は違っていたかもしれないと思うと、やはりこのヘタレでコミュ障な所は悔やむ。ただでさえ、女の人には話しかけられないのに、その上話しやすそうな男性を選んでいると、幅はかなり狭まってしまう。道のりは遠い。
コミュ障が治る方法でも転がってないかなと現実逃避を始めた頃、頬に何か冷たいものが当てられ、僕はぎょっとして後ずさる。
すると、そこにはカカカ、と珍しく笑いをこぼした初老の男性が立っていた。
「川上さん……!」
「気張ってやがんな、ガキ。やるよ」
川上さんは、そう言うと、先ほど僕の頬にあてたであろうペットボトルをひょい、と投げると、至極ご満悦というような顔で笑っていた。いつも眉間にしわを寄せている顔しか見ていないので、レアだと思いつつも、ありがたくペットボトルを貰った。渡されたのはスポーツドリンクで、ここらでは見たことのない品種名だった。キンキンに冷えていて、水滴が溢れんばかりにびっしりと表面に付着しているのを見ると、家で冷やしたのを持ってきてくれたのかもしれない。わざわざここまで来て届けてくれた彼の心遣いに感謝しつつ、僕は頭を下げる。
「ありがとうございます。丁度、喉が渇いていて」
「気にすんな。……進捗はどうだ。集まったか?」
スポーツドリンクの蓋を開けて、ごくごくと飲むと、僕は首を振った。爽やかな味わいが、喉をすーっと通って、心地いい。
「あまり。……でも、進展は、ありました」
川上さんは話を聞くつもりなのか、目でベンチに座ることを促す。僕も頷いて、あの日のように二人並んで腰を落ち着かせると、ぽつぽつと語りだす。
「実は、管理人と直接交渉が出来ました。……二十一日までに、署名を二百人集めれば、神社の取り壊しを阻止する、と」
「へえ、やったじゃねえか」
「はい。だけど、署名は全然集まらなくて」
視線を足もとに落として、自分の靴を見つめる。ボロボロのスニーカー。この暑さの中、駆けずり回った数日間を現すかのように、この靴も、僕と同じように悲しそうに映った。そんな僕の背中を、川上さんはポンっと力強く押すと、いつもの不機嫌な様子は何処へ行ったのやら、声は穏やかに、慰めてくれた。
「気にすんな。お前の努力を見てるやつはたくさんいる。俺がその第一発見者だが、署名が集まらなくたって、お前の苦労は変わらない。それだけは忘れんな」
「それ、慰めてますか?遠回しに署名が集まらなくても大丈夫だって言ってませんか?」
「そんなん知るか。そもそもお前みたいなヘタレ野郎が署名を集めるなんておこがましいんだ」
ボロクソ言うなこの野郎!
「ま、でもよ。そんなヘタレ野郎でも、数人は集められたんだろ。俺は、それだけでも充分、誇りに思えるけどな」
僕はハッとして川上さんの横顔を見つめる。その顔は何処までも穏やかで、だけどその中に覗かせた厳しさは、いつもの表情で。僕は、少しだけ心が軽くなった気がした。
そうだ、署名が集まらなくたってなんぼのもんじゃい。気にしすぎるからいけないんだ。もちろん、署名を二百人集めることは、絶対だ。だけど、それを気にしすぎて落ち込んでいたら、署名活動にだって、その態度は出てしまうかもしれない。それが、人々に伝わったら、どうするんだ。気分が悪くなるんじゃないだろうか。
署名活動っていうのは、接客業と似ている。笑顔とは言わないけど、何かを伝える時、暗い表情ばかりでいては、気持ちは伝わりにくい。
そして、今の結果ばかりを気にしすぎて、躍起になっているより、前を向いて、希望を持って活動をした方がいいに決まっている。
何だか、大切なことに気付かせてもらったようで、僕はこっそり川上さんに頭を下げた。彼はそれに気づいているのか気づいていないのか、そっぽを向いて頬をかく。
「そうだ、川上さんって昔からここに居るんですか?」
「あァ?そりゃ生まれも育ちもここだよ。あの店も親のを継いだもんだしな」
「それじゃ、天神社の事、知ってたんですね」
「まあな。それがどうした」
僕はしばし口ごもって、やはり言うことにした。こういうのは、口に出してスッキリした方がいい。それに、川上さんは昔からここに居るのだから、数年前に越してきた僕とは事情を知る度合いが違うだろう。
「いえ、実は管理人から聞いた話なんですが。天神社って、れっきとした神社ではないんですね。その、宗教法人?とかいうところにも登録されていない、偽物だって」
「あ~そうだったのか?いや、そりゃ知らねえな。何せ昔からひっそりと建ってるだけの神社で、あんまり行ったことはねえから。ガキの頃に何度か遊んだ程度か」
「そうなんですか。やっぱり知らなかったんですね」
「悪いな。ま、確かに言われてみりゃ、神社のくせに参拝者も管理者も見かけないとは思ってたけど。……いや、待てよ」
川上さんはそこまで言うと、顎に手を添えて、考えるそぶりをする。一体どうしたんだろう。スーパーの光に照らされる中、僕は川上さんの言葉をじっと待った。
「でもよ。俺がガキの頃に聞いた話なんだが。確かあの神社は、雨を降らしてくれるご神体を祀ってあるんじゃなかったか」
「……やっぱり、何か祀ってあるんですか!それ、どういうものか分かりますか?」
「さてな。話を薄らと聞いただけだ。覚えちゃいねえ。まあでも。ご神体があるってのに正式な神社じゃないっていうのは、不思議なもんだな」
そこまで来ると、今度は管理人の天城さん一家の話に繋がってくる。祖先の話、そして雨宮さんの話。
だけど、川上さんの話を聞いて僕は再び決意をした。
その雨を降らせてくれるというご神体を探してみよう。本当はそういうことをしてはいけないのだろうけど、ご神体の化身である雨宮さんが居るのだから、罰当たりとかはきっとないはず。
僕は改めて川上さんにお礼を言うと、そのまま別れて署名活動を再開した。
川上さんの慰めのおかげか、その日を境に署名は少しずつ集まるようになった。