17 彼女の複雑な気持ち
束の間の休息っていうのは、案外大事だ。根を詰めすぎて、後で倒れてしまったら元も子もないし、それならほどほどに休憩しつつ、気持ちに余裕を持って挑んだ方がいい。大惨事になる前に、休め。春さんが生前、僕に言い放った言葉は、今でもたまに木霊している。
そんなこんなで、僕と幸弘、友喜の三人は、雑然とした植物研究会の部室で、地べたに座り、ノートを広げてのんびりと今後の予定について話し合っていた。
「なるほどな。二十日までに二百人集めればこっちの勝ちってか」
「今何人集まってるんだっけ」
「三人のノート合わせて十五人」
「遠い、な」
昨日、天城さんに出された勝負を早速話してみると、二人は微妙な顔を浮かべていた。それもそうだろう。五日も活動を続けているのに、たったの十五人しか集まっていなくて、しかも期限までは一週間を切っている。来週の今頃、本当にこのノートに名前が連なっているかどうかは、正直自信がないのだ。しかし、受けてしまったものは仕方ない。それに、諦めるなんて選択肢はないし。
「ごめん、二人とも。無理言っているのは分かってるけどさ。本当にあの神社を救いたいんだ」
「謝んなって。そりゃ現状難しいってことは分かってるけどさ。でも、俺たちまだまだいけますよ?」
友喜がニヤリと笑って、ノートを鞄に仕舞うと、友喜も頷いて、難しい顔から一転、いつものおどけた顔になる。本当に、この二人には、迷惑をかけてばかりだ。
毎日講義が終わると、一番に飛び出して署名活動を始めてくれるこの二人には、どうやったって頭があがらない。僕はありがとう、と呟くと、ノートを仕舞い、傍らに置いていたじょうろに手を伸ばす。
「ま、たまには気楽にやろう。もっと署名を集める方法も考えた方がよさそうだし」
友喜の言葉に頷くと、僕たちはじょうろ片手に立ち上がる。さあ、植物研究会の活動開始だ。
今日は一度、署名活動の時間を変えてやってみようということで、久々に植物研究会の部室に集まったのだ。いくら夕方といえど、夏の炎天下っていうのは、体力をどんどん削っていくし、それなら夜にやって、今の時間帯を冷房の効いた部室で過ごすというのは、とても魅力的に見えるものだ。
おかげで、いつも嫌々な僕も、部員じゃない友喜も、今日ばかりは幸弘の発案に素直に従って、じょうろと肥料を片手に部室の植物に、栄養をやっていた。
「幸弘、水ってこれくらいでいいの?」
「おま、馬鹿!それじゃやりすぎた!根腐れするだろうが!」
「え、何それ」
「ああもう、いい。貸せ。俺が手本見せるから、友喜は植物の素晴らしさに胸を打たれてろ!」
「そこはやり方を覚えろじゃないのか……」
僕が苦笑して突っ込むと、友喜は肩をすくめて、幸弘が愛おしそうに水をやる姿をぼんやり見つめた。ちなみに僕はというと、二年前から幸弘に叩き込まれているので、黙々と作業を続ける。さっさと終わらせてしまおう。
途中、やることをなくした友喜が幸弘の邪魔を始めて、なんだかんだやり方を教えてもらい、植物図鑑を無理やり押し付けられてわいわいやっていたら、ふと、部室をノックする音がして、僕たちは押し黙る。
植物研究会のメンバーなら、こんなに律儀にノックをしたりしないし、そもそも今日は、皆バイトがあると言って早々に帰っていった。じゃあ誰だろう、と僕たちは顔を見合わせると、部長である幸弘が先陣切って扉を開く。
「はい」
すると、そこには相変わらず細すぎる身体に、黄色のブラウスと白のボトムスに身を包んだ、恩田さんが立っていた。最近よく見るのだけれど、どうしてわざわざこんなところに来たんだろう。
「えっと、君は。恩田さんだっけ。どうしたの?」
ひとまず幸弘は中に入れると、ゲームやら漫画やらで散らかった室内を無造作に片付けて、恩田さんが座れるような場所を作る。ここに机と椅子があったらいいのに。置く場所がないからなのだろうけど、この時ばかりは今度家具を買いに行こうかなと思ってしまった。
「あの、私……。バス愛をやめようと思っていて」
「へえ」
一番に反応したのは、バス愛メンバーで、恩田さんを巻き込んで綾島さんを入部させる原因だった友喜だ。彼は探るように恩田さんを見つめると、どうして?と問いかけた。
「バス愛、私には向いてないなって思ったんです。元々、真奈に誘われるがまま入っただけのものですし。運動、得意なんですけど、打ち込めるほどでもないし、私には向いてないかなって」
「まあ、いいんじゃないかな。それは本人の自由だし」
友喜はホッとしたように頷くと、サラサラの髪をくるくると指に巻き付けていじった。元々バス愛の内容に惹かれて入部したわけじゃなさそうだし、無理することはないと思う。だけど、どうしてその話がここに来てまでされるのか、僕には分からず、黙って聞いていた幸弘に視線をやる。
幸弘は、ただじっと黙って、恩田さんを見つめていた。
「それで、私。……この植物研究会に入りたいなって思って、ここに来たんです。部長の杉田先輩がここに居ると聞いて、来ました」
「なるほどね。入部届って、ある?」
「ここに。植物のこと、あまりよく分かっていないけれど……。頑張りますから。よろしくお願いします」
恩田さんはそう言って頭を下げると、ちら、と僕を見た。不意にぶつかる視線に、ちょっとだけ怯んだ僕は、サッと友喜の背中に隠れる。女性恐怖症の僕としては、あんまり嬉しくない展開だ。
だけど、幸弘は植物研究会のメンバーが増えるという事実に嬉しそうに笑って、ようこそ、なんて簡単に受け入れていた。必要な手続きは既に終わっていたらしく、あっさりとした入部に、僕は拍子抜けした。
「こうなったら友喜も入ろうよ、女の子と一緒に活動とか僕には無理だよ」
「俺にはバス愛あるし、四六時中幸弘の植物談義を聞く気なんてないから嫌だ。そもそも、時也はそろそろ女に慣れた方がいいと思うよ」
こそっと耳打ちすると、こんなドライな答えが返ってくる。そんな。この薄情ものめ。
「ま、ビラ作りでお世話になってるんだし、ちょっとは仲良くしてもらったら?」
友喜はニヤニヤとそんなことを言ってのけると、そうだ、と声を上げる。片手に持ったノートを見て、なんとなく察した僕らは微妙な顔をする。
「この際だから、恩田さんにも署名活動を手伝ってもらうのはどう?」
「私が……ですか?」
恩田さんまで微妙な顔をして、名案とでもいうように得意げになっているのは友喜だけだ。さすがに、事情を知っているとはいえ、恩田さんにやらせるのは気が引ける僕は、友喜の腕を引っ張って首を振る。 今日は入部届を出しに来ただけであって、署名活動をさせるために来たんじゃないはずだ。
それに、以前玄関先で会った時のことを思い出す。彼女は、雨宮さんのために必死になる僕に対して、なぜか否定的だった。気に入らない、とでもいうように、僕に問いかけてきたのを思い出すと、どうにもそんなことを頼むのは、火に油を注ぐようで、いただけない。
「でも、私は部外者ですし……」
「部外者なもんか。ビラを作ってもらって、事情を知っている人なんだから、関係者。んでもって、俺たち、今すっごく困っているんだよね。署名が集まらなくて、時也の大事な神社がなくなるかもしれない。だから、恩田さんの力も借りれたらなって思ったんだけど。どうかな」
何故かその問いかけを僕にしてくる友喜に、首を傾げつつも、僕は隣で戸惑った顔をしている幸弘と、アイコンタクトでどうするか相談する。
もちろん、恩田さんにも手伝ってもらえると有難い。正直猫の手も借りたいほどなんだから。
でも、なあ。
「そりゃあ、手伝ってもらえると、凄く嬉しいけど……。でも、恩田さんに迷惑だし」
「迷惑じゃない、です。私でもいいなら、手伝います」
僕が弱気になってそんなことを言うと、恩田さんは即座に返してきた。え、それでいいの?
疲れるし、正直この暑さの中長時間声を張り上げて笑顔を振り向いて、神社の事を説明するのは、想像するよりずっと過酷なのに。
「いいのか、恩田さん」
「はい。……よろしくお願いします」
幸弘の問いかけにも迷わず答える恩田さんは、少しだけやる気に満ちていた。どうしてだろう。
そして、横で未だにニヤついている友喜の事も気になる。もしかして、計算ずく?でも、どうやってこうなることを予測できたのか、全く分からない。
恩田さんは、早速自分専用のノートを作り始め、作業に取り掛かっていた。まあ、手伝ってくれるのならいいか。
そんなことを気楽に考えていた僕は、友喜だけが気づいている恩田さんの気持ちに、いつまでも気づけずにいた。