16 それは、遠い遠い昔の話
天城さんの家は、天神社の持ち主とは思えないほど大きな家だった。神社から五分ほど歩いた、スーパーの裏側にひっそりと建つその家は、築百年以上は経っているであろう歴史ある作りで、見上げるほどだ。手入れもほどよくされているのか、あまり築年数を想像させない、小奇麗な外装。雨宮さんと視線を交わし合って、おずおずと中に足を踏み入れると、そこには日本家屋が広がっていた。
「どうぞ客室に。お茶をお出ししますよ」
傘を立て掛けて、そそくさと天城さんは立ち去る。僕らは玄関を上がると、靴を揃えて右手にある小さな客室へと恐る恐る入った。
小さなテーブルに座布団が三つ、向かい合わせに置いてあるのを見ると、僕らを連れてくるのは予定されていたことなのかもしれない。
「とりあえず、座り……ますか?」
「はい。そうしましょう」
「……雨宮さん、体調の方は」
ふと気づいて、小声で尋ねると、雨宮さんはハッとしたように口元を押さえて、その後、にこりと笑った。どうやら本人でさえ気づかないくらい、体調は万全らしい。
「大丈夫ですよ、神社から近いし、雨も降っています。今はとても元気です。でなければ、あんなに大きな声で怒鳴れません」
少しだけ眉を寄せて言う雨宮さんに、僕は口を開きかけると、そこで天城さんが部屋に入って来た。なんと間の悪い人だろう。
そんな天城さんはというと、お盆に乗せたお茶を机に一つずつ並べると、正座して澄ました顔を浮かべる。
「どうぞ、粗茶で申し訳ないのですが」
きっと本当はそんなこと思っていないくせに。天城さんに対してあまりいいイメージのない僕は、出された湯呑を手に取って一気にお茶を飲み干してやる。程よくぬるいそれは、緑茶の味で、しかし今までに味わったことのないものだった。
「それで、お話、とは……」
雨宮さんが上目遣いに尋ねると、天城さんはふっと笑った。何だその態度の違いは!僕には鼻で笑うくせに!
むかついたので天城さんの緑茶もぶんどって飲んでやると、仕返しに雨宮さんの湯呑まで差し出された。喉が渇いているわけじゃないってば!
「いえ、いくらなんでも一介の大学生が、廃れた神社を守るのに必死すぎではないかと思いまして。少々気になったんですよ」
「……そんなの、人それぞれ理由はあるでしょう。僕にとってあの神社がとても大切だってだけです」
「でもそれは、この女性と逢瀬を交わす場所だから、でしょう。それなら神社を取り壊すことによって、場所を変えればいい。どうしてそんなに必死になる必要があるというのでしょうね」
「貴方には、そんな大切な場所がないから分からないだけではないですか」
カチンと来た僕は、淡々と、低い声で言い返す。それでもニヤリと笑って素知らぬ顔をする天城さんは、大人の余裕を見せつけているつもりなんだろうか。とても、不愉快だった。
だって、天神社がなければ僕と雨宮さんは出会っていない。雨を好きになれなかった。春さんと本当の兄弟になれなかった。そして、雨宮さんと出会えなかった。
そんな大切なきっかけをくれた場所が壊されようとしているのに、どうして見捨てられる。
それに加えて、好きな人が消えてしまうかもしれないのだ。
だったら、必死になるのだって必然だろう?
隣で雨宮さんはおろおろしているけれど、僕はずっと天城さんを睨んでいた。
しかし彼は、僕の視線を受け止めることなく、窓の外を見た。そして、おもむろに、僕の言葉を否定しだす。
「それもそうかもしれません。……しかし、もっと別の理由があるとしたら?」
「……別の理由?」
「ええ。この神社ではなくてはならない、理由ですよ」
天城さんはついに立ち上がると、窓の外に惹かれるように雨空を見つめた。そして、何でもない事のように、語りだす。
それは、僕らにとって、意外な話だった。
「実はね、君たちを見ていて思い出したんですよ。天城家には代々伝わっている話がありましてね」
それは、天城家の祖先の話だ。
大昔、天城家の祖先に一人の男が居た。
男は、村長に上り詰めるほどに仕事ができ、実力もあったが、その分信仰心も篤い男だった。
男が務めあげる村は、毎年雨が降らない事で不作が続き、何度も雨乞いをしたそうだ。
しかし雨は一向に降らず、餓死する者も絶えなかった。どうしようもない絶望に追いやられた時、男はある日、村の草むらに、不思議な石を見つけたらしい。
青く光るその石は、とても美しく、そこらの石とは比べ物にならないほどに、輝き、男を魅了した。
男は、これは神からの贈り物だと悟り、その石を祀り、毎日供物を捧げ、祈ったという。
――どうか雨を降らせてください、と。
すると、いつしか雨は瞬く間に村中を包み、畑は癒え、水も流れるようになったという。
男は石に感謝し、ますます手厚く祀った。
それを何年も続け、男が老いたある雨の日の事だ。
石が祀ってある草むらの近くに、雨が土砂降りだというのに、美しい女性が佇んでいた。女性はにこにこと笑ってその場を離れず、ただただ降りしきる雨を見上げていたそうだ。
男は女性に近づき、話しかけてみると、何処から来たのか分からないらしい。
しばらく話し込んでいると、雨が止み、視界が明ける。すると、女性もその場からいなくなっていたそうだ。
それからというものの、雨が降るたびにその美しい女性は姿を現し、男や、村の人々と言葉を交わすようになった。女性が自ら明かさないだけで、村中の人々は、彼女が雨の化身、果ては神様ではないかと気づいており、石と女性に対する信仰は、曲げなかったという。
そうして、男の息子や孫も祀り続け、形あるものとして、しがない神社を建てた。
それが、天神社、という。
「これが天神社の昔話です。偽物とはいえ、歴史はあるようですが、はてさて……」
天城さんはニタリと口元を歪めると、値踏みするように雨宮さんを見つめた。
僕も、今の話が衝撃的すぎて、雨宮さんを凝視する。
今の話。もし、これが本当だとしたら。
雨宮さんの、過去の話なのでは。
天神社が出来る、その前からの、雨宮さん。雨の中で笑うのは、雨宮さん以外に考えられない。じゃあ、石って?石なんて、神社にあっただろうか。
いや、それよりも、だ。
どうして天城さんはわざわざこの話を僕達にしたのか。
それは、つまり。
「貴女から、人間らしいものを感じない。これは、私の勘違いではないですね?」
天城さんの一言で、雨宮さんはサッと顔を青ざめた。元気だと言っていたのに、そんな気配すら押しつぶして、顔を俯かせる。
「雨宮さん、今の話」
「……え、ええ。その、……」
歯切れの悪い雨宮さんを、急かすように天城さんは雨宮さんの隣に腰掛け、そして囁く。それは、小さな声だと言うのに、室内にこれでもかと言うほど響き渡った。
「雨神が、こんなところで油を食っていていいのですかね」
「……気付いて、いたのですか」
恐る恐る問うた雨宮さんは、声を震わせ、後ずさる。安心させるように、彼女の肩に手をかけると、雨宮さんも応えるように手を重ねてきた。髪の隙間から見えた頬は、引きつっていた。
「ええ、観察眼には長けていると自信がありますので。隣の彼が、随分前からあの神社に入り浸るようになって、そこから一人の得体の知れない女性が姿を現しているのを見て、もしやと思いまして。そして、あの話を思い出せば、まあ自ずと答えは辿りつける。雨の神が、現世の男性に入れ込んで、神社を守らせている……。ふふ、神とは残酷ですね。石の存在を、一切話していなかったのでしょう。まさか、我ら一族の事を忘れるわけがない。手厚く祀った手記も残っていますし?」
「石の事については、私でさえ詳しくは分かっていません。だから、赤瀬さんに話をしなかったんです。ごめんなさい、赤瀬さん。……私には、まだまだ分かっていない事が多くて」
雨宮さんは、深々と僕に頭を下げた。一体どういう事だ。話が唐突過ぎて、全然ついていけない。
石って?どうしてこんなに、雨宮さんは身体を震わせている?
「よく分かっていないという顔ですね。では、彼女が話せない代わりに、私が教えてあげましょうか。あの神社がなくなっても、彼女は消えないんですよ」
「……え?でも、神社から離れ過ぎると、雨宮さんは力が弱まって」
「本体は、別のものにあるということです。あの神社は、彼女の本体を祀るために建てられた、偽りの建物ですよ」
つまり、それが石?天城家の祖先が、手厚く祀ったと言う、不思議な石なんだろうか。
と言う事は、その石さえ取り出せれば、雨宮さんは、消えない、ということだろうか。僕には分からない事だらけで、どうしても雨宮さんの口から答えが聞きたかった。
「雨宮さん。落ち着いて、話してくれますか?天神社がなくなっても、消えないって」
「はい……。私が、雨の神様だとして、なんですけど。天城家の人々が、私の本体である石を祀り、その想いによって実体化したのが私ではないかと予想しています。そして、その本体の石は、天神社に今も何処かに祀られています。だけど、私にはその石が何処にあるのか分かりません。今まで、黙っていてごめんなさい」
そうか。そう言う事か。雨宮さんが、青ざめていた理由。僕に、その大切な話をしなかったから、なのか。
確かに、そんな話を黙っていられて、僕は少し悔しい。ちょっと悲しくて、やっぱり雨宮さんにとって僕とはそんな存在なのかとネガティブになりそうだ。
だけど。
雨宮さんは、不確定な事を話したがらない。いつも自分は神様かもしれないと、仮定の話をするように、自信を持てることに持てないでいる。つまり、これを言って僕を混乱させたくなかったんじゃないか。そんな考えも、出来る。何より、僕は、雨宮さんを信じたい。こんな形で石の話を知ってしまって、申し訳ないけれど、知ったからにはその石を探したい。 そして、だ。
「ほら、これで天神社を守る理由はなくなった。石を探し出して、とっとと署名活動をやめることですね」
「やめませんよ」
僕はきっぱり言い放つと、こっそり雨宮さんの手を握った。彼女は驚いた顔をして、僕を見つめた。突き刺さる視線を横に、僕は堂々と言い切る。
諦める訳ない。今更、そんな事をしてたまるものか。
「言ったじゃないですか、天神社は僕にとって大事な場所だって。あの場所がなければ、今の僕はなかった。そりゃあ、石を見つけることも考えておきますけど。でも、ですよ。それ以前に、天神社は、雨宮さんの家ですから」
ハッとしたように、雨宮さんは僕と天城さんを交互に見やると、少し嬉しそうに頷いた。そして、手をぎゅっと握り返してくれる。温かい体温。以前感じた冷たさはない、生きる証が、今僕の手の中にある。
あの日、家がなくなると泣きじゃくった雨宮さんの顔が忘れられない。あの涙は、決して嘘ではない。好きな人が泣いていて、どうして放っておけようか。男なら、いくらヘタレでも、守りたいものを守る。精いっぱい頑張る。それが、当たり前だろう?
「大切な人の家を守りたいって思う事は、おかしなことですか?」
言いきると、天城さんは呆然として口を開け、間抜け面を晒した。今度ばかりは、あの鋭い鷹の目も萎えて、輝きを失っている。
そして、おもむろに立ち上がると、気でも狂ったかのように、声をあげて笑いだした。
純粋に、面白いとでも言うように。
「はは、はははははは……!とんだ阿呆ものですね、実に愉快です。では、署名活動をやめないと」
「はい。絶対に」
「ふふふ、ただのヘタレ野郎かと思いましたが、そうでもないようだ。いいでしょう、私と勝負をしませんか」
ヘタレと言う言葉に引っかかったが、黙っておく。それよりも、勝負って?
「貴方が署名を二百名集められたら、貴方の勝ち。神社の取り壊しを止めてあげましょう。それどころか、神社を然るべき手順によって、正式なものにしてあげても良いです」
「え、それって」
「ただし。期限までに署名を集められなければ、私の勝ちとして、神社を予定通り取り壊します。そうですね……期限は今月の二十日まで。さあ、どうですか?」
「……もちろん。受けて立ちます」
元より、諦める気なんてさらさらない。痛いほどに握り合った僕達の手が、強い決意を示していた。
期限まで、一週間を切っていたけれど、僕に負けるつもりはなかった。