15 些細な行き違い
久しぶりに雨が降った。とはいっても、僕の感覚での話で、実際は以前の雨から一週間くらいしか経っていない。それでも、連日雨続きの梅雨に比べれば、雨が降ったのは久しぶりだし、雨宮さんに会いに行けると思うと、ここ最近疲れ切っていた身体が妙に軽くなった気がした。
と言うことで、本日は署名活動中止。
友喜と幸弘も、雨だからそうそう人も集まらないだろうという理由で休んでもらうことにした。
もちろん僕は、天神社に向かう。最近は署名活動ばかりで、ほとんどこっちに顔を出していなかったから、出迎えてくれた鳥居が妙に優しく見える。土砂降りとまでは言わないけれど、そこそこ降り続く雨を、傘で避けながら僕は賽銭箱の前までやって来た。
すると、雨宮さんはいつも通りに手を振って、にっこりと笑ってくれる。
「雨宮さん、お久しぶりです」
「お久しぶりです、赤瀬さん。とはいっても、そんなに経っていないのですが」
「まあ晴れの日も、顔を出していますからね。でも、数分しかここに居ないし」
僕はごにょごにょと口ごもると、続きの言葉が言えなくて、照れ隠しに雨宮さんの隣に座る。もっと雨宮さんと居たい、なんて言えるわけない。そもそも、そんな悠長な事を考えられるほど、事態は優しくないのだから。
それでも、こうして雨が降れば、また前のように笑いあえる日常は、大事だと思う。息抜きとか、そういうことなのだ。
それでも、少しずつ変わっていっている天神社に、僕は眉を寄せた。数日前より、明らかに違う場所がいくつかある。
「これ、みんな天城さんたちが?」
薄暗い空の下、境内に張り巡らされた黄色のテープ、よけられた砂。いかにも、工事前ですよと主張していた。
雨宮さんは苦笑すると、首を振った。しっとりと濡れた髪が、僕の頬をかすめる。
「天城さんはここに来ていませんが、つなぎを着た人たちが何度かこれを張っていました。……準備、ですよね」
「……はい」
僕は唇を噛んで頷いた。まずい。このままでは、いずれこの神社は取り壊しの前に、立ち入り禁止区域に入ってしまう。そうしたら、雨宮さんに報告すら出来なくなる。急がなければ。そうは思うものの、鞄に入ったままの大学ノートには、未だに名前が連なっていない。
「雨宮さん、ごめんなさい。……その、まだ署名が集まってなくて」
一応見せた方がいいと思って、僕は濡れないようにそっとノートを取りだした。結果は情けなくとも、これは雨宮さんの問題なのだから、見せた方がいいに決まっている。彼女は受け取ると、大事そうにノートを開いて、ハッと息を呑む。反応が恩田さんと似ていて、僕は少しショックだった。やっぱり、こんな結果は見せないほうが良かったのだろうか。これでは、雨宮さんに絶望を与えるだけじゃないか。
雨宮さんは、顔を俯かせて、ノートをゆっくり閉じると、やがてか細い声で、こう言った。
それは、僕からしたら耳を疑うような言葉だった。
「……赤瀬さん。もう、やめましょう」
「え……?」
ノートを受け取った僕は、しばし硬直する。だって、その言葉はあまりにも僕の心に重くのしかかって来たから。やめるって。そんな、こと。
「やめるって、何をですか?」
「……恍けないでください。この、活動を、です」
「どうしてそんなことを?だって、雨宮さんが消えちゃうかもしれないのに。やめれませんよ」
「赤瀬さん、自分の顔をちゃんと鏡で見ましたか?今、凄く青い顔をしていますよ」
「そ、そんなの、雨宮さんが消えちゃうことに比べればどうってことありません。それよりも今やらなければならない事はこっちです、だからやめません」
「でも、署名はこんなにも集まっていないんです。やめた方が身のためです。赤瀬さんのご友人にも迷惑をかけているみたいですし」
今日の雨宮さんは、やけに口調が刺々しい。俯いたその顔は、長い髪に隠されて表情が見えず、僕は彼女が怒っているのか、それとも哀しんでいるのか、見分けがつかなかった。平淡な声だけが、雨宮さんの感情を、読み取らせまいとしていた。
「やめません。絶対に。そりゃあ、署名は集まっていませんが、それでも今後集まる可能性だってあります」
「集まりません。こんな神社を気にかけてくれるところなんて、ないんです」
「僕は気にかけますよ!どうしてそういうことを言うんですか!じゃあ、雨宮さんはこの神社がなくなってもいいって言うんですか!貴方だって、消えてしまうかもしれないのに!」
僕は思わず、感情的になって立ち上がってしまった。階段がギシリと音を立てる。そして、その次に飛んできたのは、聞いたこともないような雨宮さんの怒声だった。
「いいわけない!!」
境内に響き渡ったその怒声は、すぐに雨音にかき消されて、辺りはざあざあという音に代わる。だけど、僕だけは、いつまでもその声が耳に木霊して離れなかった。
「……いいわけ……ない……」
やがて顔をあげた雨宮さんは、泣いていた。
以前のように、泣きじゃくっているわけではない。だけど、その涙はとめどなく溢れ続け、それは、僕の心までを濡らした。
「雨宮さん……」
「私だって、嫌です。ここは、大切な場所だから。この神社が取り壊されれば、私は消えてしまう。そんな恐怖に包まれて、過ごしてきた私は、もうへとへとなんです」
流れる涙を拭うと、雨宮さんはその綺麗な瞳で僕を見つめた。僕も、もう一度座り込んで目線を合わせる。雨宮さんに怒鳴られて、少しだけ肩が震えているけれど、それでも、この瞳を逸らしてはいけない。
「でも、赤瀬さん。貴方は私以上に疲れて、それでも私のために頑張ってくれて。これほど嬉しいことはありません。私、毎日聞こえてくる署名活動の声に、凄く元気を貰っているんですよ。たまに興味を示した人が来てくれたりして、少しずつ、この神社が知られていくのは、もっと嬉しいんです」
「じゃあ」
「でも、ですよ。私のために、赤瀬さんが必死な思いをして、身体を壊されるのは、神社がなくなってしまうこと以上に悲しいんです」
「僕は、雨宮さんが消えてしまう方が悲しいです」
「その気持ちは、とても嬉しいです。……でも、やっぱり、私のために赤瀬さんが辛い思いをするのは、嫌なんです」
このままでは、らちが明かない、と思った。雨宮さんは、意外と頑固で引かないところは絶対に引かない。そんなところも好きなんだけど、今回ばかりは、僕も引くわけにはいかない。
だって、雨宮さんは僕の体調を気遣うあまり、自分が消えてもいいと言っているのだ。そんなの、僕は許さない。残された方の気持ちは、どうなってしまうんだ。
また、僕にこの二年間の時のように、虚ろな生活を送れなんて、絶対に無理だ。今度こそ、僕は耐えられないだろう。これは雨宮さんのためでもあるけれど、僕自身のためでもある。 それを、伝えなきゃ。
そう思った束の間だった。
僕と雨宮さんの目の前に、真夏だというのに真っ黒なスーツを、がっちりと着こなした美男子が現れたのは。
「随分と勝手なことをしてくれましたね」
穏やかな顔つきとは裏腹に、地の底を這うようなその声。相変わらずぎらぎらと光る鷹の目は、僕と雨宮さんを捉えて離さなかった。
天城優成は、僕たちを一睨みすると、同じく真っ黒な傘を揺らした。
「何のことですか」
「署名活動の事に決まっています。あれだけ表立って行動されると、いくら影響力の少ないものとはいえ、私の耳にも入るんですよ」
この人はいちいち嫌味を混ぜないと話が出来ないのか。持てる勇気を全て使って睨み返すと、僕は言い返した。
「天城さんが取り壊しをやめてくれれば、中止しますよ」
「は、誰がしますか。……話があります、こんな雨の中立ち話もなんですから、私の家にいらっしゃい。……そちらの女性もですよ」
天城さんは悠然と言い放つと、さっさと踵を返して歩いていく。天城さんの家に行くのは決定事項らしい。涙を脱ぐつた雨宮さんは気合に満ちていて、僕は彼女と頷き合うと、僕たちは重い腰をあげた。