14 諦めきれないから
梅雨が明けると、七月と言うのは連日太陽が踊り出す季節で、滅多に雨は降らなくなる。湿度もそこそこに、うだるような暑さの中、風も生暖かいこの季節は、以前の僕だったら好きだったんだけど、最近はそうでもない。相変わらず過ごしにくい季節として毎年訪れるわけだけど、そういえば僕がどうして夏を好きなのか、思い出してみる。
幼い頃、僕はヘタレ少年なりにそれなりに外出していた。小学生の夏休みなんて、宿題が山積みになっているのをガン無視して毎日家を飛び出すのが恒例のようなものだ。
そう。いつも家にこもりがちで、あまり友人も居なかった僕だけど、夏は違った。
七月になると、春さんの体調が良くなっていたからだ。
僕の義兄である春さんは、いつもどこかで体調を悪くしていて、あまり外出もできない。入院もしばしばあって、最終的に、二度と病院から出られなくなってしまった人だった。でも、小学生の春さんは、夏になると不思議といつもより体調が回復して、激しい運動は出来ないものの、それなりに外に遊べたんだっけ。
ぽつりぽつりと思い出すと、僕の目元がじわりと熱くなる。
「兄さん。兄さんの好きな季節が、やって来たよ」
道中、呟いて空を見上げる。夕暮れ色に染まった空は、幾度となく昔の憧憬を彷彿とさせて、僕を感傷に浸らせた。帽子を深く被って、網を持って、二人で駆けまわった、そんな思い出。春さんも、僕も、大好きな、夏。
僕はグッとこみあげてくるものを堪えると、急ぎ足でアパートに向かった。右手に抱えたビラの束と、大学ノートが妙に重い。
突然、こんなにも感傷的になってしまうのには理由がある。
署名活動があまり上手くいっていないのだ。初めてから三日も経つというのに、進捗具合は芳しくない。
深いため息をついたまま、目の前に現れた錆びれた階段を上る。カンカン、と音を立てて二階まで上がると、ようやく見えた自分の部屋に、ホッとため息をついた。今日も疲れた。ゆっくり休もう。
しかし、そのだらけきった思考もぷつりと消える。それと言うのも、隣の部屋の玄関から、恩田さんが出てきたからだ。ばったり出くわした僕らは、しばし見つめ合って慌てて視線を逸らした。ビラを作ってもらうという大きな協力をしてもらったのにも関わらず、未だに恩田さんに慣れていない自分が情けない。後輩だし、お隣さんだというのにちゃんとした対応が出来なくて申し訳ない気持ちでいっぱいだ。僕が女性に耐性をつければいいのだけど、それは無理な気がした。雨宮さん以外の女性とまともに話すなんて、この先何年かかるのやら。
恩田さんが視線を逸らすのはよくわかんないけど。僕ってそんなに顔が気持ち悪いのかな。それだと雨宮さんも僕の気持ち悪い顔を見てるってことになるけど、それはまずい。
と、署名活動で上手くいっていないせいで、なんでもネガティブな方向へと考えてしまう僕は、相当疲れているとみていい。これで雨宮さんに会えなくなったら禁断症状も出てしまうだろうから、早く雨が降るか、金曜日になってくれ。
「あの。署名活動、今日もやってたんですか?」
「え、ああうん。……ビラ、ありがとう。凄く役に立ってくれてるよ」
元のデータを何度も印刷して、大声を張り上げながら配っているんだけど、このビラがなければ人はそうそう寄ってこなかったと思うと、感謝の念に堪えない。
「ビラは受け取ってくれる人が多くてさ。ここらに住んでる人は、多分、全員に配った自信があるよ」
しどろもどろになりながらも、彼女が作ってくれたビラを見せながら説明すると、恩田さんはショートボブの髪を揺らして頷いた。しかし、その表情は何処までも固く、僕の気持ちが伝わってしまったんじゃないかと不安になる。事実、彼女は署名活動の進捗具合を把握しているようだった。
「あの……本当に、私の作ったビラ、お役に立ってますか?」
「……なんで?」
「だって、あまり署名が集まっていないと聞きましたから。その、近松先輩に」
なるほど、友喜か。僕はぽりぽりと頭をかいて、苦笑する。そう言えば、この子はバス愛だったのをすっかり忘れていた。自分が作ったものがどう影響しているのか、普通なら気になるはずだ。
結果が残せていない事に恥ずかしさを覚えて、僕は顔を俯かせた。薄墨の影が、妙に長く伸びていて、それが笑っているような気さえした。考えすぎだ。もちろん、そんなことは分かっている。
「その通り、かな。ごめんね、せっかく協力してもらってるのに」
「いえ……気にしないでください。その、何人くらい、集まったんですか?」
僕はノートを開いて、恩田さんに見せた。読むまでもない。そこには、数行の文字すら、見つからないのだから。
「……ぁ」
恩田さんは何かまずいものでも見てしまったというように、その白い肌を更に白くさせて口元を押さえる。気を遣ってくれているんだろうけど、こればかりはしょうがない。僕は首を振って、何とか、声を絞り出した。
「本当に、ごめん。友喜と幸弘が手伝ってくれてるんだけど、それでも合わせて十人にも満たないんだ」
僕のノートには川上さんの名前しか載っていない。あの二人は、僕よりよっぽど愛想がよくて、人付き合いも上手いからそれなりに話は聞いてもらえているみたいだけど、それでも集まらない。結局、天神社という場所が、この町にとってどれだけ忘れ去られて、必要のない所なのか突きつけられただけだった。 三日間、講義以外の時間を全て割り当てた結果が、これなのだ。僕自身、情けないし、あの二人にも、もちろん恩田さんにも申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
「私の事は気にしないで下さい。赤瀬先輩がどれだけ頑張って呼びかけているか、私も何度も見かけているんです。……だから、安直な言葉しか送れなくて申し訳ないですが。……頑張ってください」
「ありがとう。期限まで、あと少ししかないけど、頑張るよ」
僕は有り余る力を使って笑うと、玄関に手をかける。申し訳ないけど、そろそろ休ませてもらおう。炎天下の中、ずっと声を張り上げていたのだ。おかげで心も身体もくたくたで、妙な感傷にでさえ浸ってしまう始末だし。
だけど、その考えは恩田さんの意外な一言で止められた。
「……諦めたりは、しないんですか」
唐突の言葉に、僕は玄関のドアノブから手を離して、恩田さんを見つめた。彼女の瞳は、僕を捉えて離さなかった。
「しないよ」
「そんなに疲れて、くたくたになって、全く集まっていないのに?」
「……うん。くじけそうになることだって、何度もある。今だって、やめたいと思う。幸弘と友喜にも迷惑かけてるし」
「じゃあ、何で。どうして」
「僕の大切な人との、想い出の場所なんだ。あの神社がなくなると、僕も悲しいし、その大切な人はもっと悲しむ」
脳裏に過る雨宮さんの顔は、いつだって笑っていてほしい。これからも、あの神社で、僕を笑顔で迎えてほしい。だから僕は諦めない。幸弘と友喜に迷惑をかけている。もちろん恩田さんにだって。僕のエゴだって、分かりきっている。それでも、僕は諦めない。絶対に。
「女のひと、ですか?」
「……うん。僕の、大事な人なんだ」
それを聞いた恩田さんは、何かを堪えるように唇を噛み締めると、さっさと中に入っていってしまった。呆れられたかもしれない。それでも、僕は神社を守ると決めた。だから、なりふり構わず突き進むしかない。
まだ一行しか書かれていないノートに、僕は再び決意した。