第六章 式神とはなんぞや
第六章 式神とはなんぞや
1
悪霊騒動が終ると、幸せな日々が戻ってきた。
特に変わりはなったが、いつもよりトレーニングを強化した。
いつまた、龍禅が賭試合じみた行動に出るか、皆目わからない。試合に勝てば、龍禅との友好的な関係は続く。負ければ関係は終る。
八月になり、お盆も過ぎると、鴨川から呼び出しを受けた。
久しぶりにスーツを着て《カツの新影》の本社に出向いた。久々に来る本社は、少し緊張した。
社長室前の控え室で、秘書の女性に来訪を告げた。
秘書が電話で確認してから「どうそ、お入りください」と一礼して告げた。
「失礼します」と社長室の扉を開けた。
鴨川が社長机でパソコンのモニターを見ながら指示を出した。
「悪いが少し座って待っていてくれ。これ、終ったらそっちに行くから」
予定の時刻に伺ったら、社長は手が離せなかった。普通なら、そう思う。
だが、何か違うと感じた。先ほど、秘書の女性は社長室に電話を架けて鴨川に確認してから通した。
仕事が残っている状況なら、社長室の外の社員を待たせるはずだ。
ドアの付近から一歩も動かず、座るために用意された座布団の周囲に、さっと視線を走らせた。
郷田の座布団の正面には鴨川が座る座椅子があった。座椅子の横には以前に見た刀置きはなかった。代わりに、肘を置く漆塗りの脇息があった。
天井を見るが、上に仕掛けもなさそうだった。不穏なカメラやセンサーの類も確認できなった。
靴を脱いで畳に上がった。警戒しながら、ゆっくりと足取りで進んで行く。万一の事態も想定して、畳の縁は踏まないように用心した。
パソコン・モニターを鴨川が首を小さくて動かして見ていた。されど、手はマウスやキーボードを触っていなかった。
画面をスクロールさせていない。何か、引っかかる。
座布団に座った。座ってから、そっと、座布団の前の部分をはぐってみた。
畳に幅一センチ、長さ三十センチほどの紙テープが貼ってあった。明らかに、何かの目印だ。
頭を上げると、鴨川と目が合った。悪戯がばれた子供のように鴨川が笑った。郷田も釣られて笑った。危険を感じた。すぐに思いっきり身を屈めた。
ビュンという音がして、頭上を矢が通り過ぎて行った。
矢の飛んできた方向を見ると、襖に穴が空いていた。
郷田は転がりながら立ち上がり、半身に構えて襖に向かった。
鴨川が感心したように声を上げた。
「どうやら、少しはできるようになったじゃないか、郷田君」
郷田は襖に構えたまま「ありがとうございます」とだけ返事をした。鴨川の策が終ったとは限らない。
鴨川が椅子から立ち上がった。襖に向かって、鴨川が歩いていって襖の一枚を開けた。
開いた襖から、台座に固定されたクロスボウが現れた。人に向かって遠隔操作で矢を放つクロスボウなんて、初めてお目に掛かった。
鴨川がクロスボウを台座から外した。クロスボウを手に、笑顔で「冗談だ」と言わんばかりに鴨川が発言した。
「そう、怖い顔をするなよ。郷田君、こんなの玩具だよ。大して威力なんてないよ」
郷田が安心すると、鴨川が目を細めて、郷田の座っていた先を見ていた。
不審に思い、郷田は鴨川の視線の先を追った。郷田が屈んで避けた矢が、部屋にあった甲冑の胸に当って貫通し、深々と刺さっていた。
甲冑を貫通する威力の矢は、洒落にならない。高校の歴史教師も教えてくれた。
「戦国時代、最も人を殺した武器は、刀や槍ではなく、弓矢だった」
鴨川がクロスボウを置いて、大股でかつ早足で甲冑に近づいた。鴨川が矢を抜こうとしたが、深く刺さっていたのか、簡単には抜けなかった。鴨川が甲冑に足を掛けて矢を引き抜いた。
鴨川が矢をじっくりと観察して、感心したように観想を漏らした。
「洋弓銃の威力って、思ったより凄いんだな。甲冑に穴が空くんだ」
さすがに強い口調で抗議した。
「社長! 俺、死ぬところだったんですよ」
矢を甲冑の横に置いて、鴨川が白々しく発言した。
「死にはしないよ。これは玩具の弓だし、甲冑も飾り用だからね」
確認するために、甲冑に近づこうとした。
鴨川が前に立ちはだかった。鴨川を避けて甲冑に近づこうとすると、鴨川が郷田の動きに合わせて、行く手を遮った。
郷田は不機嫌な口調を隠さずに許可を求めた。
「飾り用かどうか、確認するだけですよ」
強い口調で言いくるめるように、鴨川が拒否した。
「持ち主のワシが飾り用だと言うんだから、飾り用だよ。間違いないよ」
「確認させてくださいよ」と迫ると「ダメだよ、座りなさいよ」と鴨川が邪魔した。
力を押しで通ろうとするが、鴨川がブロックした。鴨川を所詮は老人と思ったが、誤りだった。
鴨川は郷田相手に、一歩も引かなかった。鴨川の力は同年代の男性より明らかに強く、足腰も強靭だった。なにより、重心移動が抜群に上手かった。
押しても、引いても、軸が安定して崩れない。通れないとなると、意地でも通ってやりたくなった。鴨川もムキになり、絶対に遠さないと、張り合った。
一瞬、チャンスができたと思って抜こうとすると、視界が大きく揺れた。柔道の払い腰しで、綺麗に鴨川に投げられた。
郷田を投げた鴨川が、息を切らせながら発言した。
「どうだ、参ったか。私はね。これでも、柔道三段だよ。スポーツ・ジムにも毎日ね、通っているんだよ。わかったら、さっさと、座りなさいよ。これは、社長命令だよ」
投げられた郷田は憎まれ口を叩いた。
「都合の良い時だけ、社長になりますね」
鴨川が口端を上げて、指差して言い放った。
「馬鹿なセリフを言うんじゃないよ。都合の良いときだけなんて、社長をやってないよ。君が辞めるまで、ずっと私は君の雇用主だよ。君が給料を貰っている限り、この関係は、変えられないよ」
言われれば、確かにそうだ。郷田は納得して、座布団に正座した。
鴨川も向かい合って、座椅子に座った。
2
鴨川が手拭いを出して汗を拭きながら、気分よく評価した。
「噂はね、色々と聞いているよ。陰陽師の修行しながら、短い期間で成果を出しているそうだね。悪霊と化した狒々の霊を倒した、とも聞いているよ。中々やるじゃないか。私はね、結果を出せる人間は好きだよ。もちろん、結果を出す奴には、それなりに報いる」
龍禅はきちんと報告を上げているらしい。これは、ひょっとすると、特別ボーナスでも出るのだろうか。
ボーナスが出たら、きちんと龍禅に付け届けも持っていかねばならない。魚心あれば水心と、時代劇の商人も教えている。
鴨川が手拭いをしまい、淡白に発言した。
「ただ、陰陽師とは、方向がどんどん離れていっているとも聞いているよ。なんか、金ピカのマスクを被って、英語で祭文を読んでいるそうじゃないか。鈴や太鼓の代わりにエレキ・ギターを使うとも、聞いているよ」
誤算だった。龍禅に鴨川が洋風嫌いの頭の固い老人だ、と言い含める行為を忘れていた。
無理かもとは思ったが、取り繕ってみた。
「それは、まあ、色々と事情が、ありまして。止むにやまれないと申しましょうか。現状では試行錯誤の段階でして。もちろん努力はしています。斬新かつ先鋭的な方向で。とりあえず年内は、温かい目でいただけないでしょうか。きちんと、目的の場所に到達してみせますから」
話している郷田自身でもわかるほど苦しい発言だった。まだしも「故意ではなかった。手違いだった」と言い張る食品偽装の謝罪会見のほうが、立派だ。
やはりというか、鴨川が脇息を叩いて怒鳴った。
「馬鹿者が! 何が斬新かつ先鋭的な方向で、だ。行く方向が間違っているのに、どうして正しい場所に着くんだよ。方向を間違えて努力すれば努力するほど、時間が過ぎれば過ぎるほど、目的地から遠くへ行くよ。私は君に霊能者になって欲しいのではなく、鴨川新影流の陰陽師になって欲しいんだよ」
苦しいながらも弁解に努めた。
「大丈夫ですよ。社長、霊能者も陰陽師も、似たようなものです。ちょっと包装紙を替えたら、アッという間に陰陽師ですよ」
影のある笑顔で、低い声で凄んで発言した。
「似たようなセリフを口にした肉屋がいたよ。アメリカ産の豚肉を、国産黒豚だと偽って売りつけようとした不埒者だよ。私が、ただの豚カツ屋の親爺だと思って舐めたんだろうね。その肉屋がどういう末路を辿ったか、知りたいかね」
陳腐な脅し文句だが、鴨川が口にすると、ギャング映画のボスが話しているように凄みが出る。豚カツ屋の社長は表の顔で、裏の顔が別にありそうな気配さえするから、不思議だ
。
郷田は素直に頭を下げて「それは、またの機会に」とお茶を濁した。
鴨川が不機嫌な顔で、厳しい口調で言い放った。
「君は本当に、何もわかっていないよ。ちょっと変えたら成れるなら、式神の一つも使ってみろよ」
郷田は場の空気を良くしようと、適当に合わせた。
「そうそう、陰陽師といえば、式神ですね。いやー、ちょうど、少し背伸びをして、式神にも手を出そうと思っていた段階なんですよ。狒々と戦った時もですね、式神があれば、もっと楽だったのになー、と思っていたんですよ。今なら、式神の修得も、できる気がします」
鴨川の表情が怒りから懐疑に変った。疑いを隠さないが、淡い期待するような口ぶりで鴨川が聞いてきた。
「郷田君、それはないだろう。四月に修行を始めた人間が、たった五ヶ月で式神を使えるようになるとは、思えんなー。できたら、天才だよ」
四ヶ月だろうが、四十年だろうが、いくら修行をしようと、人間に式神を使えるようになるとは思えなかった。
裏を返せば「今なら、できる」と発言しても「一生できない」と発言しても、同じ結果だ。なら、前向きな発言をして期待感を煽ってもいいだろう。
老い先短い老人には、希望が必要だ。とはいえ、できないと鴨川が怒る態度は明白なので、退路も残そうと決めた。
自信に溢れる口ぶりで、流れるように語った。
「式神の修得に手を出したいんですけど、陰陽師の式神って、各流派で独特の存在でしょう。鴨川新影流の式神については資料がないですから、困っているんですよ。今、龍禅先生に探してもらっています。いってみれば、龍禅先生待ちですかね」
我ながら上手いセリフが口から出たと感心した。これなら、できなくても「龍禅先生がー」「龍禅先生がー」と、人のせいにできる。
鴨川が予想外の行動に出た。
「よし、待っていろ」と鴨川が座椅子を立つと、社長机の前に移動した。鴨川が社長机の一番下の抽斗から、何かを取り出して持ってきた。
鴨川が差し出したのは、真新しい白い紙で綴じられた一冊の本だった。
表題として『鴨川新影流・式神使役方法』と行書体で書かれていた。
少し興奮した様子で、鴨川が饒舌に語った。
「これはね、鴨川新影流陰陽道の口伝書だよ」
「口伝書って、なんですか?」と聞くと鴨川が「奥義や秘伝について書かれた物だよ」と口を尖らせて教えてくれた。
郷田は嫌な予感がしたが、鴨川が気分の良い顔で、熱心に話し続けた。
「妹の旦那さんが、去年のお盆に亡き妹の荷物を整理していたら、口伝書を見つけてね。妹が実家から持って来た大事な物だからと、奈良の装潢師に復元依頼を出していたのよ。そうして、今年になって復元本が完成したわけ。仏壇に口伝書が載っている場面を見たときは、魂消たよ」
とんだ誤算だった。まさか、このタイミングで口伝書が出てくるとは、微塵も思わなかった。
しどろもどろに「い、いいんですか、持ち出しても?」と聞くと、鴨川が機嫌よく答えた。
「これは、復元した口伝書のコピーを製本したものだよ。一冊、持っていけ。ただし、コピーだからといって、粗末にしたら駄目だよ。この本には鴨川家の歴史が詰まっているからね」
郷田が口伝書を手に何も言えないと、鴨川が景気よく郷田の背を叩いた。
「きっと、これは、御先祖様の「鴨川新影流を復興せよ」との意思だよ。これで問題ないだろう。式神を修得してみせろ。できたら、きちんと褒美を出すよ」
最後に鴨川が景気よく大声で笑った。郷田も一緒に笑ったが、心中は穏やかではなかった。
鴨川の声の大きさは、期待の大きさ。失敗すればいたく不興を買う事態になる結末は、目に見えている。郷田には鴨川の笑い声が悪魔の笑い声にすら聞こえた。
3
相談しに行った龍禅が冷たい顔で開口一番に「無理ね」と発言した。
平身低頭で懐柔を試みた。
「式神を修得できたら、纏った金額を寄進するように社長にも頼みますから」
龍禅が呆れた顔で、否定的な口調で発言した。
「お金がどうこうではないのよ。式神を自在に使役できる陰陽師なんて、そうそう存在しないのよ。きちんとした師匠について長年ずーっと修行を積んだ陰陽師でもできない結果に終るのは、ざら」
「つまり、ろくでもない師匠を持った俺には無理だ、と」
龍禅が頬を引き攣らせた。
「よく、そんなこと言えるわね。といいたいところだけど――」
龍禅の顔がいつもの顔に戻って、突き放すように発言した。
「式神については私も素人同然だから、大きな口は叩けないわ。諦めて、コツコツ修行しなさい。二十年もやったら、どうにかなるかもよ」
「それでは遅すぎます。二十年も待ったら、社長が死にますよ。社長が死んだら、褒美が出ないでしょう」
龍禅が目を吊り上げて、断固とした口調で拒絶した。
「呆れた人ね。でも、こればかりは、どうしようもないわよ。式神から頼み込んできたら別だけど、そんな特殊な事例が起きるのは、特別な血統の持ち主だけなのよ。いわば、陰陽道のサラブレッドだよ。昨日今日で陰陽師を始めた一般人には、無理よ」
郷田自身、サラブレッドではなく農耕馬だと思う。
「わかりましたよ。まずは、独学で勉強してみせますよ。ですから、古書の翻訳をしてくれる人を教えてください。本は綺麗ですけど、昔の字は、同じ日本人でも読めないんで」
龍禅が自然に「いくら出せるの」と聞いてきた。
大学で論文代筆業のアルバイトをしている人間の話を思い出して返事をした。
「翻訳料としてページ当り六千円まで出します。八十四ページあるので、五十万四千円でやってください」
龍禅が「ちょっと本を見せて」と頼んだので、本を渡した。龍禅が鋭い目で、中身をざっと確認して、本の最後のページまで捲って閉じた。
龍禅が軽い口調で承諾した。
「この内容なら、妥当な値段ね。いいわよ、翻訳だけなら、やってあげるわ。そっちは、本業だから」
龍禅はほとんど家にいた。なので、働いておらず怪しい霊感商法で生計を立てていると想像していたが、違った。
確かに翻訳の仕事が本業なら、いつも家にいても納得できる。
興味を持つと、龍禅が教えてくれた。
「ヒンディー語やサンスクリット語で書かれた昔の書物を、現代でも通用するヒンディー語や英語に翻訳する仕事をしているのよ。宗教色のある日本の古書の現代語訳もやっているわよ」
古代インド宗教の翻訳なんて、かなり特殊な仕事だ。下世話だが、収入が気になった。
「そんな特殊な翻訳って、儲かるんですか?」と聞くと、普通に教えてくれた。
「この家を維持するくらいには、稼げているわよ。最近はインドに進出した日本企業から商業的なヒンディー語の和訳や、手紙や商品の説明文をヒンディー語にする仕事も多く入るようなったから、結構な余裕ができたわ」
「翻訳家なんて意外だな」と、しみじみと口にした。
龍禅が当然といわんばかりに強い口調で発言した。
「霊能者業界のパイは、大きくないのよ。大きくないのに、宗教家と占い師が我先にと、パイを口にする。霊能者一本でまともにやっていこうとしたら、金持ちのパトロンか組織の後ろ盾がないと、本当に詐欺でもやらないと、やっていけないわよ」
となると、当然、疑問も湧いた。
「先生はなんで、霊能者をやっているんですか」
龍禅が思案するような顔で答えた。
「龍禅の家に生まれた事情もあるけど。やはり、人助けを兼ねた趣味かしら。でも、本気の趣味だから、手は抜かないわ。趣味だから、お金にならなくても仕事を請けられる」
会社の仕事なら手を抜くが、趣味になると妥協しない人は、珍しくない。むしろ、芸術関連なら、下手なプロよりずっといい仕事をする人間もいる。
最後に少し曇った顔で龍禅が忠告した。
「余計なお世話かもしれないけど、郷田君も陰陽師をやりたいなら、新影の社長さんを手放したらだめよ。それが駄目なら、なにか本業を持ったほうがいいわよ。でないと、簡単に転落するわよ」
4
龍禅は仕事の手が空いていたせいか、十日間で現代語訳の『鴨川新影流・式神使役方法』を作成してくれた。完成したのでケリーにも見せようかと思ったが、思い止まった。
郷田自身がまず読んで理解していないと、説明しようがない。もし、質問されて全く役に立たなかったら、大恥を掻く。
家に持ち帰って、さっそく中を拝見した。
龍禅の仕事は、驚くほど丁寧だった。本は単なる現代語訳ではなく、注釈が充実していた。
「水垢離」とあると、単に「神仏に祈願するために身を清める」と書いてあるだけではなかった。
きちんと、やり方として『現代では滝や井戸水を使用するのが難しい。代用法として、①風呂場を綺麗に洗う。特に排水溝は綺麗にする。
②風呂場を常に換気して風を入れるよう心掛ける。できなければ、少し窓を開ける。
③使用する冷水ではなく温めのお湯でも可。
④お湯は浴槽三百五十リットルに対して、塩大匙三杯を加えたものを用意。
⑤裸になり、いきなり頭から浴びるのではなく、手、足、顔から始めて、慣らしてから、浴びる』
――と書いてあった。
他にも郷田がわからない儀式については「これは、こうだけど、現代では難しく、代用法として――」と記載があった。結果、翻訳された八十四ページの本は、二百ページ以上に増えていた。
金の力とは、つくづく偉大だと思った。龍禅がここまで、詳細かつ親切丁寧に儀式について教えてくれた過去はなかった。
これなら、五十万円以上も払った価値がある。領収書と一緒に鴨川に見せれば、経費として認めてもらえる仕事だ。
さっそく、式神修得の準備に取り掛かった。部屋の掃除をして祭壇を作り、神饌を買い揃えた。
本には詳しく祭壇の作り方が図解されていた。神饌も、どこで調達すればいいかまで書いてある。翻訳本があれば苦労したが、一人でもやれそうだった。
祭壇を造り、神饌を揃えた。祭壇は一万円以下でできたが、必要な種類の神饌を揃えると、二万円を越えた。
中国産食材や発泡酒を使えば、もっと安く上がる。されど、龍禅が郷田の思考を見越していた。きちんと、注意事項として「神饌は国産使用」とあり、御神酒も純米酒のこれこれと銘柄が指定されてあった。
準備を整えて、決められた時間に起きて身を清め、決められた食事を摂り、決められた祭文を読み、踊る。
全てに決まりごとがあり、窮屈に感じた。
たどたどしく、儀式を終えて夜になったが、何も変化がない。有態にいえば、失敗だ。
龍禅にうまくいかないと電話すると「一回では、うまくいくわけがないわよ」と即答され、電話を切られた。
翌日、もう一回、チャレンジしようと決めた。祭壇は使い回しできるが、神饌は使い回しができない。正確には儀式の最後で神饌を食する直会があるので、儀式が終ると、神饌を食べなければならない。
なので、神饌をまた買いに行かねばならない。二万円の出費だが、神饌に使っている食材は良い物を使っているので美味しいから、まあいいかと思った。
二回目をやると、一回目では間違っていた箇所がわかったので、修正する。修正しても、失敗した。
また、二万円を出して神饌を買うが、失敗。いくら美味しい食事でも、三回も喰えば、飽きた。
資金的にも、かなり厳しくなってきたので、「神饌代を支給して欲しい」と、鴨川に電話で頼んだ。
鴨川から、すぐに厳しい言葉が返ってきた。
「陰陽師になるために使った金だから、もちろん、失敗した分も支給するよ。ただ、その都度、いちいち払うと、君はダラダラいつまでも失敗する。だから、支給は成功してから全額一括払いだよ」
式神使役法の怖ろしさが、段々とわかった。失敗するたびに二万円が消えていく。毎日二万円が消えていくのなら、軽いパチンコ依存症と変わらない。
神饌の材料はカードで買っているので、すぐには資金繰りには困らない。カードの限度額は五十万円。リボ払いは金利が馬鹿らしいので一括にしている。されど、連続で失敗すれば、リボ払いに切り替えなければならない。
失敗が続けば続くほど、負担は大きくなる。もし、延々と失敗すれば「神饌破産」しかねない。かといって、儀式を続ければ、毎日ずーっと同じ物を食べねばねらず、生活も刑務所暮らしのように制限される。
一回や二回の儀式なら修行だが、ずっと続けば、ちょっとした拷問だ。かといって、休憩を挟むとカードの支払日が迫ってくる。大きな口を叩かねばよかった。
だが、もう後には引けない。無茶でも無理でも、なんらかの形を残さないと、前も後ろも金もなくなる。
5
儀式が十五回目ともなると、疲れてきた。肉体的な疲れなら耐性があるが、精神的な疲労は我慢できなかった。
今日は完全に失敗だと感じた。それでもとにかく、失敗でも途中で終らせず、最後までやろうと思った。
直会まで行ったところで、意識が途切れた。ベッドに戻って寝ようと思い、顔を上げると、平安時代の武士のような格好をした筋肉質の男が、座布団一枚分の距離を置いて胡坐を掻いて座っていた。
男の顔は、どこか鴨川に似ていた。だが、年齢は鴨川よりも三十歳は若かった。
普段なら驚く。されど、半分夢の中で日本酒がほどよく回っていたので、別に気にならなかった。
「社長のお使いの方ですか。すいません、式神の件、もう少し待ってもらえないでしょうか。必ず、どうにかしますから」
口から出た言葉は、完全に借金の言い訳だった。
男が目を見開き、厳かに伝えた。
「某は鴨川家の祭神が天手力雄神の麾下の武人なり。呼びかけにより、参上した」
全く身に覚えがなかった。男は完全に勘違いしている。
「家を間違ってないですか? 呼んでないですよ」
男が膝を叩き、怒りの表情で怒鳴った。
「戯けが! そちが呼んだから、こうして、やってきたのではない。何を言っておる」
「俺が呼び出そうとしている存在は式神。天手力雄神さんではないですよ。ましてや、天手力雄神の麾下なら、全く別者でしょう」
男がイラっとした表情で命令した。
「『鴨川新影流・式神使役方法』の四十三項を開け。きちんと、「天手力雄神に謹んで申し上げる」と書いてあっただろう」
郷田は面倒臭いと思ったが、言われた通りに四十三項を開いた。どこにも天手力雄神の語句はなかった。郷田はページの内容を読み上げる。
「四十三ページに書いてある内容は、ですね。干し昆布を三枚(国産)、打ち鮑を一枚(国産)、勝栗七つ(市販品の中には勝栗と称して甘栗を売っている商品もあるので、注意)を図のように――」
男が両手を大きく振って、大声を上げた。
「待て、待て、待て、お前が読んでいる場所が違うぞ。お前の読んでいる場所は、もっと前の箇所だ。四十三項といったら、四十三項を開かんか」
開いてあるページを開いて差し出した。
男が開いているページ内容を黙読してから、眉間に皴を寄せて表紙を確認する。次いで、本の厚さを確認して抗議した。
「お前、これ『鴨川新影流・式神使役方法』ではないだろう、よく似ているが、本が違うぞ」
郷田は「合っていますよ」と教えたが、男は納得しなかった。
「絶対に違うって、これ、仏壇に置いてあった本ではないだろう」
そういえば、鴨川が亡き妹の仏壇にあったと発言していた。でも、なんで目の前の男が仏壇に置いてあった事実を知っているのだろう。
「確かに、貴方が手にしている本は、仏壇にあった本とは違います。手にしている本は、復元本をわかりやすくした意訳本です。でも、どうして、貴方は本物が仏壇にあったと知っているんですか?」
男が何か不味かったと思ったのか、口を噤んだ。男が口を噤んだが、本の経緯を知っているなら、鴨川の関係者で間違いないだろう。
儀式の最中は他人とみだりに口を利くな、とあったので、他人との接触を避けてきた。だが、同じ鴨川の関係者なら問題ない。
郷田は立ち上がって「ビールないんで、日本酒でいいですか?」と聞くと「あ、ああ」と返ってきた。
茶碗を持ってきて渡すと、御神酒用に買っておいた純米酒の新しい四合瓶を開けた。
「どうぞ、どうぞ」と促すと「では、失礼して」と男が一気に呷った。
男が嬉しそうに「これは本物の酒だ」と漏らしたので、すぐに四本ほど持ってきて前に置いた。
「まだありますから、適当に飲んでいてください。つまみを作りますから」
男が少し遠慮したように「いいのか」と聞いたので「また、買いますから」と短く答えた。
鴨川が様子を見に部下を派遣したなら、接待しておくに限る。相手は立派な大人だ。接待を受けておいて、悪い報告はしないだろう。家にある食料にほとんどは鴨川の金で買ったも同然だ。
勝栗を買った時に衝動買いした長野県産の胡桃に軽く塩を振って、炒めて出した。
男は胡桃を前にすると「最近の胡桃は、胡桃とは名ばかりで味が変ったからな」といいながら口にした。
すぐに、顔を綻ばせ「この味、まさしく本物の胡桃ではないか」と嬉しそうに食べた。
人に喜ばれるとは、気持ちがいい。神饌用の干し鯛を買った時に、送料を無料にするために抱き合わせで買った太刀魚の干物も出した。
男は頬を緩ませて喜んだ。
「これは、太刀魚か。某は紀伊の出身ゆえ、太刀魚は大の好物。うむ、これは瀬戸内の海の物であろう」
「当りですね。淡路島の漁師さんが獲って来た太刀魚を干物にした、とありましたから」
男は「そうか、そうか」と笑顔で頷いた。
最後に、神饌用の米として買った米を土鍋で炊いた。炊き上がった米を冷まして醤油を塗って、餅焼き用の網で、焼きオニギリにした。
男は焼きオニギリを口にすると満足気に感想を述べた。
「醤油の味が、またいい。お主、中々ツボを心得ているではないか」
「実家の母から、味噌と醤油だけはケチるなと、厳しくいわれていたので」
男がつまみを喰い、酒がなくなると、次々と瓶を開けていく。
「郷田殿も飲め」と薦められたので、一緒に飲んだ。二人で六本目の四合瓶を開ける頃には男も郷田も、だいぶ酔いが回っていた。
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男は勝手に一人で愚痴を話し始めた。
「最近は氏子が減ってきたためか、主に捧げられる供物が、年々減ってきているのよ。そのためか、ワシのように位が低い者が、ご相伴に与る場面も、めっきり減った。別に主人を批判しているわけではないよ。こればかりは、時代の流れだからね」
男は酒が回ってきたせいか、口調が段々崩れてきていた。
男がちょっと面白くないといった顔で、少し身を乗り出して教えた。
「ここだけの話だけどね。最近は上役、とはいっても、天手力雄神ではないよ。もう少し下の管理職がね、氏子を増やせ、供物を持って来い、って、うるさいのよ」
頭の中が「?」となった。どうやら男は、鴨川の使いではないらしい。ないらしいが、饗宴として出した物を下げる行為は男らしくない。それに、話は面白くなりそうなので、黙って相槌を打って聞いた。
男が酒を口にしながら、しみじみと語った。
「大変だったよ。鴨川の子孫で金を持っていそうな人物を見つけて、親孝行するように諭したでしょ。ボロボロになった本を、どうにか気付かせたでしょ。本を修復させるように仕向けたりもしたよ。昔なら、こんな努力しなくても、陰陽師が駆けずり回って努力したんだけど。今は駄目だね。こっちから手を差し伸べてやらないと」
男は「自分は神様だ」と発言している。普通なら信用できないが、郷田も酔っていたので、普通に受け入れた。鴨川新影流を新に復興させようとしていた黒幕は鴨川ではなく、目の前の神様だった。
龍禅は長い修業を積まなくても、式神から頼んでくれは別と教えてくれた。ならば、今回のケースでは式神修得は可能だろう。可能だろうが、納得できない点もある。
抗議するような口調で尋ねた。
「もしかして、貴方がすぐに出てこなかった理由って、供物を大量に提供させるためですか。いくら、供物が欲しいからといって、十五回も儀式やらせる行為は、いささか多くないですか」
男が少し渋い顔で言い訳した。
「そう、絡むなよ。ワシにだって、部下がいるのよ。上司にだけ納めて部下に配らないと、「上にばかりいい顔して」と悪評が立つのよ。部下が拗ねるのよ。そうして、部下に配ったら、今度はワシの分がないわけよ。やってられないよ」
男が酒に酔った赤ら顔を少し顰めて、説教してきた。
「十五回が多いって言うけどね。多くないよ。お前は少なくとも、四回は死にかけているでしょう。その度に、天手力雄神の麾下の誰かが、手を貸しているんだから」
指摘されれば、危機に曝された時に、誰もいないのに誰かの声を聞いた経験は何度かあった。
普段なら危機を乗り切った過去を、神様のおかげとは思わない。だが、酔っていたせいで、感激しやすくなっていた。
郷田は目の前にあった物を横にどけ、座っている位置から一歩下がった。
平身低頭して礼を述べた。
「そうでしたか、ありがとうございました。また、今まで何のご恩返しもできず、すいません。これからは天手力雄神と麾下の方々を篤く敬います。また、節目には感謝の気持ちとして供物を捧げます」
酒の力とは凄いものだ。普段なら絶対に出ないような殊勝な言葉が、口からスラスラと出た。
男は納得した顔で、残りの酒を全部ざっと注いで飲んだ。
男が立ち上がって、堂々たる表情で宣言した。
「よし、俺は、素直な人間は好きだよ。お前の態度、実に気分がいい。ワシがお前の式神になってやろう。名を付けろ」
威勢よく提案した。
「俺がシャイニング・マスク一号なので、シャイニング・マスク二号でお願いします」
名前を聞いた途端に男が「それはない」とばかりに苦笑いした。
「その名前の付け方はないよ。普通は、なんとかかんとか主・尊・王・君とかだよ。シャイニング・マスクって、聞いた覚えがないよ」
マスクを見せれば気に入ると思った。
金のマスクを買った時についてきた銀のマスクを差し出して頼んだ。
「シャイニング・マスクの名前に拘りがあるので、ぜひ、二号をやってください」
男が銀のマスクを見ながら半笑いで答えた。
「いや、しかし、これはないな」
「よし、では、こうしましょう。シャイニング・マスク二号をやってくれるなら、特典を付けましょう」
台所に行って残っている新鮮用の食材を全部すっかり持ってきて、男の前に置いた。
米二十キロ、日本酒四合瓶が四本、干し昆布十枚、勝栗五百グラム、干し鮑十個、干し鯛三枚、鰹節三本、海苔三十枚、バナナ三房、林檎十個、ミニトマト三パック、小松菜三株、塩五百グラム。饅頭三つ。
「どうです。シャイニング・マスク二号になってくれるのなら、これ全部、貴方に差し上げます」
男は目の前に詰まれた貢物を前にしても、まだ躊躇った。
「これ全部、いいの。でもなー」
もう、一押しだと感じた。「なら、これも付けましょう」と格闘技DVD十二枚セットとDVDを再生できるゲーム機を置いた。
男が「これはないだろう」と言った顔で「ゲーム機とDVDを貰ってもね」と感想を述べた。
まずいと思い、「ここから本番ですよ」と、すぐに貢物を追加した。
素面なら絶対に出さなかったであろう、福引きで当てた高級ウィスキー一瓶。実家から送ってきた、梅を漬けて置いた梅酒八リットルを追加した。
「ウィスキーは二十年物です。梅酒の梅は、紀州の南高梅を使っています。どうです、中々でしょう」
男がウィスキーと梅酒の瓶を交互に持って、とても興味を示していた。いけると、思ったので、さらに押した。もう、完全に深夜通販のノリだった。
「今ここで了承していただけるのなら、後日になりますが、白餅二升と酒二升を天手力雄神にお供えします。どうか、主の天手力雄神のためにもシャイニング・マスク二号を引き受けてください」
主人のためと言われたためか、男は大きな声で決断した。
「わかった。そこまで言うなら、ワシは今日からお前の式神シャイニング・マスク二号をやるぞ」
郷田は拍手喝采した。突如、目の前が暗くなり、目を覚ますと、朝だった。
二日酔いのせいか頭が痛かった。儀式をしていたリビングには日本酒の空き瓶が六本あった。とても、郷田が一人で飲める量ではなかった。
明らかに誰かと飲んでいた形跡だった。夢かと思ったが、台所に行くと、まだあると思った米や酒類が、そっくりなくなっていた。DVDとゲーム機は残っていたが、いつのまにか壊れて使えなくなっていた。
もしやと思って、シャイニング・マスク二号の銀のマスクを探すと、見つからない。
どうやら誰かが訪ねてきた明け方近くまで飲んでいた事実は、間違いないようだった。その後、相手に気前よくごっそりとお土産を持たせたらしい。だが、飲みすぎのためか記憶が曖昧だった。飲んだ相手が誰だったのかが、思い出せない。
記憶を呼び戻そうとすると、思い出した。
「そうだ、白餅二升と酒二升を買ってきて、供えなきゃ」