第二章 陰陽師ってどうするの
第二章 陰陽師ってどうするの
1
陰陽師になるのに国家資格があるわけでもなければ、どこかの組合に入らなければいけない決まりはない。ただ、師匠もおらず、誰も教えてくれないので、何からしていいか、さっぱりわからなかった。
わからないから、就職活動中は停止していて筋トレとランニングを再開した。
《カツの新影》が法人会員になっているスポーツ・ジムも積極的に利用して、体を作った。どんな職業でも、体が資本だ。
ジム帰りに携帯に連絡があって鴨川に呼ばれ、本社に行くと、社長室で鴨川は抹茶を飲んでいた。
鴨川の周囲を目視で確認したが、日本刀はなかった。なかったが安心はできない。
鴨川とは距離を置いて座ろうとした。すると。鴨川は手招きして「ちこう、ちこう」と呼ぶ。あまり、いい気はしないが、呼ばれれば、近くに行かねばならない。
適度な距離まで詰めようと歩くと、手振りを交えて鴨川が細かく指示した。
「おっと、ストップ。ストップ。半歩後ろ、もう半歩かな。そう。それくらい。あと、もうちょい右、もう少し、右かな。そう、その辺でいい。その辺で」
指示には従うが、嫌な予感しかしなかった。コントなら確実に床が抜けるか、天井からタライが落ちてくる流れだ。
コントなら笑いが起きるが、相手が鴨川なので、笑えない何かを仕掛けてくる気がした。
指定位置に座って、天井および座った周辺を確認する。だが、異常は見られなかった。
郷田の心配を気にせずに、鴨川が普通に話し掛けてきた。
「郷田君、陰陽師の修行は進んでいるかね」
警戒は怠りたくはないが、鴨川をきちんと見ないと鴨川は怒るだろう。相手は社長だ。敬わねばならない。
鴨川と向き合って報告した。
「とても、順調です。十キロメートルの自己ベスト記録も、更新しました。ベンチプレス百二十キロも、楽々いけるようになりました。拳で腕立て伏せも、三百回は楽々クリアーできますよ」
鴨川が不機嫌な顔になった。
「周りくどい話は嫌いでね。君の近況報告なんて聞きたくないよ。すぱっと、陰陽師の修行について報告してくれればいいんだよ」
郷田は、鴨川がなんで気に入らないか、わからなかった。
「ですから。成果を報告していますよ」
初めて会った時に二人の間に流れた「あれ、こいつ、何を言ってんだ?」の空気が再び流れて、妙な数秒の間ができた。
今回もまた鴨川が先に動いた。鴨川が不審がる顔をして尋ねてきた。
「陰陽師にそこまで、持久力や筋力が必要かな?
」
郷田は得意気に答えた。
「陰陽師って、漫画で読みましたけど、岩を割ったり、凄い跳躍力を見せたり、一日に何十里も移動しますよね。あれは、漫画ですけど、似たような行為をするなら、やっぱり基となる力は、筋力でしょう」
鴨川が首を傾げながら、聞いてきた。
「君の読んだ漫画を教えてくれるかな」
「『KUDANの河』『クリムゾン・キング』『眠れる夜叉』です」
具体的な作品名を挙げたが、鴨川は目を開いて「なんだね、それは?」と聞き返してきた。
世代にギャップが有り過ぎて、意思の疎通ができない。
鴨川がメモ帳を持って来て、作品名と出版社を書けと指示してきた。
作品名と出版社を書いていると、メモを覗き込んで鴨川が不思議そうに尋ねてきた。
「陰陽師ものなのに、カタカナやアルファベットが入るの?」
「今では珍しくないですよ」
鴨川がメモを受け取ると、「座って待て」と郷田に命令した。鴨川が机の上にあるパソコンで調べ物をする。どうやら、インターネット書店で作品を探しているらしい。
しばらくしてから、鴨川が笑い出した。
漫画を読んで、笑っているらしい。付き合いで笑うと、鴨川がメモを机に叩きつけて激怒した。
「お前、これ陰陽師じゃなくて、忍者物だろう」
「陰陽師って、忍術の一種ですよね」
鴨川は眉を吊り上げて、非難してきた。
「全然、違うよ。というか、君。陰陽師やれって命令されたら、陰陽師の本を読みなさいよ。なんで、会社の経費で、流行の忍者物の少年漫画を買って読むの」
両方とも異能力バトル物なので同じと思ったが、どうやら、忍者と陰陽師は似て非なる物らしい。でも、そうなると、問題もある。
2
郷田は正直に告白した。
「活字より漫画のほうがわかりやすいですよね。陰陽師漫画の作者は、どうも画が好きになれなかったんですよね。漫画は画が好きになれないと、読む気がしないんです」
鴨川が眉間に皴を寄せて、口端を吊り上げて説教した。
「好きとか、嫌いとか、流行じゃなく、内容のある活字の本を読みなさいよ」
鴨川の意見には同意できないので、やんわりと異を唱えた
「漫画だって、役に立ちますよ。俺、陰陽師の技を使えるようになりましたし」
鴨川が目に力を込めて、言い放った。
「嘘を吐くんじゃないよ。忍者漫画を読んでね、忍術を使えるようになった苦労しないよ。ましてや、関係ない陰陽術を使えたら、笑ってしまうよ」
郷田が嘘吐き呼ばわりされるのは苦々しく思ったので言い返した。
「わかりましたよ。目の前で見せたら信用してもらえますか。少し費用は掛かりますが」
自信のある態度で答えると、鴨川の態度が少し変った。
期待が一割、疑念が九割といった顔で、挑戦的に応じた。
「それは、まあ、実際に、見せてくれたら、信用するよ。費用が掛かる? いいよ、やれるものなら、やってみろよ」
「本当ですね」と念を押すと鴨川は「ああ、いいよ」と短く約束した。
部屋にあった甲冑から兜を外して、鴨川の前にある机に置いた。
「では、失礼して」と断ってから、部屋にあった袱紗を取ってきて兜の上に置く。
兜を前に一度、合掌してから「えい」と気勢を上げ、兜の上に置いた袱紗の上に体重を乗せて拳を振り降ろした。
角度、スピード共に最良の一撃だ。拳が兜にあたると、兜が割れた。
鴨川が呆気に取られた顔をしたところで、得意気に発言した。
「これぞ、鴨川新影流、忍法、兜割!」
鴨川が一瞬、目をパチクリした後、立ち上がって大声で怒鳴った。
「この、大馬鹿者が。人の家の兜を壊しやがって、何が陰陽道だ。ただ単に拳を振り下ろして、兜を潰しただけだろう。それにお前、忍法って口にしたよな。忍法って。陰陽師と忍者は違うって、さっき教えたばかりでしょう」
細かい結果を一々騒ぐと思ったが、丁寧に応対した。
「兜割って、よく聞く術の名前ですよね。きっと、忍術だけでもなく、陰陽道にも同じ名前の術がありますよ」
鴨川が口をパクパクとさせてから、馬鹿に物を教える口調で諭してきた。
「あのね、郷田君。兜割と呼ばれる物は、道具の名前。剣術でも、兜割と呼ぶ技はあるけど、あくまで剣術。刀を振り下ろして、兜ごと、相手を切る技。術ではないよ。忍術どころか、陰陽道とも全く関係ないの」
兜割は陰陽道どころか、似ている忍術とも違う行為だと理解した。でも、成果を出したら褒めて欲しいと思うのが人間だ。
「待ってください。刀を使わなければ割れない兜を素手で割ったら、凄いですよね」
鴨川は兜を手に、呆れた口調で言い返してきた。
「この兜はね。鉄製ではないよ。薄い和紙に漆を塗った飾り用の兜だよ。装飾用の・に・せ・も・の」
薄い和紙にしては、かなりの手応えがあった気がする。偽物でもここまでの強度があるなら、本物は割れないかも知れない。されど、一度は口にした手前、引き下がれない。
郷田は決意して申し出た。
「わかりました。では、次に本物の兜を素手で叩き割ったら、お認めください」
鴨川が情けないといわんばかりの顔をして、兜を机の上に置いた。鴨川が椅子に崩れるように座り、頭を抱えて、苛立って意見した。
「どうして、そうなるかな。兜割が陰陽道とは全く関係ないのに、材質が鉄だったら合格って、理論的におかしいでしょ」
言われてみれば、確かにそうだ。
「一理ありますね」
鴨川が顔を上げて怒りの声をぶつけた。
「一理じゃないよ。真理だよ」
鴨川はまだ怒鳴りたかったようだが、無駄と思ったのか、弱った顔で投やりな口調で愚痴った。
「ほんと、どうしてこんな人間を選んだかな。いいよ、もう。陰陽師の資料をこっちで送るから、きちんと読んで陰陽師の勉強をしてよ。給与分は働いてよね」
礼節のある武士のように答えた。
「社長の命令とあれば、是非もなし」
鴨川が苛立った顔をして、右手を水平にして首に当て、大声で念を押しした。
「最後の口調だけ、時代劇風にしても、私は騙されんよ。ちゃんとやんないと、馘首にするからね、馘首だよ。馘首!」
郷田は頭を下げて社長室から退出すようとした。
鴨川が割れた兜を叩いて「あれ、これ、本物かな?」の声が聞こえたような気がした。だが、別に、どうでもよかった。
鉄でも和紙でも、評価の対象にならないのなら、割れようが、割れなかろうが、結果は同じだ。
3
一週間後に鴨川から、陰陽道について書かれた本が五十冊ほど送られてきた。
手始めにそれなりの厚さの本を開いたが、すぐに読む行為が嫌になった。
漢字が読めない。古い本になると、見た覚えのない漢字が普通にある。読めない漢字なのに、当然の如くルビがないのだから、どうにもならない。
中を見ながら、解読できそうな本だけ集めると、十冊を切った。
こうなってくると、画や図解を多用した『サルでもわかる陰陽師入門』、『一週間でできる! 陰陽師』『これで、できないなら、陰陽師は辞めろ』みたいな本が欲しいと、本気で思った。
けれども、送られてきた中に、そんな本は入ってなかった。
読める本で努力はしてみた。だが、人類を有史以来ずっと悩ませ続けてきた「世の中、努力では解決できない問題がある」の難問が、行く手を阻んだ。
体を鍛えて解決できる問題なら、どうにかできる気がする。誰かを倒せばゴールなら、まだ救いがある。でも、いくら筋力や持久力を付けても、陰陽道の学習には、歯が立たない。
ゼロから学問を習うならまだしも、ゼロから学問を構築する行為は無理だ。
陰陽師には不向きだと、思い知った。ほとほと困ったので、勉強は横に置いて体を鍛えると、資料は塩漬けになった。
夏休みが終わりに近づき、そろそろ宿題をしないとマズイかな、と思う小学生と似たような心境になった。そんな時に鴨川に呼び出された。
そろそろ、ではなく、完全にアウトだった。
社長からの呼び出しを無視する行為は、さすがにできない。なので、社長室に向かった。
鴨川が面白くなさそうな顔で待っていた。
口に出さないが、陰陽師の勉強をしていなかった経緯を知っている雰囲気だ。
郷田は用意された座布団を横に避けた。
手を突いて、泣きを入れた。
「すいません。やっぱり、俺に陰陽道は無理みたいです」
鴨川がムスッとした顔で、呆れた口調で言葉をぶつけた。
「ちょっと、君。諦めるの、早すぎるよ。いったん、やるって口にしたら、男なら途中で投げ出さずに、やりなさいよ」
どうやら、簡単に辞めさせる気はないらしい。
でも、無理なものは無理だ。どうにか、普通の職種に変更してもらいたい。とはいえ、陰陽師をやる条件での採用なので、簡単にはいかないだろう。
簡単ではないが、可能性はゼロではないなら、挑戦しよう。うまくいけば、普通の社会人に戻れるかもしれない。
誠意を見せるようにしつつ、畏まって申し出た。
「給与を貰えるので、嬉しいです。採用してもらえて、感謝もしています。けれど、成果が上がらない仕事にお金を使わせ続ける行為は正直、辛いんです。社長に申し訳が立ちません」
真剣な表情を浮かべるように努力した。
次いで、ゆっくりと頭を下げて、真摯な口調で発言してみる。
「俺が復興させようとしている陰陽道が社長の道楽なら、迷いませんでした。ですが、御両親へ孝行の一環だというのなら、見切りつけるように進言するのが、俺は礼儀だと思います。ですから、俺を陰陽師から外してください」
鴨川は郷田の言葉を聞いて、静かに言葉を発した。
「そうかね。私の両親に対して誠意を見せたいか。なら、仕方ない」
意外とすんなり認めてくれたと思った。明日から豚カツ屋の店員なら、気が楽だ。
そう思った瞬間に、鴨川が怒鳴った。
「とでも、言うと思ったか。戯けが! 私は、色々な人間を見て来ているんだよ。騙し騙されで、業界で登って来た男だよ。お前のような若造が嘘を吐いてもね。お見通しなんだよ。つべこべ言わず、働きなさいよ。働け。馬鹿もんが」
相手は叩き上げの社長だ。考えが甘かった。完全に心の内を読まれている。
ならばと、開き直って発言した。
「基本的な陰陽道が、わからないんですよ。細かい流派による違いなんて絶対わかりません。抹茶と烏龍茶の区別すらつかないのに、茶道やれって言うようなものですよ」
鴨川がとても渋い顔をして、腕組みして発言した。
「わかったよ。こういう事態になる可能性も、考慮していたよ。もっとも、ずっと後になってから言おうと思ったんだけどね。まさか、君がここまで根性ないとは、予想外だったけどね」
鴨川が本当に面白くないといった顔で言葉を切った。眉間に皴を寄せて腕組みしてから、不承不承といった口調で提案した。
「鴨川新影流派は資料がほとんどない。だから、開祖の勝綱の血を引く君なら、現代版陰陽道として新たに作ってくれてもいいよ。継ぎ接ぎだらけでおかしな陰陽道を再現するより、ゼロから新しい陰陽道を作ったほうが、まだ、まともな物ができる」
さすがは競争激しい飲食業界を生き抜いてきた人間。中々の英断だ。現代版で好きに作っていいなら、なんとか形にできる。
陶芸の素人が「縄文土器を復元しろ」と注文されれば無理だが、「なんでもいいから、壷を作れ」と命令されれば、下手でも不恰好でも、何かしらの成果は出る。
郷田は気分も軽く確認した。
「では、もう本は読まなくてもいいんですか」
鴨川が大きく膝を叩いて、怒った口調で注文を付けた。
「調子に乗るんじゃないよ、馬鹿たれめが。送った本は、きちんと読みなさいよ。基礎は押さえての上での創造だよ。君の場合は放っておくと、新影流忍法になるからね。忍術に金は出さないよ」
郷田は正直に申告した。
「でも、俺、本が読めないんですけど」
鴨川が全く予想外といった態度で、口を尖らせて発言した。
「なんで、なんで、読めないの。本は日本語で書いてあるでしょ。まさか、勝手に洋書の陰陽道の本を買ったとか、言わないでしょうね。君は蘭学式陰陽道とか、始める気かね」
陰陽道に和式や洋式が存在するとは知らなかった。陰陽師って、てっきり日本だけのもだと思ったけど、違うかもしれない。菓子職人がパティシエと呼ばれる時代だ。陰陽師の洋式も別の呼び名であるのかもしれない。
なら、和の陰陽師より、外国風のカタカナ名称のほうが格好いい。
郷田は興味が出てきたので、お気楽に発言した。
「蘭学式。なんか、響きがいいですね。雪崩式ブレン・バスターみたいで」
鴨川が、どうしようない奴だ、といわんばかりの顔で声を張り上げて、注意してきた。
「アホな言葉をいうんじゃないよ。オランダ発祥の陰陽道なんて、あるわけないでしょう」
「お言葉ですが、明治時代にイギリスに渡った柔道家が現地で柔術を基にバリツと呼ばれた格闘技を創設。その後、ホームズが修得した話がありますよね。なら、文明開化でオランダに渡った陰陽師が考案した蘭学式陰陽道があっても、いいと思いませんか?」
鴨川が一度、下を向いてから、爪を噛むような仕草をする。こいつ、どこまで馬鹿なんだ、というような表情を浮かべて、怒りの声を上げた。
「いいわけ、ないだろう! おまえは勝手に、人の家の歴史を捏造するんじゃないよ。本当に心配になってきたよ。陰陽道の祭文なのに、エロイム・エッサイムとかで始まるじゃないだろうな」
「ロックバンドみたいで、なんかいい響きですね」
鴨川が頬を引き攣らせて、立ち上がって凄みながら発言した。
「てめえ、いい加減にしないと、ほんとに、ド(ど)頭ぁかち割るぞ」
どうやら、鴨川が洋式の陰陽道を嫌っているのは理解した。郷田は鴨川を不快にさせた発言を詫びた。
「すいません」
鴨川が弱った顔をして、視線を中で大きく動かし、心配事を口にした。
「不安だなー。本当に、不安だよ。こんなに心配になった心境はね。豚インフルエンザで契約農家の養豚場が潰れた事態と、冷夏によるキャベツの高騰が重なった時以来だよ」
お気楽な発言が、鴨川を追い込んだと理解した。非常に申し訳なくなった。
問題は、かなり切実だ。豚カツ屋に入って、豚カツとキャベツが出なかったら、郷田だって怒る。つまり、事態はそこまで深刻なのだ。ただ、頭を下げるしかなかった。
鴨川が苦渋の表情で決断をした。
「資料は漫画よりわかりやすいDVDも探すよ。あと、やりたくなかったけどね。心配だから、コンサルタントになってくれそうな人間にも、当たってみるよ。いっとくけど、コンサルタントに会う前に基本だけでも、覚えておいてよね」
4
読めない日本語の本を読む。辛く厳しい日々が始まった。コンサルタントに会う前に、陰陽道に何が必要かを調べていく。陰陽師のコンサルタントなんて聞いた覚えがない。
おそらく、怪しい人間に違いない。何も知らなければ、無知に付け込まれて、高額なゴミを売りつけられる危険性がある。
騙されたくはないし、ゴミに大金を払わせては、鴨川に申し訳がない。
鴨川は陰陽師に対して本気だし、就活地獄に落ちた郷田を拾ってくれた人間だ。郷田以外の人間の悪意からは、守られなければいけない。
三週間を掛けて、どうにか読み切った。こんなに努力したのは、センター試験以来だ。
陰陽師にそれらしい服装があるみたいだが、本格的に揃えると、郷田の給与三ヶ月分くらい軽く行く。なので、衣装は鴨川の要請があるまで着ないと決めた。
それに陰陽師の服装は合点がいかなかった。DVDや漫画において陰陽師は悪霊や妖怪と戦う職業。なのに、なぜあんな動きづらく、洗濯もしづらい平安貴族の格好なのか理解できなかった。あれなら、普段着の綿のパンツとシャツのほうが、まだ動きやすい。
他に必要なものは、呪符を書く紙と筆、紙を切る小刀くらいだった。昨今、刃物に関する規制が強くなっているので、小刀は百均で売っていた鋏に変更した。
筆は高い物だと、給与一ヶ月分以上する物もある。墨と硯が加われば、馬鹿にできない金額になる。なので、こちらも百均で筆ペン一本を買って間に合わせた。
和紙は練習用に使うので、五百枚入りを、近くの文房具屋で買ってきた。結果、和紙が一万五千円で、紙が一番高かった。他に必要なものがあれば、必要になった時に買えばいい。
あとは、呪符を覚える練習をし、祭文と呼ばれる呪文を覚えようとしたが、学習はさっぱり進まない。というか、これ、本当にお手本を見ないで書けたり、なにも見ないで流れるように唱えられたりする人間なんて、いるんだろうか。
寺の坊主だって、カンペを見ながら経を読む時代だ。陰陽師がノートを見ながら祭文を唱えてもいいだろう。
そうして、しばらくすると、鴨川から電話が入った。
「知り合いの社長が使っている霊能者がいるんだ。陰陽師にも詳しいようだから、コンサルタントとして入ってもらう。さっそく会いに行け。名前は龍禅巌先生だよ」
なんか霊能者の先生というと、胡散臭く感じる。どんな奴だと聞いても、知り合いの紹介なら、鴨川は悪くは言えないだろう。なら、聞くべき点は、一つだ。
「社長、ちなみにコンサルタント料って、おいくらですか」
鴨川が不承不承にといった具合で教えてくれた。
「君には関係ないよ。でも、また教えないと余計な言葉を口にするかもしれないから、教えるけどね。金は要らないっていわれたよ」
タダより高い物はない。絶対に詐欺だ。
この手の詐欺師は三種類いると、大学の霊感商法講座で習った。
一・実績をちらつかせて、最初から多額の金を要求してくる。
二・小さな要求を何度も出して、トータルで大金を持っていく。
三・最初はタダだといっておいて、後から大金を吹っ掛けてくる。
鴨川は三のタイプに引っかかった。これは、鴨川を守らなければいけない。
文化事業で働かない社員を一人ぐらい雇っても、損失は、たかが知れている。だが、悪徳霊感商法に嵌ったら、下手をすると会社が危ない。
別段、愛社精神はない。だだ、《カツの新影》には、従業員三百人の生活が懸かっている。悪徳霊感商法により三百人の生活が犠牲になるのは、我慢ならない。
それに、俺は《カツの新影》のロースカツ定食が好きだ。霊感商法で会社がおかしくなって、下手なコスト・カットで味が変わっては、堪らない。
《カツの新影》が美味い理由は、肉の旨味と油の旨味だ。特にロースカツは脂身が多いのに、脂身が臭くない。否、脂が香るカツだ。
独自の脂身のある豚を育てるために、豚は特殊な飼育法を使用している。絶対に、肉の質を落としたら、《カツの新影》の味が出ない。
あの、ロースカツ定食の味を守るために戦おう。
龍禅の家は街中にある《カツの新影》本社ビルと反対方向にある。郷田の家からだと、JRとバスで四十五分なので、それほど遠くない。
龍禅の家には文化事業部の人間としてスーツを着ていくべきか、迷った。文化事業部の人間ならスーツが正しいが、陰陽師として出向くなら、スーツはおかしい気がする。
文化事業部か陰陽師かで迷ったが、普段着にした。相手は霊感商法の親玉だ。ひょっとしたら、喧嘩になって用心棒みたいなのが出てくるかもしれない。動きづらいスーツでは勝てないかもしれない。
いざ、戦場へと意気込んで家を出て、龍禅の元へ向かった。
5
龍禅の家は閑静な住宅地にあった。ただ、付近は最近になって開発がされたためか、新しく似たような家が多かった。そんな、住宅街の真ん中に、他の家より少し広い敷地を持つ古い家があった。
敷地は四百坪と、周りの新しい百坪ほどの建売住宅の家よりは広い。だが、建物は六十坪くらいで、周りより少し大きいだけの古い日本風の二階建ての家屋。背の低い生垣の塀は素人が剪定したのか、でこぼこになっていた。
庭は荒れてはいないが、最低限の手入れしかされていない。金はあるのかもしれないが、有り余っているようには見えない。悪徳霊感商法で儲けた男の家だ。もっと、成金が風水を駆使して建てた、中華だか洋風だか区別がつかず近寄り難い家だと思ったので、いささか拍子抜けした。
表札を確認すると「龍禅」とあるので、家は間違いではない。簡単な木製の小さな門があって鏡が掛けてあった。門でチャイムを鳴らすが、誰も出てこなかった。
二回目を鳴らそうとすると、庭の隅で人が立ち上がった。相手は郷田と同じくらいか、少し若い年齢の小豆色の着物を着た金髪のショートカットの外国人女性だ。
外国人女性が寄ってくるので、門を潜って挨拶をした。
「こちら、龍禅巌先生のご自宅でしょうか。俺は、郷田克行といいます。《カツの新影》の鴨川社長に命じられて来ました」
女性が笑顔のまま、じっと郷田を見ている。数秒が経過した。
ひょっとして、日本語が通じないのか。
いきなり、強敵に出会った。英語で自己紹介するだけでも難しいのに、英語で龍禅先生に会いに来たって、なんていえばいいんだろう。
馬鹿みたいなのはわかるが、とりあえず笑顔を浮かべた。何か話しかけてくると思ったが、なにも言葉を口にしない。ただ相手の女性は微笑むだけ。
おかしい。普通なら男が笑顔を浮かべたまま何もいわなければ、何語でもいいから話し掛けてくるはず。それが、笑顔のまま、何もいわない。とするなら、この状況は意図してやっている。
郷田は笑顔を浮かべたまま、心の中で思った。
「これは龍禅の策だな。理解しがたい存在を置き、意を決して突っ込んできた相手の敵意を削いで、安心させる。そうしておいて、こちらが友好的に出ざるを得ない状況を作り出す。一度、友好的な態度に出れば、敵対に転ずる行動は難しい。さすがは悪徳霊能者といったところだ」
拙い英語で話し掛けて、こちらから歩み寄ったら、負け。もちろん、笑顔をやめる行為は、敗北と同義。現状は、いうなれば、逆睨めっこ状態。先に笑顔を解くか、話し掛けたほうが負け。
腕力でも、知力でもない、勝てない存在を正面に置くとは、有る意味、龍禅は戦いなれているのかもしれない。でも、こちらとて、ロースカツ定食の味のために戦いに来ている。簡単に負ける訳にはいかない。
笑顔のまま時間が経過していくと、すぐに思い知った。
面白くもなんともない状況で、笑顔を浮かべ続ける行為は、予想外に疲れる。
腕立てなら鍛えてあるので、三百でも、五百でも、簡単に行ける。だが、笑顔を作り続けるための筋肉は鍛えていない。鍛えていない筋肉を静止に使うと、疲れる。
一方、相手は五分近く経過しているのに、いっこうに疲れを見せず、微笑み続けている。ある意味、鍛えられている。着物で体のラインはわからないが、もしかすると、腹筋が割れているのかもしれない。侮り難し。
玄関の戸が開いて、新手が現れた。今度は白のワンピースに青の綿のパンツと少しラフな格好だが、こちらは典型的な黒髪の日本人だ。
細面で、眉が細く、肩まで伸びた日本人形のような女性だ。年齢は二十七か八といった見当だ。
新手の女性は笑っていなかった。というより、逆睨めっこしている場所をたまたま通りがかって、不思議に眺める通行人のようだ。
日本女性は何が起きているか理解できないように、二人を交互に見た。その後、郷田に寄ってきた。日本女性が郷田の前にやってきて、不審者を見るような目で尋ねてきた。
「どちらさまでしょうか?」
笑うのを止めるのに良いタイミングなので、便乗して笑顔を解いた。決して負けを認めたわけではない。
「鴨川社長の紹介で来ました。郷田といいます。こちらは、龍禅巌先生のご自宅でしょうか」
日本女性がなんとなく事態を理解した顔で頷いた。
「そうでしたら、私が龍禅巌です」
龍禅巌の名前から、年配の太った男性を想像していたが、違った。
疑念が伝わったのか、龍禅が顔を曇らせて発言した。
「龍禅巌は、襲名した名跡なんです。本名は龍禅加奈子といいます」
名跡がなにか、詳しくわからないが、リングネームやペンネームの類だろう。確かに漫画家でも、男の名前のようなペンネームで活動する女性の漫画家はいる。
後から出てきた日本女性が龍禅なら、ずっと笑っていた女性は何者なのだろう。
龍禅が郷田の心を読んだタイミングで紹介してきた。
「こちらは、ケリー・ハンプトンさん、訳あって、私の許で修行しているイギリスの方です」
龍禅が「ケリー」と声を掛けてケリーの肩を軽く叩いた。
ケリーが龍禅を見た。龍禅が指で耳を差した。
ケリーが何かに気付いたように、耳から詰め物を外した。ケリーが良く通った日本語で「巌さん、どうしました?」と聞いた。
巌が少し困った顔で発言した。
「お客様です。お茶の用意をお願いできますか?」
ケリーは「わかりました」と下がっていった。
龍禅はケリーがいなくなると、ちょっと困った顔をして小さな声で口にした。
「すいません、少し困った子でして」
「別に、いいですよ。俺も、社長から見れば、似たようなものですから、お気になさらず」
龍禅が顔を僅かに歪めたが、すぐに素に戻って「どうぞ、こちらへ」と案内した。