第一章 陰陽師って美味しいの
第一章 陰陽師って美味しいの
1
一人の男がゴツゴツした岩肌にしがみつき、ただひたすら、上を目指していた。
男の名は郷田克行。二十三歳。身長は百七十六センチ、体重は七十七キロ。大学でアマチュア・レスリングをしていたので、体は引き締まっている。
郷田が登っているのは、全長二十メートルの岩肌。プロのロック・クライミングの人間に言わせれば、難易度は低く、初心者でも可能と判断するだろう。
されど、登っている人間が命綱をしておらず、初クライミング。しかも、風速五メートルほどの風が吹いている、となれば、絶対に止めただろう。
郷田は汗を気合いで止めて、慎重に岩肌を登ってゆく。
登っている郷田とて、無謀な行為は理解していた。命だって惜しい。だが、やらねばならない。それがプロの格闘技団体に入れてもらう条件だった。
足場にしている岩が崩れた。郷田は体勢を崩したが、両手の力だけで体重を支える。
両手の力だけで体を支える行為は問題ない。ただ、郷田が体を支えられていても、掴んでいる岩が郷田の体重に耐えられるかは、別問題。足場が崩れた事態から推測して、見かけより岩肌は脆い。
付近には誰もいないので、助けは来ない。急いで、足場を確保しなければ危ない。かといって、焦って手が離れれば、十五メートル下に落下する。
いくら体を鍛えていて、受け身が取れるとはいっても、十五メートル下の地面に落ちれば、ほぼ確実に死ぬ。
下がよく見えない状態で、どうにか足の掛かりそうな場所を探した。足が宙を彷徨う。中々、見つからない。
「もうちょい、足を上げて、左を探れ」
誰かが囁いた気がした。声に従った。足が掛かりそうな場所があったので、どうにか窮地を脱した。
窮地を脱したが、声の主はわからなかった。なにせ、岩登りは一人でやっている。
上を見上げれば、あと五メートル。郷田は慎重に手と足を進めて、岩肌を登りきった。岩肌を登りきると、緊張が切れたせいか、強い疲労を感じた。気合いで停めていた汗も、大量に噴き出してきた。
誰かがやってくる光景が見えた。格闘技団体の選手だ。今からは、選手ではなく、先輩だ。
郷田は正座の格好で先輩に告げた。
「やりました。いわれた通り、稽古場の裏手の崖を一人で登りましたよ。これで、入門を認めてくれるのですよね」
先輩がどこか気まずそうに話を切り出した。
「郷田君、そのことだけど、御免な」
なぜ、先輩が後輩になる郷田を君づけで呼び、御免と口にしたのか、すぐに理解できなかった。
「なんですか。まだ、試練が足りないんですか。いいですよ。ここまで来たら、どこまででも付き合いますよ」
先輩が試合では絶対に見せないような気まずそうな顔で、馬鹿に丁寧な口調で発言した。
「試練とか、そういうんじゃないんだよ。さっき、社長が弁護士を連れてきて、裁判所に破産申請が受理された、って報告した」
入りたかった団体が、入る前に潰れた。格闘技ブームが下火になってきた昨今、中くらいの格闘技団体でも潰れるなんて事態は、珍しくなかった。
でも、まさか、郷田が入ろうとした団体が潰れるとは夢にも思わなかった。
「ちょっと待ってくださいよ。俺は、ここに入りたくて、やったのは崖登りだけではないですよね。富士山頂までの三往復とか、北海道一周とか、やらされましたよね。団体が潰れそうなら、なんで、もっと前に教えてくれないんですか」
先輩が視線を合わさずに、いいわけじみた言葉を続けた。
「本当に悪かったと思うよ。社長もできると思わなかったから、試練とかいって無理を口にしたんだよ。それに、ほら、債権者の目があるから、破産の話は完全にタブーだったんだ」
郷田は諦め切れずに喰い付いた。
「先輩はどこかの団体に移るんですよね。だった、移籍先に俺を紹介してくださいよ。俺、新しい場所でも認められるように努力しますから」
先輩が顔を曇らせて打ち明けた。
「俺、格闘技は辞めるよ。頚椎を悪くしてさ、試合はできないんだ。それに、農家をやっている父親が病気になった。農家を手伝いに帰ってきてくれって母親に頼まれているんだよ。子供も生まれるから、俺、実家でズッキーニ作るわ。最後にアドバイスしておく」
「お前は頑張れ」または「興味があるなら、どこどこへ行ってみろ」的なアドバイスが来ると思ったが、違った。
「夢ばかり見えている内は幸せだけどさ、歳を取れば周りも見えるわけ。周りが見えるくらいの歳になれば体も弱っているし転職の道も狭い。地道な職に就いて、俺だって、あのとき、ああしておけばー、って思うくらいが幸せだよ」
先輩はそこまで話すと、背を向けて寂しそうに去っていった。先輩の背中は、試合とは真逆で、とても小さく弱弱しく見えた。
郷田は坂道を下って道場の入口に急いだ。
道場の入口には債権者集会の日時が書かれた紙が張ってあり、中に入れなかった。選手も、もう誰も残っていなかった。
郷田の日々の努力は無駄に終ったと思えた。
2
他の団体も受けようかと思ったが、輝いていた先輩の凋落を目の当たりにすると躊躇った。
格闘技の世界は趣味に留めておいて、眺めるだけにしたほうが幸せのような気がした。
就職活動をしてみたが、完全にプロの格闘技の世界に入るつもりだったので、準備はまるでしていなかった。完全に出遅れた。
結果、不採用通知の山だけが部屋に残った。
大学卒業式まであと二週間となったところで、一本の電話が掛かってきた。
「郷田さんのお宅でしょうか。わたくし、《カツの新影》人事部の春日という者ですが、交通費と日当を支給しますので、面接を受けに来ませんか」
《カツの新影》は知っている。東日本を基盤として、六十店舗ほど展開している豚カツ屋チェーンだ。ただ、《カツの新影》は面接を受けるどころか、エントリー・シートも提出していない。
今の苦境なら渡りに船だが、どこから情報が行ったのだろうか気になった。
しかも、一次面接すら受かっていないのに、交通費支給はおかしい。交通費支給ですらおかしいのに、日当まで出す条件だから、待遇が良過ぎる。
「すいません、どこから情報が行ったんでしょうか?」
春日が「とある格闘技団体からです」とだけ短く答えた。
不憫に思った先輩が伝を頼って就職先を紹介してくれたと、勝手に早合点した。
「わかりました。すぐに伺います」
カツの新影の本社ビルに着くと、いきなり社長室に通された。社長室は入ってすぐに履物を脱ぐ場所があり、一段高くなった場所に、畳が敷かれていた。
広さは五十畳ほどだが、左が襖で仕切られているので、襖を開ければ、まだ広いのかもしれない。
正面の奥には板の間になっており、大きな黒檀の机がある。机にはパソコンが一台だけ置かれていた。
机の上の壁には、書家が書いたと思われる謎の掛け軸が飾ってあった。部屋には資料を入れる棚もあるが、どこかの匠が製作したと思われる檜の書類棚だった。
社長室には和服姿の険しい顔の老人がいた。眉間に刻まれた深い皴と、口鬚が、とてもさまになっていた。老人はカツの新影の創業者にして、現役の社長である鴨川義勝、六十八歳。
鴨川は部屋の中央で座椅子に座って待っていた。鴨川のすぐ横には刀置きがあり、日本刀があった。
離れた場所には鎧兜もある。とても、豚カツ屋チェーンの社長には見えない。日本刀の存在が気になるが、いきなり質問は失礼だ。
郷田は面接時に和室に通された時を思い出しながら、自己紹介をしようとした。
鴨川が厳しい表情をし、貫禄のこもった声で先に口を開いた。
「挨拶は、いい。君の現状は知っている。まず、ここに来て座りたまえ」
鴨川が座椅子の前にある、座布団を手で軽く指し示した。
郷田は靴を脱いで、鴨川の正面にある座布団に「失礼します」と座った。
座って頭を下げた直後に、鴨川が動く気配がした。
突如、鴨川が「キエイ」と気勢を上げて、いきなり日本刀を抜いて、振り下ろしてきた。
眼前に日本刀の鈍い光が迫ってきた。死ぬと思うと、体が咄嗟に動いた。
『真剣白刃取り』武術系の動画サイトでよく見るが、まさか演武とは無関係な場所でやるとは、思わなかった。
親戚の柔術家に教えられた経験がなければ、できなかっただろう。小さい時から、嫌で嫌で、どうしようもなかった道場通い。大学に入ってレスリングを始めた理由も柔術から離れたかったからだ。でも、まさか嫌っていた柔術に命を助けられるとは、人生はわからないものだ。
刀を目前で止めると、鴨川が「ほう」と感心したように呟いた。刀が持ち上がる気配がしたので、用心しながら力を緩めると、鴨川は刀を納めた。
鴨川が満足気に言葉を漏らした。
「加減をしたとはいえ、ワシの一撃を止めるとは、まずは見込みありかな」
大きな会社の入社試験で、いきなり社長面接もおかしいが、社長の振り下ろす日本刀の一撃を止められたら合格という入社試験は聞いた覚えがない。
郷田は心臓に手を当てた。すると、心臓が脈打っていた。
鴨川が眉を顰め、いささか残念の顔をした。懐から懐紙を取り出して、普通に話し出した。
「気の小さい男だな。これは模造刀だ。よくみろ、ほれ、この通り紙は切れ――」
鴨川が折った懐紙を日本刀の刃に当てて引いた。
懐紙は綺麗に切れた。
鴨川が目を細めて日本刀を見て首を傾げた。
「ちょっと待て」と鴨川が発言して、脇に置いてあった巾着から、眼鏡ケースを取り出した。
眼鏡を掛けてから、じっくりと鴨川は日本刀を観察し、平然と発言した。
「これ、模造刀ではないな」
膝を叩いて、思い出したように鴨川が口にした。
「先日、刃物市で買った新作だ。確かに、抜いた時に、ちょっと、重いかなーとは、思ったんだよな」
刀で頭をかち割られて死ぬところだった。
目が悪い人間で、しかも予想より重い刀の一撃なら、寸止めにするつもりで放っても、寸止めになる保証は、どこにもない。
郷田は抗議しようと思ったが、先に鴨川が何事もなかったかのように、刀を脇に置いて口を開いた。
「ときに、郷田くんは陰陽師を知っているかな」
3
いきなり、面接試験が始まった。抗議したかったが、面接中に抗議すれば、内定は貰えない。
郷田は不採用通知の山を思い出して、出かかった言葉を飲み込んだ。
何度も何度も、人間性を否定された気になる不採用通知を貰うくらいなら、真剣白刃取りできたら合格という入社試験を受けたほうが気は楽だ、といった心境になっていた。
思わず、「知っています」と即答した。
鴨川が世間話をするような軽い雰囲気で頼んできた。
「そうか、なら、話が早い。陰陽師やらんか?」
なんで豚カツ屋が『恩妙寺』なる寺の運営をやるのか、郷田には理解できなかった。
「仕事の内容は、寺の経営ですか?」
二人の間に「あれ、こいつ何をいってんだ」の空気が流れ、数秒の妙な間ができた。
先に鴨川が口を開いて、確認するような口調で聞いてきた。
「陰陽師って、寺ではないよ。あの、有名な陰陽師だよ」
ハッキリ言って『陰陽師』がなにか、まるで知らなかった。豚カツ屋の職種に陰陽師という仕事があるなんて、聞いた覚えがない。会社のホームページにもなかった気がする。
ひょっとしたら、豚カツ屋業界では、キャベツを千切りにする係か、揚げ物をする係を陰陽師と呼ぶのかもしれない。だとしたら、知らない態度は業界に対する不勉強で落とされる。
もう、不採用通知は受け取りたくなかった。
とりあえず笑顔を浮かべ、郷田はハッタリをかました。
「豚カツ屋のほうの陰陽師でしたか。すいません、実家の近くに恩妙寺って寺があったものですから、てっきりお寺のほうだと勘違いしました」
鴨川がすぐに胡散臭い者を見る顔をして尋ねてきた。
「君は、蘆屋道満って、知っているかな」
まるでわからない。だが、一度、知ったかぶりをした以上、後には引けなかった。
「知っていますよ。まだ、食べた経験ないですけど」
鴨側が普通の顔に戻って、とても優しい口調で聞いてきた。
「そうか、死ぬまでに一度、食べてみるといいよ。有名だからね。ところで、蘆屋道満について周りの評判は良いかね」
どうやら、『あしやどうまん』なる物が食べ物なのは正解らしい。
豚カツ屋が絡むのなら、お菓子だろうか。
カツの新影は、豚カツ屋では珍しく、デザートにも力を入れていると、経済誌の記事は見た。
郷田は推理した。
おそらく、蘆屋は店名か屋号。蘆屋と名が付くのだから、和菓子の店だろう。
『どうまん』と名が付くらいだから、肉饅や餡饅の仲間だ。具の『どう』が何を意味するかは、わからない。詳細は帰ってからネットで検索すればいい。
郷田は堂々と嘘を上塗りした。
「評判いいみたいですね。大学でも女子大生にも人気ですよ」
鴨川は深く突っ込まず次の質問をしてきた。
「では、安倍晴明をどう思うかね」
安倍晴明も知らなかった。されど、わかってきた事態もある。
いよいよ、就職試験らしくなってきた流れだ。いい展開だ。
『アベノ生命』なる生命保険会社は知らない。つまり、安倍といえば、日本の総理大臣の安倍普三を指すと見て間違いない。
『安倍のミクス』は安倍総理が行った一連の経済政策。なら、『安倍の声明』はおそらく、『なんとか談話』の類で、安倍総理が出した外交に関する声明文の一種だろう。
郷田は真顔で答えた。
「中国や韓国との経済関係も大事ですが、やはり日本は歴史をもっと大切にするべきだと思います。今の日本があるは、先人たちのおかげですから」
鴨川が笑った。郷田も笑った。
鴨川の顔が鬼の形相に変貌して、仁王立ちした。
途端に、さっきまでの態度が嘘のようにドスの利いた声で怒鳴った。
「てめえ、この大嘘吐き野郎が。なにもわかっちゃいないだろう。正直に言え、正直に。でないと、千切りにするぞ!」
千切りは、物のたとえだと思うが、鴨川の隣には本物の日本刀がある。かなり、激怒しているので、話の流れでは、必殺の一撃を放ってくる可能性がある。
郷田は平伏して「すいません、本当は、なにも知りませんでした」と力の限り、正直に詫びた。
4
頭を下げてからの十秒が、とても長く感じた。
鴨川が座る気配がしたので、顔を上げた。鴨川がとても不機嫌な顔で、マフィアの親分が脅すような口調で尋ねてきた。
「まあ、一度は目を瞑ろう。だが、次はないぞ。正直に答えろよ。お前、陰陽師について、どこまで知っている」
郷田は畏まって「まったく、何も、一切合財、露ほども、微塵も、知りません」と答えた。
鴨川が「なんで、こんな奴を呼んだかなー」と言いたげな、悔しさと辛さが混じった表情をした。
「面接、落ちたな」と思うと、鴨川が呆れた口調で説明し出した。
「厳密に言えば違うが。陰陽師とは簡単にいえば、呪術師だよ」
「じゅじゅちゅ?」と郷田は口にした。
鴨川がイラっとした顔で半ばキレ気味の口調で言い直した。
「違う! じゅ、じゅ、つ。赤ちゃん言葉にして、どうするんだよ。呪術だよ。呪術。魔術の一種だよ」
正直、状況がよくわからない。なんで、豚カツ屋がマジシャンを募集しているか、経緯が不明だ。ラスベガスに出展して、観客の前で豚カツを揚げながら、手品を披露するんだろうか。
油の傍でショーをするって、火事の可能性があって、とても危険な気がする。特に素人なら、大惨事になるかもしれない。
「すいません、俺、手品の経験ないんですけど」
鴨川が口を開けたまま、天を仰いだ。次いで怒りを飲み込むような表情をした。最後に頭痛で歪むような顔をしてから、向き直った。
「あのね、郷田くん。手品は関係ないの。やってもらうのは、陰陽道。陰・陽・道、これ大事だよ」
わけがわからなかったが、大事と念を押されたので「はあ」と頷いた。
鴨川は馬鹿に物を教えるような、丁寧な口調で話し出した。
「陰陽師は平安の頃からある職業でね。昔は、政治家のために、天文を読んだり、占いをしたり、厄避けの祈祷をした人たちなの、ここまでは、いいかな」
手品ではなく、本当に魔術師なのは、わかってきた。だが、なおさら、陰陽師が豚カツ屋とは関係ない気がしてきた。
魔術や霊能力について、興味がなかった。知りたいとも思わなかった。唯一の接点があるとすれば、大学入学時に学生部から霊感商法や新興宗教について注意を促されたくらいだった。
失礼とは思いつつも、首を傾げながら、率直に尋ねた
「すいません、社長。朧げに陰陽師についてわかりました。ですが、なんで、《カツの新影》で陰陽師の募集をしているんですか?」
鴨川が渋い顔をして「話せば長くなるが」と口にした。
もう、就職試験の雰囲気ではなかったので「失礼します」と立ち上がった。
とてもではないが、就職試験でもないのに、老人の長話は聞きたくなかった。
「いいの? ここ聞かないと、日当の一万円が出ないよ」と鴨川が発言したので、すぐに正座で座り直した。
一万円と言えば、バイト十時間分の金額だ。いくら話が長いといっても、十時間は話さないだろう。老人の話を聞いて一万円を貰ったほうが得だ。
鴨川が呆れた顔で「君は悪い意味で、正直な人間だね」と発言したので「恐れ入れます」と返した。
鴨川が過去を懐かしむ老人の顔で話し始めた。
「私の両親は、鴨川新影流陰陽道の陰陽師だったんだよ。でもね、私は家を継ぐのが嫌でね。十八で家を飛び出した。そうして、働いたよ。もう、我武者羅に働いた――」
欠伸が出そうなったので、噛み殺した。
鴨川が「え、もう、飽きたの? まだ、触りだよ」と注意したので、「飽きてないです」と取り繕った。
鴨川があまり長くなると聞いてもらえないと思ったのか「もう、いいよ。途中は端折るから」と不機嫌に口にした。
つい「お願いします」と正直に口にすると、鴨川は眉を吊り上げた。
「こいつは」と怒り出しそうになったので、慌てて頭をさらに一段低く下げた。
鴨川が「どうしようもない奴だと」ばかりの顔をして、ぶっきらぼうに口にした。
「私は家を出て成功したんだよ。豚カツ屋でね。でもね、今の地位を得るまで、実家には一度も連絡をしなかった」
鴨川がどこか辛そうな顔をして語った。
「成功すると、両親がどうしているか気になったよ。家を継げなくても、育ててもらった恩返しをしたいと思って調べた。そしたら、二人とも亡くなっていた。親孝行したい時には親はなしとは、よく言ったもんだよ。私には弟と妹がいたが、二人も亡くなっていた」
郷田は黙って頭を垂れた。なんとなくだが、鴨川の辛さがわかった気がした。
鴨川が苦い顔をして淡々と言葉を続けた。
「鴨川新影流陰陽道も、誰も継ぐ者がなく、絶えた。私が絶やしたようなものだよ。私の両親はね、陰陽師に誇りを持っていた。若い時は、あんな古臭い時代遅れのものと思った。だが、今なら、少しだけ、わかる気がするよ」
鴨川が郷田をじっと見て、静かに思いの丈を語った。
「私は、もう高齢だ。いつ亡くなるかわからない。だから、両親へのせめてもの孝行として、一度は絶えた鴨川新影流陰陽道を復興させて、後の世に残したいと思ったのだよ」
5
話は理解できた。共感もできた。
鴨川は事業と関係なく、陰陽師をやってくれる人間を探していた。けれども、理解し、共感したとしても、そんな霊感商法まがいの職業に就く行為は、お断りしたい。
かといって、本音を申告すれば鴨川を怒らせる。
郷田は断るために尋ねた。
「なんで、俺なんですかね。鴨川新影流陰陽道は絶えたといっても、現代に残る陰陽師はいるでしょう。そこから人を雇ったほうが、早く復興できますよ」
鴨川が即座に、強い口調で異を唱えた。
「それは、ダメだ。両親と弟が亡くなった時に、妹が陰陽師関連の物を処分したようなんじゃ。つまり、鴨川新影流陰陽道には、ほとんど資料がない。そんなところに、他の流派に染まった人間を入れれば、鴨川新影流は、元いた流派の分派になってしまう。それは惨めだ」
一度は絶えた流派の復興は、その道のプロでも困難を極める。ましてや、素人なら不可能に近い。
復興させたい鴨川は、それなりに拘りを持っているらしい。拘りがあるのなら、安請け合いする返事は失礼だ。
郷田は、はっきりと断った。
「俺にはできません。俺以外の人間を探してください」
渋い顔をしながら、鴨川がぶっきらぼうに発言した。
「郷田君。君の曾祖母の名前はなんて言うか、知っているか」
祖母の名前は知っているが、曾祖母となると、顔も名前もわからなかった。
郷田が答えられないと、鴨川が呆れた表情をしてから、不機嫌な口調で説明した。
「君の曾祖母の名はね、鴨川雪。私の祖父である鴨川勝信の妹に当る人物なんだよ。つまり、郷田君にも鴨川家の血が流れているわけだ。鴨川新影流陰陽道はね、開祖である鴨川左衛門勝綱の血を引く人間しか継いではいけない決まりがあるんだよ」
まさか、先祖が陰陽師をやっていたなんて、知らなかった。
鴨川は戸籍が残っている限り調べて、候補者を探したと見ていい。そんな中で、成人で定職に就いていない人間は郷田くらいだったのだろう。だから、怒っても呆れても、話をしたと見ていい。
鴨川が家業を継ぐのが嫌だった気持ちは理解できる。平安の昔ならまだしも、郷田だって、陰陽師なんて職業は嫌だ。
同窓会で友人に会って「郷田は今なにをやってんの?」って聞かれて「俺、陰陽師だよ」と答えたら、きっと馬鹿にされる。
一万円は惜しいが、一万円で社会人生活の出鼻を躓きたくない。
郷田は頭を下げて丁寧に断った。
「せっかくの申し出ですが、お断りさせていただきます」
鴨川は別に怒らなかった。鴨川が郷田を見据えて発言した。
「素直に言いたまえ。陰陽師が嫌なのかね」
素直にといわれたので、思わず本音で応えた。
「はい、そんな霊感商法臭い商売は嫌です」
鴨川が怒りの表情で怒鳴った。
「てめえ、ひとの親の家業を、霊感商法呼ばわりする気か」
すぐに平身低頭で謝った。日当は諦めるとしても、鴨川を怒らせたくはなかった。
まだ、就職先は決まっていないが、飲食業界に就職する将来もある。《カツの新影》の社長に悪評を立てられたら、唯でさえ狭い就職先が、もっと狭くなる。
鴨川はまだ怒り足りない雰囲気だった。だが、怒りの言葉を飲み込むようにしてから、口を開いた。
「いいよ。頭を上げて。私も、陰陽師が嫌で家を飛び出したからね。君の気持ちも多少はわかる」
郷田が顔を上げると、鴨川は聞いてきた。
「怒らないから、本当の気持ちを教えてくれ。陰陽師が嫌な理由は、世間体を気にしているから、かな?」
本心を偽らずに答えた。
「世間体もそうですが、陰陽師だと、給与とか待遇が悪そうでしょ。年金も健康保険も付かないみたいですし。やっぱり、給与と福利厚生は大事ですから。仕事は内容より、金、外聞、待遇ですよ」
郷田の言葉に、鴨川が面白くなさそうな顔をして、憮然として表情で聞いてきた。
「仕事は内容より金や待遇が大事だと言うのかね。では、聞くがね。カツの新影の社員証と給与を貰って、うちの福利厚生が適用されるなら、君は陰陽師を喜んでやるのかね」
郷田は笑顔で答えた。
「それは、もちろん。やります」
鴨川が口を開けて、何か小言を言いたそうだった。だが、鴨川は一度、横を向いて口を閉じた。次に、何か我慢するように、目を瞑った。
最後に何かを耐えるように、膝を三度ばしっと叩いてから、口を開いた。
どうにでもなれと言わんばかりに鴨川が、大声を出した。
「よし、なら、お前をうちの社員として採用するよ。配属先は文化事業部だ。仕事の内容は《カツの新影》の文化事業の一環として、鴨川新影流陰陽道を復興する。これなら、文句ないんだろう」
郷田は自然体で聞き返した。
「契約社員ですか? それとも、正社員ですか?」
鴨川が忌々しい奴めといった顔で、怒鳴るような口調で言い切った。
「新卒の正社員だよ!」
正社員の響きに、郷田は「よろしくお願いします」と笑顔で答えた。
鴨川は憎らしいといわんばかりの顔で「ほんと、君って、悪い意味で正直な人間だね」と発言した。
こうして、無職の道は回避され、郷田は豚カツ屋所属の陰陽師として社会に出た。