第九話
それでも私は翌朝、シャワーをきっちりと浴びて、待ち合わせ場所の電柱に向かった。絆創膏をたくさん貼った手と、鈍く痛む頭を抱えて。
志乃ちゃんは私を心配して、いっしょに登校しようか、と言ってくれたけれど、断った。姉に守られながら過ごす気分では、なかった。
いつもは気持ちいいと思うはずの夏の朝の風。きょうは、なにも感じない。
相変わらず、手は痛む。青あざになっているみたいだ。私の手はわりと白いほうなので、青あざは目立つ。でも包帯なんかしていったら、それこそもっと目立ってしまう。だから妥協案として、絆創膏を貼ったのだ。あざは少しはみ出てしまうけれど、仕方ない、なにもしないよりはましだ。
「おはよっ、やよちゃん」
武の、ひまわりのような笑顔。
私のために上げられた、傷ひとつない大きな手。
それを見ただけで、私は。
涙が滲みそうになるなんて、脆すぎるだろうか。
でも、そんな素振りはもちろん見せない。私は両手を後ろ手にして、いつもの通り無愛想に言ってみせる。
「おはよう。武は朝から元気だね」
「元気が取り柄だかんなー」
いつもの、なんてことないやりとり。
こんなにも安心するだなんて、思わなかった……。
私は歩き出したが、隣を見ると武がいない。立ち止まって振り返ると、武は私をじっと見て、立ち尽くしている。
「どうしたの? 行こうよ」
「やよちゃん、手」
「手?」
わかっていて、私はとぼける。手は、後ろ手にして隠したまま。
――ばれた。
ばれるの早いな、と思って、まあ、こんなに絆創膏をぺたぺた貼っていたら当然か、と思い直す。ばれてはいけないのは、怪我をしたことそのものではない。
家の、こと。
あの男の、こと。
私は、殺されることができるということ――。
それだけは、ばれてはいけない。そんな重たい事情、武の負担にしかならないだろうから。
武はいつになく真剣な面持ちで、うなずく。
「うん。手。俺に、手ぇ見せて」
「なんでもないよ」
とっさに言ってから、しまった、と思う。これでは、なにかを隠そうとしているのが見え見えではないか。
「ほんとにね、なんでもないんだ。きのう、お風呂場でちょっと転んじゃって」
あらかじめ考えておいた、嘘を言う。
電柱のそばに立つ武とのあいだには、なんでだろう、少し距離がある。
「お風呂場で?」
「うん」
「じゃあ、打撲?」
「そうそう。なんてことないけどね。ちょっと軽いあざになっちゃったくらいで」
「それならなんで、絆創膏つけてるんだよ?」
「――え?」
「湿布つければいいじゃん、ふつうに考えればさ。あと、包帯とかさ。なのに、絆創膏なんて不自然。なんかな、やよちゃんの変なこころの動きが見えちゃうっていうかさ」
言いながら武は、まっすぐに歩み寄って来た。あの男とはまったく違う、柔らかい歩きかた。
そして、私の手を、そっと取った。宝ものでも扱うかのような、繊細な手つき。
武にふれられたことなんて、いままでほとんどない。いまはそれどころじゃない、と思いつつも、私はどぎまぎしてしまう。
武の手、温かい。武の手に、私の手が、包まれている。
それに、無骨に見えるけれど、意外と柔らかいんだ。
「なんか、隠してるだろ」
「ううん?」
内心は焦っているのに、平然とそう答える自分が、少しだけ嫌だった。
武はゆっくりと首を振る。
「なあ、やよちゃん。俺にはわかる。俺にも、わかるんだよ。そんな打撲、考えたくないけど、たぶんただごとじゃない。それにやよちゃん、その傷が打撲だってこと隠そうとしてるだろ? なんで隠す必要があるんだよ? ただ風呂場で滑っただけなら、べつに、堂々としてればいいだろ?」
「武」
いつもとは違う、武の顔――。
「言いにくいこともあるよな。言えないこともあるよな。でもそんなんみんないっしょだ。みんな、こころに沼を飼ってるんだ。俺はなにがあっても、やよちゃんのこと、嫌いにならないよ。だから、話してみろって」
「……なにも、ないってば」
「嘘つきやよちゃん!」
武はそう言うと、笑う。
「脚はだいじょうぶか?」
「うん」
幸い、脚は無事だった。落ちたときには、思いきり手をついたのだ。
「走るぜ!」
「えっ、走るって、なに」
「烏川まで! ひとっ走りだ!」
「朝練は」
「さぼる!」
武はそう言うと、私の手を痛くない程度の力でぎゅっと掴みなおし、駆け出した。
「あっ、ちょっと」
咎めるように言いながら、武のあとをたしかに追いはじめた私がいた。
五月の風はいい香りだ、なんてさっきとは違うことを感じた。
私の赤いりぼんも、ひらり、と翻る――。