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第八話

 階下の玄関でドアが開く気配がして、志乃ちゃんはぴくりと身を竦ませた。だいじょうぶ、と私は言う。

「この鍵の開けかたは、お母さんだよ」

 軽快に、階段を上ってくる音がする。ビニール袋が擦れる音も。たぶんスーパーで買いものをして来たのだろう。私と志乃ちゃんはおなじリズムで、少しだけ深く息をついた。

 リビングのドアが開いて、あらわれたのはやはり母だった。

 娘の私が言うのもなんだけれど、母は狐に似ている、と思う。目もとなんか、そっくり。厚いお化粧のせいで顔が白いし、白粉をした狐みたいだ。

 小さなころに幼稚園で狐の嫁入りの昔話を知って、狐のお嫁さんなんてお母さんみたいだね、と褒めるつもりで母に言った。そうしたら、たった一瞬、たった一瞬だけれども、それこそひとを化かす狐みたいな鋭い目で睨まれたので、それ以来母にはなにも言っていないけれど。ちなみにそのあと母の目は、いつも通りの本音が読み取れない三日月形に戻った。

 志乃ちゃんを見てなにも言わず目を細める母。笑顔と言えなくもないその表情は、しかし笑顔にしては冷淡だ。そして母があらわれた途端、いきなり背すじが伸びて弱々しいところがなくなった志乃ちゃん。先に口を開いたのは、志乃ちゃんのほうだった。

「おじゃましてます」

 凛と張った声で、言う。鈴の音に似た声。

「……あらあらまあまあ」

 母はますます目を細め、口もとで微笑んでさえみせる。私はこの笑顔もどきを見るたびぞっとする。そしてこう言われたことを思い出し、戦慄するのだ。

 弥生の笑顔って、つくりものみたいだよねえ。

 音量が低く甲高い、神経質な声で母は言う。

「遊びに来たの? 志乃ちゃん。うちの弥生と、仲よしよねえ。ああ私ったらお茶も出さずに、ごめんなさい。お紅茶でいいかしら?」

 ぶぶ漬けでもいかが、だなんて言わないかどうか、私は心配で仕方がない。

「なんでもかまいません」

 視線を母のほうに合わすことすらせず、志乃ちゃんは答える。さすがに私はひやっとする、志乃ちゃん、どうしてそう刃みたいに強いの脆いの。

 母は、ぱっと見は気分を害したようすもない。キッチンの暖簾を、くぐろうとする。

 しかし暖簾に手をかける直前、母は振り向いた。

「姉妹仲がいいのは、素敵ねえ」

「……仲よきことは、美しきかな?」

 私は武から聞いた言葉を、こんなところで繰り返す。

「あら。弥生、もの知りね。そう、でも、そういうこと……でもね、もうすぐお父さんが帰ってくるわよ」

 その言葉で、私は。

 ううん、おそらく、私たちは。

 目の前にいる私の母親が、いくら嘘の笑顔で顔を固めていても、ほんとうのところは私たちに味方する気がないのだと、あらためて思い知った。

 ちょっと待っててちょうだいね、と母は言い、今度こそキッチンに引っ込んだ。

 私はひそひそ声で、言う。

「ね、恐いでしょ」

「恐い、恐い」

「あいつとは違った恐さがあるよね」

「うん、うん」

 そして私たちは、くすくすっ、と笑い合った。

 こんな緊迫した状況のはずなのに。

 意味もなくおかしいのは、どうしてなのだろう。

 そう、いつも、そうだ。

 私たちはあの男に挑む前、いつもこんなテンションなのだ。

 もしかして、戦場に出る直前の兵士というのは、こんな感じではなかったか――。

 そんなことを思ったとき、階下の鍵が乱暴に開けられる気配がした。

 私たちは笑うのを止め、身構える。

 間違いない。

 これは、あの男だ。

 階段を壊す気か、と突っ込みたくなるような重たい音が、お腹にまで響いてくるかのよう。私は口を真一文字に結ぶ、負けない、きょうこそは負けないんだから。

 志乃ちゃんを、守るため。

 あの男の理不尽を、正すため。

 なにより、私自身の正義のために。

 私は、つらぬく。

 どかん、とドアが開け放たれて、そこには図体ばかりでかいあの男が立っていた。

 もういい歳だっていうのにぼさぼさに伸ばした髪はプリン色、真っ赤でださいアロハシャツなんか着てセンスがわるいにも程がある。口を開くと覗く金歯が、私は大嫌いだ。

「あー、きょうも一日お仕事お疲れさまっと俺」

 そう言うと、私たちが座るソファをじっと見る。そして口もとは笑い、目もとは不愉快そうに濁っているという不気味な顔で、言う。

「いろいろ言いたいことはあるけどさ、とりあえず、そこどいてくんない?」

「……嫌だ」

「はあ? なんのつもり?」

「リビングにあるんだから、みんなの共有財産でしょ。公共物でしょ。先に座ったひとが、座っていていいんだよ」

「いいからどけよ」

 どすが利いた声で言われて、志乃ちゃんはぎゅっと私の手を握る。私はかたくなに、腰を上げない。

 目の前のこの男は、あー、と唸ってソファの後ろに回る。

「悲しいなあ。不愉快だなあ。きょうも一日家族のために勤労して、俺はソファにも座れないっていうのか。弥生ちゃん、わかってないなあ……」

 いきなり、視界が揺れた。

 そして、鈍い痛みを感じた。

 志乃ちゃんが、弥生、と叫んだときにはじめて、後ろから頭を思いっきり殴られたんだ、と気がついた。

「いいからどけ。殺されてえのか?」

「弥生、そこはお父さんの席よ」

 キッチンから、まるで状況を把握していないかのような母の声が飛んで来る。 いや、違う。母はほんとうはわかっているのだ、私がこの男にどんな仕打ちを受けているかを。知っていてなお、こんなにものんきに言ってみせるのだ。

 この男に、屈するわけではない。母がそう、言うんだから……。仕方なく、だ。母の顔を立ててあげるんだ。

 自分にそう言い聞かせて、私は、後頭部の痛みを感じながら憮然として立ち上がった。ドアにもたれかかって、腕を組む。志乃ちゃんも、私の隣に立つ。

「おっ、わかってくれた? さすがは俺の子、言えばわかるものだなあ」

 そう言うとこの男は、両手を伸ばしてソファに飛び込むようにして座る。

 あんたはただ、暴力にうったえただけでしょ――。

 そう言いたくなる気持ちをぐっと堪えて、私はソファの傍らに移動する。

 煙草をふかすと、この男は言った。

「でさ、なんでいるの?」

「私はきょうこそ言おうと思って」

「お前に訊いてない。お前に訊いてるの」

 私の言葉を遮って、この男は言う。鷹のような視線で射抜かれて、しかしあんなに恐がりなはずの志乃ちゃんはまっすぐこの男の顔を見返す。

「私は、逃げてるだけじゃいけないと思って」

「はあ? そんなわけわからんこと訊いてないよ。お前は離れに住むっていう約束だろう。どうして親との約束破ってここにいんのかって訊いてるわけ」

「約束なんて、あんなのお父さんが勝手に押し付けてきただけ」

「――飛鳥は元気かなあ」

 志乃ちゃんが、動きを止めたのがわかった。

 飛鳥さん。

 入院中の、志乃ちゃんのお母さん――。

「だれが入院費出してやってるんだっけなあ。もう俺は、飛鳥の入院費を出す義理なんてほんとはないはずなんだけどなあ。お前が約束破って、俺の気が変わって、飛鳥の病気が治らなくっても、お前はそれでいいんだな。そうかそうか、よくわかった」

 志乃ちゃんは青ざめ、うつむく。

 私は、腸が煮えくり返る思いだった。

 こいつは、こうやっていつも。

 志乃ちゃんを、脅していたというのか。

 うつむいたまま、志乃ちゃんは拳をぎゅっと握る。そこには諦めという感情が滲んでいるようで、嫌だった。

「そんなの当たり前でしょ」

 私は、身を乗り出して叫んでいた。

「志乃ちゃんのお母さんなんだから。夫だったんだから。入院費を出すなんて、義理っていうか義務でしょ」

「そんなわけないだろ」

 煙草を灰皿に押し付けて消し、こいつはぬけぬけと言ってみせる。

「言ってわかるかなあ。あのね、俺は飛鳥と離婚したの。離婚。だからもう、家族じゃないわけね。で、そのときべつに、養育費とか慰謝料は請求されなかったわけね。ほら、あいつ、ちょっと鈍いところがあるからさ。だから飛鳥の入院費を出してやってるのは、あくまで俺の善意なわけね。俺って優しいなあ」

「違う、そんなの、違う」

「違くない。それがおとなってもんなんだよ」

「そんな言いわけに騙されない。だいたいいつもそうじゃん。あんたは、いつもそうじゃん。意味わかんない言いわけばっかりして、私たちをまともな人間だって見てないんだから」

「そりゃ、そうだろう。お前らまだ子どもだろう。子どもっていうのは、人間になる前の存在だからな。人間未満だ」

「そんなわけない」

「そんなわけあるんだよ」

「いい、私たちにはね、ちゃんと感情や考えってものがあるの。人間未満だなんて言われて、黙っていられるわけがないんだよ。志乃ちゃんのことだって、そう考えるから、あんなことできるんでしょ。それに私を殴ったりとかするのだって、そうだよね」

「吠えてるなあ。だれに似たんだか」

 すくなくともあんたにだけは似たくない、と思いながら、私は叫ぶ。

「ねえ、知ってる? 親は子どもを幸福にする義務があるんだ!」

 すると、この男は。

 私の父親であるらしい、この男は。

 樹海のように暗い目をして、私を睨みつけた。

「んなもん、ねえよ」

「……ある! すべての子どもは幸福であるべきで」

「うるせえな」

 この男はのっそりと立ち上がり、私のほうにゆっくりと歩いて来る。

 その迫力に、私は、思わず息を呑む。

「そんなの、どこの偽善者の戯れ言か知らないけど、ほんとに弥生ちゃんわかってないなあ。教えてやるよ。親は、って言うかおとなはべつに子どもを幸福にする義務なんかないの。だっておとなも子どもも人間だもん。幸福になりたいなら、お前ら勝手に幸福になってりゃいいの。そうだろ、なあ?」

 違う、と言おうとした。

 しかし言う前に、父の手が私の胸元をがっちりと捕らえた。

 すごく、強い力だ。苦しい……。

「弥生!」

 志乃ちゃんが、私の名を呼ぶ。

「ほら、なんか反論してみろよ。ふだんの威勢のよさはどうした? それとも、俺の言うことが正しすぎて反論できねえのか?」

 正しいわけ、ない。あんたが私の首を絞めているから、苦しくって、恐くって、なにも言えないってだけだ――。

 ずるい。

 おとなは、ずるい。

 そのうえ、汚い。

 醜い――。

「……ふん」

 つまらなそうに鼻を鳴らすと、この最低な男はぱっと手を離した。その勢いで私はよろけるが、どうにか体勢を立て直す。自分の呼吸が荒いのが、また、悔しかった。

「俺の言ってること、わかってくれた?」

 私は黙って、私の前に立ちはだかるこの男を睨みつける。

「わかったら、お前らふたりで離れで飯でも食ってれば?」

「……嫌だ。お父さんは、おかしい。めちゃくちゃだよ。こんなに私を苦しめといて、そんな言いぶん、許されるわけないよ!」

 するとこの男は、なにがおかしいのか、ひっそりと嗤った。

「こんなに私を苦しめといて、ね。なるほどね、やっぱりそれが本音なんだな」

「お父さんなんか」

 私は、叫ぶ。

「お父さんなんか、自分が世界の中心で、どうしようもない子どもじゃない!」

 すると、この男の――私の父親であるこの男の、顔は。

 ぐにゃり、と歪んだ。

 酸素を求めてもがくような顔。

 私は、たじろぐ。どうして、そんな顔するの。あんたがぜんぶ、わるいっていうのに。

 しかし直後その表情は消え、この男はにやにやとした笑いを浮かべた。わざととらしいその顔に、吐き気が、しそう。

「言ったな」

 そう聞こえたかと思うと――私は、胸にすさまじい圧力を感じた。

 ぐいぐいと、自分の身体が押されてゆくのがわかる。

「……なに、する、の」

 すぐ目の前にある、この顔は。

 もはや、無表情だった。

 ただ、目の前の仕事を片付けようとしているかのような、そんな淡白な顔をしていた。

 私は廊下に押し出される。めいっぱい抵抗するが、脚は転ばないように後ろへ後ろへと動くのが精一杯だ。

「なにする、の」

 少しははっきり言えた、と思った瞬間――。

 ふわり、と重力が消えた。

 天井が目の前にある。

 虚ろなひとみがふたつ、私を冷酷に見下ろしている。

「……え?」

 ――落とされ、た?

 私の手は私の意思と関係なく動き、とっさに頭をかばう。

 どしん、と重たい音がして、私は階段の下に落ちた。

 頭をかばった手が、痛い、痛い、ほんとうに痛い。ずきずきと、血の巡りに合わせて痛む。捻ったかも、しれない。もしかしたら、骨折なんか、しているかもしれない。

 いままで多くの暴力を受けていた私でも、これは、はじめて経験するたぐいの、いのちが叫ぶたぐいの痛みだった。

 私は、なにも言えなかった。

 呆然と、していた。

 もし、いまの衝撃を、頭に受けていたら――。

 怪我だけじゃ、済まなかったかもしれない。

 あいつは。

 もしかしたら。

 私が、死んでもいいなんて思って――。

「頭冷やせ!」

 頭の上から声が降って来たけれど、私は、それに返すどころじゃなかった。

 嫌な汗が、滲み出る。

 ああ、そうか。

 私はふと気がついた。

 あいつは、私を殺すことだってできるんだ。

 社会的にも、もっともっと、生々しく原始的な意味でも。

「弥生!」

 志乃ちゃんが、ばたばたと騒々しく階段を下りてくる。そして私の手を握る。

「弥生、弥生、だいじょうぶ? 痛い? 怪我したでしょう、手当てしなきゃ、歩ける?」

「……志乃ちゃん」

 私は、床の木目をぼんやり見つめて、言った。

「私って、殺されることができるんだね」

 それは、私がいま感じていることの、すべてだった。


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