第二十話
俺は破滅的に弥生が好きだ。
口のなかでその台詞を転がしてみて、よし、とする。
ちらりと振り向き、弥生が背すじよく帰宅しているのを見て、安心して、俺は右ポケットをまさぐりイヤホンを耳に突っ込もうとする。
その、ときだった。
左ポケットに入れているスマートフォンが、脅えているみたいに震える。震え続ける。この震えかたは、着信だ。
舌打ちしたくなる。いまから音楽聴くってときに、邪魔すんなよな。
スマートフォンを取り出し、表示されている名前に、驚愕する。
兄――。
躊躇ったが、あいつが電話を掛けてくるなんてもしかしたら急用かもしれない。そうだ、あいつは、急用以外に電話をつかわないやつだから――。
緑色の通話ボタンを、タップする。
「……もしもし?」
「僕たちの母さんは死ぬかもしれません」
思わず、立ち止まる。ざあっ、と雑音が入る。
「は?」
「聞こえませんでしたか? 繰り返します。僕たちの母さんは」
「聞こえてるよ! どういう意味だってことだよ!」
「いましがた、母さんを椅子で殴りました。意識がないのです」
「……はっ」
笑いにも似た声が、自分の口から漏れたことに気がついた。
「僕はどうしたらいいのかわかりません。犯罪者になるのは僕の人生において回避したいところです。武」
ロボットのような声で、兄は言う。
「お前も、僕の弟でしょう。将来有望な僕のことを想って、罪を被ってくれませんか」
「ふざけんじゃねえよ……いま、母さんはどうしてるんだよ」
「僕は罪を被ってくれないかと訊いています」
「いいから答えろ、母さんはいま、どうしてる!」
「……蹲ったまま立ち上がりません」
「いいか! これ以上、母さんに手ぇ出すなよ。ぜったいに、出すなよ。もし出したら」
俺は、めいっぱいの力を込めて言う。
「殺す」
声が震えていなければいい、と思った。
電話を切る。
つーつー、という無慈悲な音が鳴る携帯電話をゆっくりと耳から離して、俺は、自分が立ち止まってることにはじめて気がついた。
「母さん……」
こんなの、格好わるくって、かなわない。
けれど。
母さんの、苦労を想うと。
あんな屑に苦しめられている、母さんのことを想うと――。
一生懸命な、母さん。
小柄で体力がないはずなのに、俺たちのために働いて、俺たちを育ててくれた。
なのに。
それなのに、あの屑は――。
俺は、一歩踏み出す。
ゆっくりゆっくりと、歩き出す。
そして、やがて駆け足になり――。
なぜだろう、風を切りながら、考えるのは弥生のことだ。
きっと、弥生は俺とおなじだからだ。
踏みにじられ、逃げたくって、でも戦うことを選んでいる――。
もし。
俺が、兄貴を殺したら。
俺はそのついでに、弥生の親父も殺してやろうと思った。




