第十七話
「怪しいですなー」
国語と数学のあいだの休み時間、ざわつく教室のなか、景子ははるばる私の席までやって来てそう言った。
「なにが?」
「弥生ー、さてはさては……ああっ、言いにくい!」
「だから、なにが」
「弥生先輩! 相変わらずクールビューティですね!」
「……怒るよ、景子?」
私はそう言いながらも、楽しくってついつい笑ってしまう自分を感じていた。景子もおなじなのだろう、こわーい、とか言いながらも、にこにこと笑っている。
「もう、冗談が通じないんだからー。弥生さ」
景子は、耳もとでささやく。
「もしかしてのもしかして、中野先輩と喧嘩した?」
「なんでっ」
思いのほか大きな声が出てしまって、近くの席でカードゲームをやっていたらしい男子たちがびくっとしてこちらを見る。いけないいけない、と思いながら、今度は声をひそめた。
「なんで、私と武が、喧嘩してるってことになってるの」
「うんにゃ? みんな言ってるよ?」
「みんなって、だれ」
志乃ちゃんと佐藤くん、だとは思えなかった。あのひとたちは、興味本位の噂話とか、そういうのとは無縁なひとたちだと思うから。
「むっちゃんとかー、陸先輩とかー」
「あいつら、締める」
「弥生先輩まじ恐いっすー。でもあたしも思うんだよね。なんか、雰囲気違くね?って」
「雰囲気?」
「今朝のふたりは恐かったぞよ」
ひやっ、とした。
景子やむっちゃんや陸先輩や。そういった関係のないひとたちが感づくくらいには、私たちは、険悪だったというのか。
たしかに今朝の朝練では、武とはろくに話さなかった。ふだんのように四人で過ごしてはいたけれど、私は志乃ちゃんと、武は佐藤くんと喋ってばかりだった。
武はときどき、私と話したそうな視線をちらちらと送ってきた。ふだんはそういった意思を拾う私だけれど、今朝は、今朝ばっかりはすべて無視したのだ。
だから、感づかれたのかもしれなかった。
でも私は、すっとぼける。
「……そう?」
「喧嘩かい?」
「うん、まあ、くだらないこと」
くだらない、こと。
自分で言っておいて、なんだか自己嫌悪に陥りそうになった。
あんなの、くだらないわけないじゃないか――。
「ふうん。彼氏もちは大変だねえ」
「ん、まあね」
「彼氏もちって言われて謙遜とかしない、そんな弥生があたしは好き!」
「そっか」
「まあ、なんかあったらほんと言いなよ? あたしは弥生の味方だかんね」
「ありがと」
「でさー、弥生、聴いてよー」
景子はしゃがみ込んで、机の上に両手を広げてぐでっとする。
「もうさー、まじで親がうざいぞよ」
「どしたの」
「っていうかさあ、弟がわるいんだよ! 私のアイス食いやがって小学生だからって大目に見てもらえると思えたら大間違いだぞ。そこらへんをさー、親はちゃんと教育? してほしいっつーか、そんな感じなんだけどさ、親は弟にめちゃ甘」
「景子の弟かわいいもんね」
「えー、小憎ったらしいよ」
「私は弟とか妹とかいないからさ」
「弥生には志乃先輩がいんじゃん! でさ、でさ、親がほんとにうざいのね。弟だけじゃないんだよ。部活があっても六時には帰って来なさいーとかさ、無理じゃない? こっちにも付き合いってもんがあるっつーのっていう」
「そっか。景子が部活にいないと残念」
「でしょーっ、でしょー? 私、子どもができたらぜったい自由にしてあげるわ! 縛り付けたりとかかわいそうだし、人権無視だよね! はあっ、ぶちまけたらちょっとすっきりしたぞー」
私はちょっと、もやもやした。
景子の家は、きっと平和なのだろう。冷蔵庫には子どもたちが勝手に食べていいアイスクリームが常備されていて、両親は景子のことを心配して門限なんか定めるのだろう。
私の家は、違うから。
圧倒的に、違うから。
でもこの天真爛漫な友人に、そこまで言うわけにはいかない。景子が少しでもすっきりしたならば、それでいいじゃないか、と自分に言い聞かせた。
「っていうか」
「なに?」
「んー、怒らないでよ?」
「うん」
「中野先輩と結婚とかしたら、めっちゃ大変そうだね」
景子のその言葉の真意は、はかりかねたけれど。
私は、小さくうなずく。
「……うん。そうだね」
そこでチャイムが鳴って、私たちの楽しいお喋りは、いったん中断されたのだった。