第十六話
翌日の晴れた日曜日は、志乃ちゃんと駅前に出かけた。
おなじ敷地に住んでいる、そのはずなのだけれど、私と志乃ちゃんはいつものごとくなんとなく、駅前のだるま壁画の前で待ち合わせた。
待ち合わせは、午前十時。私のほうが先に到着したから、ガムを噛んで待っていると、志乃ちゃんが来た。小走りにあらわれて、弥生、と小さく手を振るところなんか、ほんとうに無邪気で私は好きだ。
志乃ちゃんと並んで、駅ビルに向けて歩き出す。
「ごめん、弥生。待った?」
「ううん。五分くらい」
志乃ちゃんの私服は、かわいい。ふわふわとしたチュールの白いワンピース、甘めなところが志乃ちゃんにぴったり。
いっぽうで、私は。
「弥生は相変わらず、ボーイッシュな格好だね」
私はデニムのショートパンツに、白のTシャツを着ている。さっぱりとしていて、夏のお気に入りの格好だ。
「志乃ちゃん、褒めてる? それ」
「褒めてるよ」
くすくすと、笑いあう。
まるで世界でいちばん平凡で幸福な、姉妹であるかのように――。
あの男のことや、異母きょうだいだってことや、やっぱりいまも私の髪にくっついている真新しいりぼんのことなんて、まるで、すっかり忘れてしまったかのように――。
つい数年前に改築された、新品の駅構内のなかを歩いているときに、志乃ちゃんは私の腕を取り、にこっ、と笑った。
「楽しいね」
ああ、ほんとうにこの姉はかわいいなあ、と思う、守ってあげたくなる姉、だ。
志乃ちゃんは、楽しそうに言う。
「高崎駅だ」
「うん」
「早く、群馬なんて出たいね。東京はひとがいっぱいいるけれど、きらきらしてて、とてもきれいだよ」
「……そっか」
私はとくに、東京に行きたいとは思わない。
家を出たいとは、強く思うけれども――。なんで、だろう。
でも、そのことは志乃ちゃんに言わなかった。志乃ちゃんは、私も東京に出て行くものだと思い込んでいるみたいだから。自分のあとを追って私が行くものと、信じて疑っていないみたいだから――。
私はきっと、東京や群馬やうんぬんよりも。
武しだい、なのだ。
駅ビルに入っているたくさんのお店で服を見て回り、気に入った服を私は一着、志乃ちゃんは四着も買った。志乃ちゃんは、きゃっきゃとはしゃいでいた。
気がついたらお昼どきになっていたので、私たちは、駅ビルの二階にある喫茶店に入った。私も志乃ちゃんもアイスコーヒーを頼み、ついでに小さなボックスのサンドイッチを買って、ふたりで分けることにした。
駅前の賑わった道を見下ろせる、窓ぎわのソファの席。大きな荷物をふたりで置いて、ふう、と息をつく。
「たくさん買ったね」
「志乃ちゃん買い過ぎじゃない?」
「ふだん、おこづかいなんてつかわないもん」
「デートのときは、佐藤くんが出してくれるの?」
「ううん、佐藤先輩、そういうところはちゃんとしてるから。養ってくれてる伯母さんのお金でおごるのは、申しわけないけどできないって言うの。でも、私もそれが正しいと思うから。でも、その代わり、自分が稼げるようになったらおごってくれるって」
「いくらも?」
志乃ちゃんは、お寿司のいくらが大好きなのだ。
「そう。いくらなら、いくらでも!」
「……志乃ちゃん、ちょっと寒い」
「そう? 冷房、効きすぎてるのかもね」
「そういうことじゃなくて!」
「わかってるよ」
私たちはこうやって、くだらないことをいつまでだって話していられる。
話の本質なんか核心なんかなくったって、いつまでも、いつまでも……。
サンドイッチをつまみ終わり、志乃ちゃんはコーヒーをストローで飲んでから、言った。
「それで、弥生、どうしたの?」
「なにが?」
「なにかあったから、私を誘ったんでしょう」
「なにかなくっても、誘うよ」
「でも、今回はなにかあった」
「そう思う?」
「思う。姉だもん」
志乃ちゃんの微笑みは、なにもかもを受け容れるかのようで。
この姉を守ってあげたいとだけ考えていた先ほどの自分が、少しだけ、恥ずかしくなった。
志乃ちゃんは、きっと、わかっているんだ。
私が思っている以上に――。
決心して、まっすぐに志乃ちゃんを見つめる。
「……志乃ちゃん、気づいた?」
「りぼんのこと?」
「気づいてたんだ」
「気づくよ。弥生のアイデンティティだもん」
「そっか」
「どうして変えたの、って訊いたほうがいい?」
私はふと、思った。
言って、しまおうか。
だれかにぜんぶ話してしまいたい、そんな気持ちがないわけではない。志乃ちゃんという身近なひとに言えたならば、なおさら楽になるだろう。
あの約束は、武とふたりきりで背負うには、きっと、重たすぎる――。
しかし、私はじっと考えたすえ。
こう答えた。
「ううん」
「そう?」
「うん。平気。でも」
「でも?」
「ひとつだけ、訊きたいんだ」
私は、髪に結んだりぼんをしっかりと意識しながら、言う。
「秘密って、あるかな?」
志乃ちゃんは、ふっと表情を変えた。笑顔であるはずなのに、ずいぶんと切ない表情だと、思った。
そして志乃ちゃんは、言う。
「そんなの、あるに決まってる」
そっか、と私は思った。
それなら、たぶん。
いまのままでも、いいのかなって――。
そのあとは、武や佐藤くんの話、部活の話、家の話なんかで盛り上がり、気がついたら、夕方になっていた。
りぼんの話は、あれきりだった。
この日、武とは、連絡を取らなかった。