第十四話
私は、そっと目を開ける。
そして、小さく悲鳴を上げてしまった。
「……どうした?」
「だれか、いる」
十歩ぶんくらい離れた屋上の入り口に、男のひとが立っている――。
武は、静かに私の身体を離した。
そして驚いたようすもなく立ち上がり、しかしいつもよりずっと温度も湿度も低い声で、その人影に向かって言った。
「なに盗み聴きしてんだよ、兄貴」
そう、そこに立っていたのは。
武のお兄さん、だったのだ。
「武は僕の望遠鏡を持って行ったでしょう」
開口一番、武のお兄さんはそう言った。
武よりも少し背が低く、武とは対照的に吊り目だ。でもそれ以外の顔立ち、すっと通った鼻筋とか薄い唇とか、そういうところはよく似ていると思った。このひとたちは、たしかに、きょうだいなのだ。私と志乃ちゃんが、たしかにきょうだいであるのとおなじように――。
勉強ができるっていうから、ぼんやりと眼鏡をかけたすがたを想像していたけれど、このひとは、眼鏡をかけてはいなかった。小学生のころ、こういう感じの気弱そうな子がクラスメイトにいたな、と思った。この印象から私はとても、暴力、ということを考えられなかった。
武は言う。
「望遠鏡、俺のでもあるだろ」
「いいえ。それは僕に所有権があります」
「俺のもんでもある。ちょっとつかってなにがわるいんだよ」
「無断で他人の所有物を持ち出しては、犯罪にあたる可能性もありますよ」
コンクリートの床にぺたりと座ったままの私は、このきょうだいの緊迫した会話を、ただ黙って聴いていることしかできない。
武のお兄さんは、こちらに向かって歩いてくる。のそのそと、重たい歩み。ふだん外に出る習慣がないひとの歩きかたなのかもしれなかった。
そして、お兄さんは私の目の前で立ち止まった。無表情なふたつのひとみが、私を見下ろしている。そのひとみに温かみや親しみといった人間らしい感情は感じられず、なんて言うのか、科学者が実験対象を見つめるときってこんな感じなのかなと思った。
武が、勢いよく私とお兄さんのあいだに割って入った。私をかばうようにして、立ちはだかる。
「なんだよ。やよちゃんに、いったいなんの用だよ」
お兄さんは質問には答えず、その薄い唇を開いた。
「きみ、お名前は」
大学教授みたいだ、と思った。大学教授なんていままでの人生で会ったことないけれど、でも。
「……神崎弥生」
「そうですか。僕の名前は中野勝といいます。名前からして、ある程度ご推察が可能であるとは思いますが、武の兄です」
「うん」
「神崎さんは、僕に興味がおありなのではないですか? 愚弟が、いろいろと申したことと推察されます」
「まどろっこしいな。なんなんだよ。なんでいまさら望遠鏡がいるんだよ。ずっとつかってなかっただろ」
武が苛々しているなんて、これは、ほんとうに珍しいことだと思った。
でも、そう思いながらも同時に私は。
たしかに、目の前のこのひとに興味があった。
それは、武のお兄さんだから、ということももちろんあるけれど。
武が、屑と言い切る人間。
あの男と、同類であるはずの人間。
そんな人間は、いったいどれだけ最低であるかということに、暗い森のなかに入り込んでいくかのような興味が湧いた。
だから私は、座り込んだまま言ってみた。勝くん、に向かって――。
「星が好きなの?」
「話題が変わりましたね」
「うん。望遠鏡、返してっていうから。大事にしてたのかなって」
武は、私を見て、唖然としていた。まさかここで、私が勝くんと話しはじめるとは夢にも思っていなかったのだろう。
いっぽうで勝くんは面食らったようすもなく、淡々と答える。
「僕はかつて、星が好きでした。しかしいまは興味の対象ではありません」
「ふうん。好きじゃなくなっちゃった、ってこと?」
「そう解釈していただいてかまいません」
話しながら私は、ああ、このひとはなんて暗い顔をしているのだろう、と思った。ひまわりである武とは、大違いだ。
「なんで、嫌いになっちゃったの?」
「星が好きだなんて凡庸です」
「そっか」
少しのあいだ流れる、沈黙。
この沈黙にはすくなくとも天使は降りてこない、と思った。
天使というのは、もっと、愛しい時間に降りてくるもので――。
「……なんだよ。兄貴。なんなんだよ。今度はなにが目的だ?」
「またしても、武はひとを悪者みたいに」
「悪者だろ」
「善悪の絶対的な定義など、この世界に存在しうるものでしょうか」
「そういう屁理屈、いいから」
「用件を申せ、と武は言うわけですね」
「そう」
「望遠鏡を返してください」
「嫌だ」
「それは僕の望遠鏡です」
「嫌だ」
「それは、僕の望遠鏡です」
「嫌だってんだろ」
「あまり僕に手間をかけさせないでください。もう一度だけ申しますよ。望遠鏡を、返してください」
「俺はやよちゃんと星を見てんだよ!」
武はついに――感情を、爆発させた。
「なんなんだよ! 邪魔すんなよ! だいたいな、望遠鏡だって、俺と兄貴とふたりで買ってもらったものだろ! 俺のでも、あるだろ! なのにそれを返せって、ろくにつかってもいなかったくせに、いまさらなんなんだよ!」
「返さなければ」
勝くんはそこではじめて、にやり、と笑った。
嫌な、笑み――。
「母さんがまた、苦しむことになるかもしれませんね。直接的に表現することはあえて控えますが」
「――!」
武は、そこで。
悔しそうに、拳を握った。
そして、長いあいだ考え込んで。
吸った息を吐くかのように、言う。
「……いいよ、もってけよ」
「次はもっと早く理解してほしいものですね」
勝くんはそう言うと、望遠鏡を手にして、背中を向けた。
もう私に対してはひとかけらの興味もないようだ、とその背中を見てなんとなく思った。でも、だとしたら先ほど名前を訊かれたのはいったいなんだったんだろう、とも思うけれど。
勝くんの後ろすがたが、消える。
望遠鏡も、消える――。
武は、そちらに視線を据えたまま。
「……死ねよ」
とんでもなく低い声で、吐き捨てた。
「あいつ、たぶん、きょうも母さん殴ってる。じゃなきゃ俺とやよちゃんが屋上にいることを、知らないはずだ。母さんにしか言ってないから。言わせたんだ。無理やり。あいつ」
武は今度は、泣きそうな声になる。
「ほんとに、死ね……」
私は、そんな武の足元で、黙って座っていた。
なんて声をかけていいのか、わからなかったんだ――。