第十三話
夜、武の住む十階建てのマンションの屋上。屋上は高い柵に囲まれていて、それでも意外と星は見えるんだな、と思った。ほかにひとはいなくって、高崎の静かな夜が広がっている。オレンジジュースのパックをコンクリートの上に置いて、ピンボールのピンみたいだ、なんてふたりで笑った。
夏の星空はどうしてこうロマンチックなのか、と柄にもないことを思う。
壮大な夏の大三角形、きれいなかたちのさそり座、そして、哀れだけれどきっときょうは幸せな、織姫と彦星――。
流れ星なんか見えないか、って期待してみるけれど、でもほんとうはどちらでもいいのかもしれない。流れ星が、見えようが見えまいが。
いま、隣に武がいて。
私たちは、ふたりで星を見ている。
それだけで、充ち足りていると思った。
武は先ほどから望遠鏡で空を見上げては、見つけた星の名前を私に教えてくれる。アンタレスという星なんて、私は知らなかった。
私は、星の名前を聞くのも楽しかったけれど、私のために一生懸命になっている武のそばにいられることが、嬉しかった。
「よく知ってるね」
「まあなー。兄貴が、詳しかったからな。よく星の名前を教えてもらった」
武は望遠鏡を覗き込みながら、なんともないことのように言った。私ははっとする、このあいだ秘密を交換した日から三日、武がお兄さんの話をするのは、あの日以来だったからだ。
「この望遠鏡も、小さいころ、俺と兄貴でねだったんだよ。クリスマスだったかな。ふたりでさ、いい子にしてるからふたりにプレゼントして、なんてな。朝起きて望遠鏡があったときは、はしゃいだもんだよ」
武は、望遠鏡をくるりと回す。
「星を見るの、こんなにも楽しいのになー」
そう言うと武は、しかし望遠鏡から顔を離した。
私たちは、隣どうしで座っている。
「やよちゃん、退屈じゃなかった?」
「ちっとも」
「そっか、よかった。俺、星が好きだからさ。ついつい夢中になっちゃうんよなー。でも、よかった。俺の好きなこと、やよちゃんにも知ってもらいたかった」
「……ふうん。なんか、意外」
武はいままで、進んで自分のことを話したがらないひとだった。そのことに私は、一抹の不安をおぼえていたりもしたのだ。
「俺、星って前からけっこう好きだぜ?」
「っていうか、武が自分のこと話すのが」
「あー、そっちか。だろ? 俺、変わろうと思ってさ。やよちゃんの前、限定で」
「変わるの?」
「ああ」
珍しく簡潔に言い切ると、武は、座ったまま空を見上げた。私も、つられて見上げる。
満天の、星空。
「きょうはな、俺、やよちゃんにプレゼントがあるんだ。たなばた記念、ってことでさ」
私は、うなずく。うなずく以外に、照れ隠しの方法が見当たらなかった。
武は片手でポケットをごそごそ探ると、ラッピング用紙できれいに包装された箱を取り出した。アクセサリーを入れるにしては、少しだけ大きめなサイズ。だからたぶん、アクセサリーではない。私は冷たい金属のアクセサリーで縛られるのが好きじゃないから、武はさすが、わかってると思った。
武は、うやうやしくその箱を差し出す。おずおずと、受け取る。
「開けてみて」
ラッピング用紙を破かないように、ていねいにその包みを開けた。
そのなかに、あったのは。
りぼん、だった。
真っ赤な、りぼん――私がいま髪につけている色あせたりぼんに比べて、とても色鮮やかだった。星空のもとでも、てらてらと光るくらいに。
そして、このりぼんは、ずいぶんと長さがあった。髪につけるならば、少し短く切る必要があるだろう。
私は、りぼんをそっと指先で撫でて、そのつるりとした感覚を愉しむ。
「これって、りぼんだよね?」
「そう、りぼん」
「私、もうりぼんもってるけど」
その言葉は、けっして非難めいては響かなかった。むしろ、自分でも意外なくらいに弾んでいた。
武からもらった、りぼん。
それはきっと、とてもとくべつなもので――。
武は、私の言葉には笑っただけだった。その代わりとでもいうように、言った。
「メッセージも、あるんだぜ」
たしかに、りぼんの下には赤いメッセージカードがある。
「凝ってるじゃん。武のくせに」
「武のくせに、ってなんだよー。俺はもとから、こうだぜ?」
「そうだね」
そう言いながら、はやる気持ちに任せて、メッセージカードを開いた。
むず痒くなるような、でも幸福な、愛の言葉なんか書いているのかなあなんて思っていたから――。
私は、メッセージを読みはじめる。
最初は、ああ、予想通りに充ち足りていると思って。
でも、最後の一文で――。
固まった。
そこに、書いてあった文字は。
たしかに武の、男の子にしては整った、縦長の字なのだけれど――。
文章、は。
こうだった。
――やよちゃん。いつもありがとう。こんな俺に付き合ってくれて嬉しい。好きだよ。やよちゃんは俺のこと好き? これからもよろしく! 追伸 やよちゃんの親父さん早めに殺しちゃおうぜ。
追伸。
殺す――って。
いったい。
どういうこと。
「……武、ねえ、これって」
武はいまもにこにことしているだけで、なにも言わない。こんな状況に似つかわしくない、ひまわりのようなその笑顔――。
私も、無理に明るく言う。
「冗談? それにしては、性質がわるいね」
「俺はいつだって本気だぜ?」
「じゃあ、なに、殺すっていうのが、本気なの? まさかね」
「本気だよ」
武は、紙カップのオレンジジュースをこくりと飲んだ。
飲み終えたその顔は、もはや、笑っていなかった。
「本気だ」
「……なんで?」
「だって、やよちゃんの親父さんも、屑だろ? あのね、やよちゃん。俺は思うんだけどさ、この世はたぶん、人間と屑に分けられてさ。で、屑っていうのは人間の皮を被ってるけど、ほんとはただのごみなんだから、処分しなきゃいけないはずなんだ」
「処分、って」
武の口から吐き出される激しい言葉に、私はただ、たじろいでいた。
「うん。でも、だれも勇気がないから屑を処分できない。生ごみみたいにな、ごみ収集車があるわけじゃないから。だからこの世はどんどんわるくなる。やよちゃんみたいな、いい子が傷つく」
「でも」
「やよちゃんがされてることって、それ虐待だぜ? まともな人間は、他人を殴ったりなんかしない。ぜったいに、しない。人間じゃないから、屑だから、そういうことを平気でするんだ。屑なんて、生きてる価値がない。殺したほうがやよちゃんのためだよ。屑は焼却場にもっていかなきゃ」
「でも、殺す……って……」
「簡単だよ。その気になれば、いろいろ方法はあるから」
「なんで、そんなこと、わかるの」
「調べたこと、あるかんなー」
「でも、そんなの」
気がついたら私は、泣きそうになっていた。武からもらったりぼんを、しっかと右手で握り締めて――。
武は。
私を、ぎゅっと抱きしめた。
目を閉じる。武の体温が、直に伝わってくる。武の呼吸のリズムが、私のなかにも響きわたってくる。
「だいじょうぶ。やよちゃん。俺がいる」
「武」
「ぜったいに、うまくいく」
「……うん」
「だから、やよちゃん」
「うん」
「殺そう」
私は、そこで。
うなずけなかった。
ふたりきりのロマンチックなたなばたの夜、大好きなひとにはじめて抱きしめられて、私のことをこんなにも真剣に考えてくれる言葉を受けて、私は。
――うなずけなかった。