第十話
私たちは手をつないだまま、緩い駆け足で烏川にやって来た。
烏川、というのは私たちの学校の裏手にある、わりと大きな河川敷だ。公園や広場が点在していて、ランニングや釣りをするひとが好んでやって来る。今朝もときどき、走る人や犬の散歩をする人とすれ違った。
草のみずみずしいにおいと、川のすがすがしいにおい。
公園には、緑が広がる。空の青と川の青は、見分けがつかないくらいに似ている。
開放感を、強く感じた。
武はときどき、私をこの烏川に連れて来る。私は、武とともにしかこの川に来ない。だからこの川は私にとってとても特別で、大事。
私たちは土手の上の道で立ち止まり、はー、とどちらともなく息をつく。そして、どちらともなく笑う。
「朝練、さぼっちゃったよ」
拗ねるように言ってみたかったのに、私の口調は、あきらかに共犯者のそれだった。
「たまにはいいだろー。ふだん、俺たち真面目だもんな」
「まあ、ね」
「でもときどきさぼるって思われてる」
「それも、そう」
くすくす、と私は笑った。武も優しく目を細めて、土手の草むらに腰を下ろす。私も左隣に座り込む、中学生になって草や泥を汚いという同級生の女の子たちもだんだん増えてきたけれど、私は汚いだなんて思わない。
武と自然は、よく似合う。そんな自然のことが、私はけっこう好きだ。
土手にふたりして座って、川のせせらぎと鳥の鳴き声を聴く。とんびが自由に飛んでいて、格好いい、と思った。
「……やよちゃん」
「なに?」
「秘密って、あるよなー」
「うん」
私は、武のほうを向かずに答える。きょうはいい天気だ、鳥たちも草花たちも、さぞかし気持ちいいことだろう。
「でも、俺、べつにやよちゃんが話したくなければ無理に訊き出す気もないし」
「うん」
「でもな、つらいんなら別だと思うんだよなー」
「……うん」
「あんまり年上舐めちゃいけないぜ?」
ああ、武はいまきっと。
すごくいい笑顔を、しているんだろうなあ。
「真剣に話すのって、苦手なんだよなー。適当のが、楽じゃん。だけど俺、やよちゃんの前では真剣に話してもいいって思ってるんだよなー。……なあ、やよちゃん」
「なに?」
「重いとかって、思わないか?」
私は噴き出しそうになってしまった。
だって、そんなの。
私の、台詞だ――。
「なに笑ってんの」
「ううん、べつに……武もそういうこと、思うんだって」
「思うよー。やっぱりなー、適当第一主義者の俺としては、重いって思われるのは、恐いかんな」
「そっか」
「ほんとに、やよちゃんだけだよ? ここまで言うの」
「わかってる」
「ほんとにわかってんのかなー」
「わかってるよ」
一拍だけの、沈黙。
「俺ん家、兄貴がいるだろ?」
「……うん」
ずいぶん唐突だな、と思い、そのことにただならぬ予感をおぼえる。嵐の、ような。武にお兄さんがいる、ということは知っている。出会いたてのころに、聞いた。でもそれ以上のことは知らない。訊いても曖昧に誤魔化して話してくれないから、なんとなくタブーなんだと思っていた。
「兄貴がね、屑なんだ」
私は思わず、武の顔を見る。
武はいつも通り穏やかな顔をして、川のほうに視線をやっていたけれど――違う、このひとみはたぶん違う、もっともっと、遠くって大きななにかを見ている。
武がだれかのことを、たとえ身内であっても、わるく言うだなんてはじめて聞いた。ひとを陰で褒めてばっかりの、武なのに。
武は少しだけ視線を俯け、続ける。
「どうしようもないやつなんだ。俺のふたつ上でさ、むかしは尊敬できる兄貴で、作文なんかにも僕の尊敬するひとはお兄さんです、なんて書いたりしたけど……いまは駄目だ。変わっちまった。ははっ、俺、あんな兄貴のどこを尊敬してたんだろうな。ガキのころの俺に教えてやりてえわ、いまの兄貴」
「……うん」
これは、武の、告白だ――。
まぎれもなく。
「どこを尊敬してたって、ほんとはわかってるんだよな。兄貴はめちゃくちゃ頭がよかった……まあ、いまもいいんだろうけどさ。そう、兄貴は頭がいいんだよ。頭の回転がいいし口が達者でさ、いつも俺や母さんを打ちのめす」
「うん」
「ガキのころは、そこがあこがれだった。俺のお兄ちゃんは頭がいいんだって、自分のことでもないのに自慢してたんだぜ。兄貴はそんな俺を褒めてた。お前はよくわかってる、って。俺は嬉しかった。でもたぶんあれは、自分の信者へのご褒美でしかなかったんだよな」
「うん」
「兄貴は一流大学に入ったんだ。東京のさ、だれもがうらましがるような国立大学だよ。俺なんか、逆立ちしたって入れないような大学だ。それまでは、兄貴の人生は順風満帆そのものだった。神童って言われて、全国模試で一位なんか取っちゃってさ、現役でするっと大学合格。正直言うとな、俺はさすがに、兄貴をあこがれの目だけでは見られなくなっていたよ。なんて言うのかな……自分でも認めたくない、ぐちゃぐちゃした気持ちでいっぱいだった」
「……うん」
ひまわりのような、武が。
汚いことなんかひとつも知らなそうな、武が。
そんな想いを、うちに秘めていただなんて。
「でも、だからって」
「うん」
「だからって、あんなふうになってもらいたかったわけ、ないじゃんか」
武は、暗い目をして言い切った――。
「あんなふうに?」
「引きこもりなんだ」
武は、吐き捨てるようにして言った。
「でもさ、引きこもりが、ぜったいにいけないってわけじゃないじゃん」
「うん、そうだよ。引きこもりのみんなが、わるいわけじゃないんだ。事情があるやつもいるだろう。でも、うちの兄貴は違う。違うんだよ」
「違う?」
「甘えてるだけなんだ。兄貴は……大学は馬鹿ばっかりで行っている価値がありません、とか抜かして、行かなくなっただけなんだ」
「それで、家にいるんだ」
「そう……兄貴はネットをつかってでかい収入を得るとかなんとか言って、一日パソコンに向かってるけど、けっきょく生活は家に頼ってる。いや、そんなの、ほんとはどうでもいいんだよな。俺がゆるせないのは」
「……なに?」
「母さんを、殴りつけることだ」
私は、そこで。
息を呑んだ。
辺りがしん、と静まり返ったかのように思えた。
だって、そんなの。
まるであの男みたいじゃないか――。
「俺を殴ればいいんだよな。でも、あいつ根は意気地なしだから、俺のことは殴れないんだ。勝てないと思ってるんだな。で、母さんを殴る。母さんは女手ひとつで俺たちを育てて、強いひとだけど、やっぱり腕力じゃちょっと勝てないんだよな。いつも俺が止めに入る。でもな、俺がいればいいんだけどな。俺はいつもいるわけじゃないから」
「それで、いつも早く帰るの?」
「うん、やよちゃんともっといっしょにいたいんだけどな。ごめんな」
「ううん、そういうことならいいよ。十時からは電話できないのも、そのせい?」
「そうなんだ。夜中は兄貴が起きてて、うるさいって暴れるから」
武は、少ししょんぼりしているように見えた。
沈黙が、流れた。
川のせせらぎが、今度はやけに大きな音で聞こえてくる気がする。
沈黙が流れるのは、天使が降りて来たってことなんだよ、って志乃ちゃんに教わったことを、脈絡もなく思い出した。
いま、私たちのあいだにいるのは、はたしてどんな天使だろうか。
私は志乃ちゃんと違って、天使はきれいだと思っても、あんまり信じてはいないけれど。
でも、なるべくなら優しい天使だといい、と思った。
私はやっとのことで、重たくなってしまった口を開いた。
「……そっか」
「そうなんだよ。あーあ、喋っちゃったなー」
暗い雰囲気はすっかり消え、武はいつもの調子に戻っている。
武はふと、私の右手を取った。
手が、温かく包み込まれている。
「俺の秘密は、これでおしまい。やよちゃん、俺の秘密、知らなかっただろ?」
「うん。びっくりした」
「ほんとにびっくりしてんのかなー」
「してるよ、すっごく」
私の言った声はなんだかやたらと必死に響いて、武と私は、どちらともなく噴き出してしまった。
「俺の秘密は、預けた」
きゅっ、と手に力がこもる。
「次は、やよちゃんの番だよ」
そこで、私は。
やっとのことで、すべてを理解した。
武が秘密なんか話すなら、そんなのいくらでも受け止める気でいた。唐突だなあとは思ったけれど、話したい気分のときもあるだろうって、そのくらいに考えていた。
でも、違うんだ。
私が私の秘密を話しやすくするために、武は。
身を呈して、自分の秘密を差し出して――。
そう、これは、いわば秘密の交換だ。
草の香りのする風に吹かれて、短い髪が揺れる。視界の端に、ひらひらと舞う赤いりぼんが映る。
私は、小さく息を吸った。
――武には、かなわないなあ。
そして吐くときの勢いで、私の秘密、を語り出した。