28.向き合う時が来た
仕事から家に帰り、玄関先で顎を上げて目を瞑る鈴音――。
そっと唇を合わせるだけの口づけをするまでが帰宅時の儀式になっていた。
これまでが同棲してるのと同じ生活だったので、日常生活には何ら支障はないだろう。
一歩多く踏み込んだ関係とは言え、これまで通りの生活をしていればいいんだ――と思っていた。
特別変わった事は必要ない、はずだと……まさか、鈴音がこんなにもキス大好きだったとは思わなかった。
いや、俺のせいでもあるか――。
先日の雷雨よりさらに積極的になり、今では時々鈴音からもしてくる。
しかも、不意打ちでして来るのに『男とは困った者ぞ』と、求められたから応えてやった的な様子を見せるのがズルい。
確かに男とは困った者だろう、俺でもそう思う――抑制するのがしんどくなって来たからだ。
鈴音からすればその……夫婦になる気満々でいる。俺としても当然お付き合いで終わらせるつもりはもちろんないし、そんな関係になったからには次の段階もちゃんと考えている。
つまり、いつしか一線を越えてしまうと言うこと。
だがそれは今ではない……この時代の女性なら、こんな状態で手を出さないのは、同性愛者か勃たないか、ヘタレかのどれかに思われてしまうし。
まだ一線を越えないのにはちゃんとした理由があった。
鈴音はこの時代にいるが、この時代の女性ではない――あちらにはあちらのルールもある。
時代を超えた問題と、あちらには鈴音の両親だって向こうにいるのに、それを無視して"現代では普通だから"と安易に手を出してはならない問題なんだ。
いつもの様に晩飯を済ませ、今日あった他愛もない話をし、寝る準備をする――。
にびは居ない、七姉さんもいない――にびは朝方、六姉さんに呼ばれたと言ってから帰って来ない、七姉さんは六姉さんの用事で戦国時代、鈴音の世に行っている。
つまり……これはどういう事かと言うと、”止める者” が居ない事になる。
いつものお休みのキスを、その艶っぽい目を見るたび情を掻き立てられるのに、止める者がいないと意識すると更にそっち方向の意識をしてしまうのだ――。
鈴音はもう察しているような、待っていたかのような雰囲気を見せている。
鈴音にその行為自体は経験がない、それが問題だった――だけど、もうそんな事はどうでもいい、鈴音の時代のルールなんてのも……彼女はここで生きずっと居るのだから――。
留められなくなった俺は、ベッドの上でゆっくりと鈴音の着物を脱がせ、俺は鈴音の身体を求めた――。
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何かが顔に当たっている。それが痛いと分かったのはしばらくしてからだった。
ようやく音が聞こえ、誰かが大きな声で何かを言っている――もう朝なのだろうか?
まだ瞼が重い、今日だけはズル休みしようかな――これまで頑張って来たんだし、一日ぐらい休んでも許されるだろう。
でも何でこんなにも眠く、休みたいんだ……。
瞼の中の真っ暗な世界の中で、ぼんやりと昨晩の記憶が蘇って来た――ああそうだ、鈴音としちゃったんだ……何時間もかかってようやく繋がり、痛みに耐える鈴音に申し訳なく思いながらも求め続けたんだ。
避妊も何も考えず、もうオスの本能が求めるまま中で果てたんだったな――。
今日は休もう。
昨日の今日であるけど、また鈴音を抱きたい――あの快楽と温もりをまた感じたい――。
だから鈴音もまた一緒に寝よう。『オキヨ、オサキハ、スズネハ――』なんて言わずに――。
あれ……鈴音にしては少し年季がいっているような口調……何かどこかで……。
「えぇい、起きぬかっ!!」
「うぐっ!?」
グーで右頬が殴られた事がハッキリと分かる。
同時に脳みそに痛みの信号が送られ、『早急に起きねば死ぬ』との伝達が全身に行きわたった――。
視界に入った赤い目をした人、血相を変えてこちらを見下ろすような形で見ている。
上半身だけベッドの上に覆いかぶさるような恰好だけど……まずい、こんな状態で夜這いなんてされたら――。
「ようやく起きたかっ、何があったのじゃっ!」
「な、何がって……その、昨日ちょっと鈴音と……しちゃって」
「昨日じゃと!?」
「あ、あぁ……」
「その姿でかっ!」
何でそんな驚いて――うわ、寝汗でスーツがビチャビチャだし……え?
どうしてスーツなんだ? 確かあの時は……あれ、どんな格好で何を話したっけ……。
そもそも昨日俺は何をしていたんだ――乾いた砂で出来たような記憶がサラサラと頭の中で崩れ、消えてゆく。
俺はあの時鈴音を――どうしたんだ?
下半身が冷たい事に気づき、ふと確かめてみると、鈴音が来てから出す事がなかったそれを盛大にぶちまけていた。こんなの今どきの中学生でもしないぞ――。
しかも砂漠のように干上がった喉は、傍らにあった水をいくら飲んでも潤う事はなく、気が付けばペットボトルほぼ一本分を飲み干してしまっていた……。
「はぁ……い、一体何が起こっているんだ――な、何だこの着信の数!?」
「お主では今日は何日じゃっ」
「た、確か二十六日……だった気がする」
「や、やはりか……ぬ、ぬう……」
今日の日付は確かに二十六日のはずだ……何で二十七日になっているんだ。
俺の勘違いか? それにこの着信と留守電――休むのかどうか、大丈夫かって何だ……俺は会社に行ってたはずだぞ?
「弘嗣――そなたは二十六日の朝、出勤前か中に眠らされたのじゃ!
それから今まで丸々寝かされておった……その間に鈴音とにびが消えたのじゃ!」
「鈴音が……消えた?」
「この世に気配が全くあらぬ――」
「じゃ、じゃあどこに行ったんだ!?」
「……過去じゃ――この時代より四百年前の鈴音が元居た時代じゃ」
本当は二十七日――。
鈴音が居た時代に居る……って事はもしかして帰ったって事なのか!?
一体、一体どうしてっ!?
「分からぬ――いや、妾がここで現実を見ねばならぬ。
恐らくは……六尾の仕業じゃ……用があると呼ばれ戻ったらあれの住処はもぬけの殻。
それに今のにびでは鈴音を連れては帰れぬ――なれば出来るのは六尾しかおらぬ」
「で、でもどうしてっ!?」
「分からぬと言うておろうっ!!
今の妾では弘嗣を連れても行けぬし、妾が戻っても力が尽きて……ぐっぬぬう……。
にびの仕事が終わっておらぬ事にもっと早く気づいておれば……っ!」
こんな七姉さんの姿を初めて見た――奥歯を噛みしめ本当に悔しそうにしている顔からして相当マズそうだ……。
鈴音がどうして連れ戻されたのか分からないけど……今はそんな事を考えている場合じゃない、早く鈴音の所に行かないと手遅れになりそうな気がする――。
そんな強い焦燥感を覚えた時――部屋の天井部分からどこかで見た奴が降って来た。
一瞬懐かしいような感覚さえ覚えたが、記憶にあるのとは全く別のそれは、机の縁に背中をぶつけるように落ちたせいで息ができないのだろう、死にかけた鯉みたいな声をあげて悶絶している――。
よく見たくないけど、よく見ればいつぞやの忍者だった。
「う、ごぉぅぅ――」
「こ、今度は何しに来たんだっ!!
相手してる暇なんてないが、また襲撃してくるんなら相手してやるっ」
「ち、ちが……う、裏切られ、た……。あ、あのねぇちゃんが戻ったら、よ……用済みだと」
「貴様は何を知っておるのじゃっ、言えっ!」
「す、鈴音の親父と、六本の狐だ……あ、あれが一芝居打って鈴音を呼び戻し……
記憶を消し……に、二本の狐は気づき、ててっ抵抗したが連れ去られ、ど、どこかに――」
「な、何じゃと――」
放たれるそれに全身の血が凍ったかのように思えた――これが恐怖と言う物だろうか?
いや、俺は生きているのかすら分からない、俺が俺でないような、魂が肉体を捨て逃げたような錯覚すら起こしている。
目の前の怒る獣の目は血の色のような不気味な光を放ち、毛が逆立っている――今にも爆発しそうだ。
『待たれよっ!』
七姉さんがプッツンしかかった所にどこからか声が聞こえて来た――ベランダで白くてデカい何かがガリガリとガラス戸を掻いている。
シルエットからして犬っぽい――鈴音は鍵がっちりかけてたからな。
「母よ、あなたが平静を失ってどうするっ」
「犬神――今頃何しに来おった!」
「久々の子との再会にそれか。牛蒡種より『妹の身が危ない』と聞かされ
一目散に飛んできたと言うのに――そのようなのだから妹の願いにも気づかぬのだっ」
「そなたが来て何になるっ! 一刻も早くオサキを助けに行かねばならぬのじゃ!」
「冷静さを失えば道を誤る――そう教えたのはあなたのはずだ!
その忍者はどうやってここに来た、力を著しく失っているあなたに出来る事は何か、
あり余る力を持った者は誰だ――あなたならすぐに導き出せる簡単な話だろう」
巨大な犬の叱責に、恐怖がサーっと引いていくのが分かる――。
冷たい氷の世界が失われ、そこで初めて部屋が蒸し暑い事に気が付いた――。
忍者はもう手に持っていた数珠らしき物を差し出し、土下座待機しているが……もしかして、七姉さんがプッツンしかけてた時からずっとああやってたのか?
「す、鈴音は今晩、隣の横井のせがれに側室として嫁ぎますっ!
これっ、これ使って私は過去と現代を往復してましたっ!」
「そ、側室……嫁ぐって……な、何だとっ!?」
「ぬう……時間がないっ。弘嗣っ、そなたはその数珠を使ってにびの元へ行けっ!
そこでにびに数珠を渡し、妾の元に来いと伝えよ!
後はこちらから手をやるので、にびが再び参るまでその場所で待っておれっ!」
「わっはっは、ようやく本来の母の姿に戻ったわっ」
「わ、分かった――でも、にびの場所は――」
「妾が調整してやる――ずっとあれを見守って来たのじゃ、この程度は容易きことよ」
だけどこの数珠を使えって言われてもどう使えばいいんだ?
スペシャルパワーの解放とかのコマンドでもあるの――
※次回 4/10 17:20~ 更新予定です。




