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26.牧場にやって来た

 まだ夜が明けきらぬ頃、ふと目が覚めて横で寝息を立てる女性を見て少し不安になった。

 あれは夢ではなかったのではないか――これまでの"家主と居候"の関係を越えた、これから始まる"男と女"の関係――つい数時間前の事なのに、鈴音の唇の感触が夢の中だけのものだった様な気がしてならない……。


 初めて会った時はこんな事になるなんて考えもしなかった。

 確かめるにも眠っている所を起こすわけにもいかないし、朝起きて『僕たちキスしましたよね?』なんてアホな事聞くわけにもいかない。とすれば、起きた時の鈴音の態度で確認するしかない。



「あ……」


 朝が来て、何やら気配を感じて目を開くと、起き抜けの目に少し驚いたような女性の姿が飛び込んで来た。

 明け方のは考えすぎの杞憂でもあったようだ――これまでと同じなのに雰囲気が違う、侍娘ではない普通の女性。その白く優しい指先が、俺の左頬をくすぐっていた。

 どんな顔をしていいか分からない顔をしている。きっと俺もそうだろう――俺の場合は寝起きの間抜けさもプラスされているが。

 口の中が乾く。唾液は出ているが口を潤す事なく喉に流れている気さえする。

 互いに同じ不安を抱いていたのかもしれない――どちらからでもなく、双方共にぎこちないながらも唇を求め、受け入れていた。


「ん……」


 朝のキスは良い物ではないと聞いた事がある。寝起きの口臭などで碌なことがないからだと……。

 確かにそれは気になった、鈴音のではなく自分の――鈴音のは全く気にならない、むしろ生々しいそれは脳を一瞬にして目覚めさせてくれた。自分のは大丈夫……だよな?

 それとジュニアも危険だった――もっとしたかったがこれ以上するとこっちも目覚めてしまう。


「う、うむ……確かに……であるな。

 め、飯にしよう――ち、ちと七殿らを起こして参る」


 あれは夢でもなかった――うん。

 その行為にどうして良いか分からなくなり、そそくさとその場を立ち去ったのだが……しばらくしてから、これは夢かと思う出来事が起きた。

 俺たちの目の前に、サキュバスの別れさせ屋かと思える悪女が現れたのだ――。


「な、七殿ッ何をしておる――!?」

「んー……何がじゃ?」

「召し物ぞッ、如何なされたのだっ!」

「ふぁああ……別に構わぬじゃろ。

 よもや"想い人"となった者が、朝令暮改の如く"他の女子"に目移りなぞせぬじゃろうしな」

「な、ぬっぬぅぅっ……」


 鈴音が戻って来てから、船室から尻尾の生えた裸の女性が出てきたのに目を奪われてしまっていた。

 いやらしい意味ではなく、純白の毛が朝日によって赤く色づき、存在そのものが幻想に見えたからだ……。


 その女性はそこからクルリと宙を舞うようにひとっ飛びすると、頭から海の中にドボンッと飛び込み、そのままの姿で陸に上がって来た――。

 すぐに目を背けたが、その裸体に海水で張り付いた毛が脳から消去できず、いくら×印を押してもエラー音がポーン、ポーンと鳴っている……何と言うブラクラ――。


 それから、朝食を摂り終えた鈴音は『もうひと泳ぎしたい』と言うので、昨日と同じように一時間ほどまだ水の冷たい海で泳いだ。

 七姉さんの裸体に上書きするように、鈴音の水着姿を焼きつけ誤魔化したいのもあった……あんなのが記憶フォルダに残っていたら平常心が保てない。

 しかも、その目から『穴を埋めたくなる雄の本能じゃし、妾は構わぬぞ? ほっほ』と語りかけて来るんだもん……。


 去り際、少し名残惜しい気がし後ろ髪を引かれる思いで――二人が今の関係になった思い出の場所だったからだろうか、まだもう少し居たい気持ちを押し殺しその場を後にした。


 ・

 ・

 ・


 空港に向かうのかと思っていたが、今度は更に山の奥へ――海とは対照的な牧草の大海原が広がる牧場に来ていた。

 海は何度も来ているけど、こんな本格的な牧場なんて一度や二度ぐらいしか記憶にないぞ……。


「あ、にびだ」

「次、狸と童を間違えたら来世は無いと思えよ?」


 にびは狸とは相性が悪いようで、それを見つけるやいなやゲージの中にいる緑のちゃんちゃんこを(まと)った狸と睨みあっていた。

 赤い着物の狐を小馬鹿にするかのような顔に、手を出せない狐はぐぬぬっと奥歯を噛みしめていた――が、後ろにいる姉狐に気づくと即座に腹を見せる服従のポーズをとっている。


「ほっほ、懸命な判断じゃ――」

「童は狸だけは大っ嫌いじゃ……そのくせ緑とは――」

「あれが昼飯ぞ?」

「違うからっ!?」


 この侍娘からすれば、大半の生き物は食い物だと思うらしい――狸に似た穴熊と言うのは美味いとの事で、巣穴を見つけたら穴熊狩りを楽しんでいたのだとか……。

 そこを去り際に狐と狸、二匹とも”べー”っとし合っていたが、実は似た者同士で仲がいいのかもしれない。


 土産物コーナーの前に差し掛かると、よく見かける木彫りの熊の置物の横に、どうしてかカエルの置物があった。イェイ?


「ほお、牛か――白と黒の斑模様とは珍しい。おおっ、にびとそっくりな面の牛がおるぞっ!」

「あ、ほんとだ、この気の抜けた顔に、だらけた感じも特にそう見える」

「よーし、今からこの自慢の尻尾でビンタしてやるからの、そこに並ぶのじゃ」

「ほれ、早うこっちに来るのじゃ」


 七姉さんが来いと言った場所に向かうとそこには何かもうやる気満々な目で俺を睨む――馬がいた。

 寝ていた所を無理矢理起こされたような不機嫌そうにブルルッっと鼻を鳴らし、身体中からただならぬオーラを発している。

 大方、七姉さんに逆らえず嫌々出てきたのだろうが……あの人は一体何者なのだろう――狐か。


「お、おぉぉっ、馬ではないかっ!

 何とこれは良い顔つき、良い毛並み――く、くれるのか!?」

「どこで飼うつもりじゃ……乗るだけじゃ、乗るだけ」

「うぅむ……であるが、乗れるだけでも良しとしよう。どうどう、よろしく頼むぞ――」


 慌てて駆け寄ってきた係員の補助なぞいらぬと言わんばかりに、慣れた様子で鞍に脚をかけ馬に跨った――。

 だけど、係員の『その馬は違う、どうしてここに!』って、どういう事だ? しかも、よく見たら乗馬の場所と違うような――。


 まさかっ、と思った時には時遅し……馬は己に乗った女を振り落とさんばかりに、(いなな)き暴れ立ち上がる。

 咄嗟に『危ない』と声を出そうとしたが、その喉が震えなかった――鈴音が何のそのと言わんばかりに手綱を繰り、それを制していたからだ。


「はっはっは、良いぞっ!」

「だ、大丈夫かっ!?」

「うむ、私の馬に比べれば随分と大人しいものよ」


 ようやく喉か震えた――。

 鈴音の身に何かあったらと肝を冷やしてしまったが、あれで大人しいって、普段どんな馬に乗ってるんだ……。

 係員はその暴れ馬を制し、調教用のコースを駆け始めた鈴音に驚き、唖然とした表情でそれを見ていた……係員と言うか調教師か?


 ああでも、馬は渋々と言った様子だけど、馬に乗ってる侍娘がすっごいサマになってるよ――。


「あ、あの馬は乗馬用ではなく、競走馬ですよっ……!?」

「誰も乗せぬじゃじゃ馬であろう」

「え、えぇ……」

「乗れぬ、役目を果たせぬのならいくら優秀な競走馬とて駄馬と変わらぬ」


 そこそこ良い血統の馬であるらしいが、そんなじゃじゃ馬を乗りこなしコースを駆け回る鈴音。

 係員は『普通の人じゃあそこまで乗れない』と言う。安心してください、俺を除いた奴ら全員"普通じゃない"連中だから。

 あぁ、鈴音はもう侍スイッチ入ってるのが遠目で見ても分かるよ――『槍か薙刀をくれっ』って、時代が違うから!?


 一通り終えると、輝くような満面の笑みで馬から降りた。やはりこう言った顔をしている鈴音が一番魅力的だ。

 にびは降りた馬と何やら会話しているようでふんふんと相槌を打ち、独り言のように馬に語りかけているが……。

 いや違う。狐の母からの頭巾が無くとも、にびか七姉さんを通じてかその会話の内容がハッキリと分かる――。


「にひひ、次は童を乗せるのじゃ」

『ふざけんな、あのイイ女が乗せろと言うから来てやったのに、

 あんな乗り方荒いじゃじゃ馬女なんて聞いてねぇぞっ!』

「あれは特別じゃ……加減を知らぬからのう。じゃが童は大丈夫じゃぞ?」

『ふん、そこのそっくりな牛にでも乗ってろ、馬鹿狐』

「な、なんじゃとッ――!?」


 馬のが一枚上手と言うか、鈴音の乗り方が余程気に食わなかったのだろう。

 にびの見た目のせいもあってかナメられ、簡単にあしらわれてしまっている。


「もうよいわっ、ふんじゃ」

『大人になって、一発ヤらせてくれるなら話は別だがな。

 デカくなれば、もう片方の狐に似たイイ女になりそうだ』

「ふんっ、もう手遅れじゃ。

 後になって懇願して来てもヤらせぬし、その時には童の腹の中に収めてくれるわっ」

「ほっほ、ならば妾が乗らせてもらおうか」

『どうぞどうぞ乗って下さい。騎乗位でもなんでもどうぞ――』


 牡は良い女・牝に弱いのは全生物共通なんだな……。

 七姉さんの手を煩わせないように自ら身を下げ、ゆっくりとカッポカッポと音をたてるようにコースを徘徊している。股間の物がもう期待してるように見えるのは気のせいだろう――。


 正反対な態度に、にびは顔を真っ赤にして激昂し、鈴音は別の場所にいる乗馬用の馬に興味を示しているし……。

 もう必要のない係員は従順な暴れ馬に、眉に唾を塗って確認するしかなかった――。


「うーん、まぁこれも良いじゃろ」

『ごめんなさいね、あれは我儘で――』

「うんにゃ、大丈夫じゃ。童の胃袋に入るリストの二番目に入っただけじゃから――」


 相当根に持っているようだ。一番目はさっきの狸らしい。

 正しい乗馬用の馬に乗ったにびは、牝同士だからか先ほどから愚痴をこぼしまくっている。

 どうやら実力があるものの、指示されるのが嫌いな上に自分の勝負舞台はチンケな地方競馬場ではないと反発し、騎手を振り落としたのだそうだ。

 そのせいで競走馬失格との烙印を押され、ここの牧場にタダ同然で引き払われたのだとか――。


「で、今のアレを見てどう思うのじゃ」

『情けない事このうえ無いわね――』


 ヘロヘロになっているのに、七姉さんに尻を撫でられると、カンフル剤を打たれたかの如く力を取り戻す牡馬を情けない目で見ていた。

 力のある目はもう見る影もなく垂れ下がってデレデレになっているし、立派な外見も台無しである。



 にびの機嫌はそこと小動物コーナーで取り戻され、特にウサギに関しては時間いっぱいまで居座っていた。

 動物好きで面倒見も良いのかウサギの方もそれに感応し、モコモコしたのがにびの周りから離れようとしない。

 傍にいる鈴音もそれらのウサギに顔をほころばせ、時折よだれを出しかけていたが――恐らく可愛すぎて口元が緩んだだけだ、食用として見ていたなんて無いはず。


 ・

 ・

 ・


「ひ、弘嗣よ……ら、来世でもまたこうして――」

「だ、だから大丈夫だからっ」


 二度目の飛行機に、鈴音は来世での逢瀬(おうせ)を約束する。

 来世があるなら当然また鈴音と巡り合いたい。だが、それを約束するのは今ではない――。

 確かに鈴音の時代からすれば空を飛ぶなんて想像を絶するものだろうけど、もう既に一度目のフライトを体験しているし、それが大丈夫だと分かっているはずなのに。

 やはり、人知を超えるような出来事は受け入れるのに時間がかかるのだろうか。


「あっ……う、うむ……」

「もし仮にここで死んだとしても、また鈴音と会いたい――」

「うむ……私もぞ……」


 行きと同じように、そっと鈴音の手を握った。これだけでも落ち着いたのか、先ほどに比べると表情が柔らかい。

 何というか……まだこう言った関係になれていない、そんな戸惑った表情の鈴音を見ていると自然と唇を求めてしまう――。


「……高度千メートルってどれだけ寒いのじゃろう。

 童、テロリストになってもいいからこの窓かち割って、そこの二人のせいで蒸し暑い飛行機を冷ましたいのじゃが――」


 い、いいじゃないかっ、付き合いたてホヤホヤなんだからっ!!

 あれ、そう言えば鈴音の時代にお付き合いって状態はあるのか――?


「ほっほ、許婚(いいなづけ)がそれに近いのう。

 今の時代のようにワンクッション挟まぬと言うのを抜け落ちておるかもしれぬが……。

 ま、これまで以上に気張るのじゃぞ」


 今日は普通の格好の七姉さんが楽し気な様子で言ってきたが……まぁ確かに、許嫁のような関係ならこれまで気張らなきゃいけないけど、そこまで――。

 あれ……許嫁って確か、現代人からしたら親同士が決めた超羨まシチューのあれだよな?

 襖を開ければオークだった、みたいな地雷なんてきっと存在しない超ご都合展開になるあれなら、今みたいに最初から婚約状態でも――


 最初から婚約状態……?

※次回 4/8 17:20~ 更新予定です


※狐の母からの頭巾

 子狐を助けた御礼に母狐から授けられた、動物の声が聞こえるあれ。

 黒人の医者はもちろん被っていない。

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