3-2 不安定ななにか
帰ったら、電気が消えていた。
もう寝てしまったのかな、と思って居間に入って灯りをつけたら、ソファの上に、母親が眠っていた。俺は慌てて電気を消した。キッチンへ飛び込んで、冷蔵庫から水を出して、コップに注いだ。
ソファのそばには電話がある。いや別にコードレスだから、そこでなくともいいはずだが…いやFAXがある。それだけじゃない。結局、彼女は、電話のそばに居たいのだ。
俺は電話魔ではない。携帯やPHSにも基本的に興味はない。通信機として持つのは楽しいかもしれないけど…それで彼女に電話をかけられてもたまらない、ということもある。
電話に執着している彼女を見過ぎてしまったせいかもしれない。遠い向こうの、誰かからやってくる言葉だけを、一人きりの部屋でひたすら待っている、その様子が。
冷たい水を一息に飲み干す。窓の外では、ぽつん、と雨が落ちだしていた。遠い空の向こうの、親父の居るあたりでは、今頃台風が当たっている頃だろうか?
小さい頃、やっぱりこんなふうに、台風の夜があった。だけどその時にはまだ、親父も母親も、仲が良かったし、兄貴も同じ部屋で寝起きをしていた。怖いと思って震えると、兄貴に馬鹿にされそうだから、強がってもみせた。おそらくは奴も怖かったんだろうが。
その兄貴も、就職して、何処かの支店の営業でばりばりとやっている。
父親に信用されているというのは、何だかんだ言って悪いものじゃない。遊び歩いても、羽目は外さないと思っているのだろうか、俺は困らない程度の小遣いもきちんと貰っているし、足りなかったらバイトでも何でもすればいいと言われている。
俺はそれで、いい。俺は。
だけど彼女には、それでは足りない。そして俺はその彼女の何処かから湧いてくるような、何か疲れたようなこの家の中の空気がたまらない。
誰か。
俺は何となく心の中でつぶやいてしまう。
誰か。誰でもいい。彼女をこの家から連れ出してやってくれ。
誰のためでもない。俺は、自分のためだけにそう思っているのだ。彼女のためを思っている訳じゃない。決して。
ベッドに入ると、風と雨の音がどんどんひどくなってくるのが、ひどく耳についた。
そういえば、マキノはどうしているんだろう。
何となく、俺は気になった。
*
台風一過の翌朝、マキノは学校を休んだ。
*
ぎらぎらと、太陽が目にまぶしい。
夏休みが始まって、俺はいっそう家に寄りつかない日々が続いていた。
母親には、「友達と一緒に図書館で勉強してくる」とか、「今日は補習授業があるんだ」とか言って。
まあ間違いではない。学校の図書室に行く時もある訳だし、コノエとは遊ぶのがメインだが、全く勉強していない訳でもないのだ。
勉強は、初めはタテマエ的だったのだが、意外に俺は奴の部屋に行くと、本を開いていた。
どうもコノエという奴は、高校生のレベルは軽く飛び越えているらしいことに、俺も最近気付いてきた。
置いてある本もそうだ。書き込みの訳の判らない横文字。
例えば現代社会を説明する時に、時々飛び出す経済用語。出てくる政治的用語。それに絡む現在の政治。思想家の歴史がどーとか、妙に詳しい。明らかに、一通りさらった奴でないと、こうは判らない。
社会だけでなかった。どうも英語や数学に関しても、同じらしい。
英語に関しては、タキノまで奇妙に上手かった。時々かける、洋楽のCDに合わせて彼女はよく歌うんだが… その発音がずいぶんと綺麗なのだ。ネイティヴ・スピーカーのようだった。学校の外人講師の喋り方を思い出させた。時には初めて聞いた曲の歌詞に「哀しいうただよね」とか言い出す。俺にはさっぱり判らないというのに。
ただ理科と国語に関しては、奴は何も教えてはくれない。
一度だけ俺も聞いたことがある。化学の元素記号の暗記方法を訊ねた時だった。水兵リーベ…という奴だ。つなげて言うと、元素記号の周期表になるあの暗号。
軽い気持ちで聞いたのだが、意外にも即座に、「ワタシは専門外だから」といつもの口調で返してきた。
国語も同様だった。いや、その時は「専門外」ではなく、「趣味じゃないんですよ」だったかな。とはいえ、古典の文法だけは丸暗記しているように詳しかった。だがそれ以外については、何も言わない。現代国語についてなど、「そんなものは、本を数読んだ奴の勝ちでしょ」の一言で終わった。
…あと保健体育が奇妙に詳しかったが… 何故詳しいのかは聞くのが怖いので、やめた。
とにかく社会科と英語と数学に関しては、奴は実に頼りになる友人だった。時々問題集を開く時が無い訳でも無いが、それはどうも、問題を解くというよりは、「出そうなパターンをとりあえずさらっておく」という感じなのだ。
しかも、どれだけ俺が「解けねーっ」と言っていたところで、あるとっかかりに気付くまで、絶対助言をしない。全くいい根性だ。いや、それとも俺の性格をよく知っているというのか。
まあそんなこんなで、俺は何故か遊んでいるようで、勉強などもしてしまっていたのだ。
で、遊んでもいた。
とはいえ、さすがに高校生、奴はどうなのか知らないが、俺は基本的にただの高校生なので、ふところにも限度がある。ライヴハウスもゲーセンもカラオケも、安いところを狙って行くしかない。
例えば、平日の昼間のカラオケ。例えば、1ゲーム50円のゲーセン。
そういうところで、如何に時間目一杯楽しむか。ゲームだったら、50円玉一つで、どんだけ長時間楽しむか。妙にそういうところに血道を上げてしまうのだ。
なかなか笑えるのが、コノエはこういうゲームに関しては、俺やタキノより下手なことだ。あの何考えてるか判らない顔が、こういう時だけ真剣になるのが、奇妙におかしい。まあ奴に言わせると、慣れてないということなんだが…それにしても。
ライヴハウスにもよく行く。と、言っても、最近の行きつけは、ドリンク券だけでライヴが見られるACID-JAMだ。そのくらいだったら、週一で通っても、休みの初めに単発で三日ほどやった、本屋の棚卸しのバイト代で間に合う。
「ほらまた居た」
そしてそのたびに、目敏くコノエは薄暗い人混みの中から、マキノを見つけだした。
「ああ、今日も彼等出るんだったっけ」
「と言うより、あたし達が当ててるんじゃない。そうゆう日」
そう言えばそうだった。
ベルファの音は嫌いではない。結構好きだった。熱狂まではしない。そういう類の音ではないのだ。だけどテクニックは確かだし、安心して音を楽しめる。ドラムの音も重いし、ベースの音が跳ね回る様は、見ていて頼もしい。
黒い上下のベーシスト。いつも黒ばかりだった。
そしてマキノの視線は、彼に向いている。さすがに通って、奴の姿をきちんと見つけることができるようになったら、そんなことにも気付き始めた。
結局奴はあれからどうしたのだろう? 学校に翌日来なかった。あのベーシストの家に泊まったのだろうか。
あの視線が、気になる。
でも俺のお目当ては違うのだ。ベルファでもマキノでもない。
週一、月五回くらいの中で、俺はちゃんと、RINGERの出る日を「当てて」いるのだ。まあそれにたまたま、対バンで、ベルファが当たる日が多いという訳で…
この日もまた、そういう日だったのだ。
前の方を陣取っている女の子達の高い声が、メンバーの名を呼び始める。さすがに俺も最近は、コノエとタキノのおかげで、このバンドのメンバーのことは少しは知っていた。
四人編成。ヴォーカルにギターにベースにドラム。
ヴォーカルはそれでも最近入った人らしい。通称「Kちゃん」。本名はめぐみとか言うらしい。男だ。だがなまじの女の子より可愛い顔立ちをしている。
彼がギターのケンショーという人とステージ上で絡むと、見ていた女の子達から悲鳴が上がる。中には顔を見合わせて笑い合う子も。
俺は何となくそんな女の子達をみて、むっとする。
そしてその横で、ベースを黙々と刻むのはナカヤマさんとか聞いた。そのベースと一緒にリズム隊を組んでいるのは、ドラムスのオズさん。
俺は「Kちゃん」さんの歌にじっと耳を澄ます。決して好みの声ではない。だってそうだ。確かに面白い声なんだけど、ある程度上手いんだけど…
何となく、不安になる。
曲のメロディ自体が明るいから、あまり気にもならないのかもしれないけど、時々、奇妙にひっくり返る声が、背筋をぞく、とさせる。
そういう所が、魅力な人には、魅力なのかもしれないけど…
「不安定ですねえ」
そしてコノエが、俺の言葉にならない何か、を言い当てた。俺達は、前に出て見る訳じゃない。そうゆうのは、女の子にまかせる。それに、何かそういうタイプの「好き」とは違う気がするのだ。
「不安定?」
俺はコノエに訊ねる。奴はうなづいた。
「そう。何かね、揺れてる」
奴にしては、曖昧な言い方だった。抽象的な言い方だった。その俺の不満そうな顔つきに気付いたのか、奴は言い足した。
「…歌詞、聞こえますかね」
「歌詞?」
「そう、歌詞」
言われてみて、そう言えば自分が歌詞など聞いていないことに俺は気付いた。「音」と「声」には敏感なのに、コトバには。
「どんなのだよ」
「…うーん…」
コノエは頬を軽く人差し指でひっかく。
「あまりこうゆう所では言いたくないですな」
「こうゆう所?」
「ファンな方々が多そうではないですか」
「ふーん…」
じゃ後で聞くことにしよう、と俺は改めて耳を傾けた。
それにしてもいいギターだ。歌詞が聞き取れないのは、このギターのせいもある。どうしても耳が、ギターの音に吸い寄せられてしまうのだ。
何でだろう。
歌詞を聞こう聞こうと思う。歌を。メロディを聞こうと思う。なのに、結局俺の耳はギターの音に傾き、視線はギタリストに向いてしまう。
背の高い、長い髪を無造作に結んだ、ギタリスト。整った顔だけど、目つきが決して良くない…
「すごく真剣だったから、声掛けられなかったよぉ」
タキノはRINGERのステージが終わると、オレンジジュースを口にしながら、俺にそう言った。
「そうだったか?」
「そうですな。途中からワタシもそういう気が失せましたな」
コノエまでそう言う。言いつつも、俺達の目は我らがクラスメートの動向を追っていた。
「それでも前の方に行ったりすることはないんだね」
と、頬杖をつきながらタキノが言う。さすがにこうも俺達がチェックしているから、彼女にまで奴がどれだか最近では覚えられてしまった。
「そりゃ個人的にお知り合いなら、別にわざわざ自分の存在をアピールしなくてもいいでしょう?」
あっさりとコノエは答えを返す。
「そういうものかな」
「そういうものじゃないですかね。ああいうのは、お知り合いになるまでが楽しいってこともありますしね。まあお知り合いになってからも楽しいんでしょうが… やや意味合いが違ってくるでしょう?」
「と言うと」
「ただのファンのうちは、夢を持っていられますよね。ただ好きでいればいい。届かない代わりに失望もしない。それはそれで、一種のとても幸せな状態ですな」
「…結構辛辣だな」
「そうですかね」
そりゃ無論、奴が結構辛辣な中身を持っているのは知っているけど。さすがにこうさらりと口に出されると、…それもこんな場で。
「別にねカナイ君や。それが悪いとかいいとか言ってるんじゃないですよ。…それで満足できれば、それはそれでいいんですってば。ただ満足できなくなる場合もあるでしょ」
「と言うと?」
更に俺は重ねて訊ねた。
「とっても、好きな場合」
「だったら俺達がなる心配はないだろ」
「そうですかね」
「何だよ、そのそうですかね、ってのは」
奴はウーロン茶を一口含む。そしてまた、視線をマキノの方へと向ける。ベルファのステージが始まっていた。遠くで、だけどマキノの視線はじっとステージにだけ注がれている。静かな熱意。
「何となく、ですよ」
奴は再びウーロン茶を口に含んだ。