2-2 図書室から「ワタシの部屋」へ
結局その日は行くのは止した。だけどそうそう昨日と同じコースをたどるだけというのは面白くない。だけど早々に家に帰るのは…気が進まない。
そんな訳で、とりあえず俺達は図書室へ行った。カバンで席を確保し、本を求めて奴とは別行動を取る。
俺は高い本棚が並ぶところへと探索に出かけた。本棚の向こうには、高い窓が丸い曲線を頭に描いている。夕方の光。
三十年四十年くらい前に出たミステリやSFが当たり前のように棚に並んでいる。最初にこの図書室に来た時、この当たり前さに感動したものだった。
借りる本ととりあえずこの場で読む本を物色して、とっておいた席に引き返す。
別に家に居るのが嫌という訳ではない。だけど帰ったところで何があるという訳ではないのだ。だがやはり帰るべきところは家しかない。
勉強――― しなくちゃならないのかもしれないが。ただつい持ち上がりを中学高校とやってきてしまうと、どうも勉強というものに対する緊張感というものが無くなる。そう悪くもないからよけいに。
べらべらと数ページを読んでいたら、机の向こう側に気配があった。顔を上げると、見覚えのある奴。
「帰らないの?」
サエナが目の前に立っていた。
「何か用ですか?先輩」
「幼なじみにそういう言い方ってないでしょ」
「先輩は先輩でしょ。今は同じ学校だし」
そういうと彼女は両手を机についた。
「電話してもいつもいないし。おばさまの話じゃ、最近あなた帰り遅いんですって?」
「まあね」
「あまり誉められることじゃあないわよ」
うるさいな、と俺は本を閉じる。お前に誉められたくて行動してる訳じゃないんだ。いくら生徒会長さまさまと言っても。
「で、サエナお前、何の用なの? 本当に。用がないなら、俺帰るよ」
「え…」
彼女はやや戸惑ったような声を上げる。
「さっさと帰る。それなら問題ないだろ?」
「…ええまあ…テストも近いんだし…」
それじゃ、と俺は「先輩」に向かってさよならをすると、本を閉じ、貸し出しにさっさと向かい、図書室から出た。
金属の、塗装のはげた古めかしい丸いノブを回すと、軽くぎい、という音がした。途端に目に夕陽が飛び込む。
悪い人じゃないのだ。それは知っている。
サエナは幼なじみだ。家が近かったし、親同士が元々仲がいい。小学校に上がる前から度々遊んでいた。面倒見のいい年上の彼女に、俺はその昔、ただくっついていた分だった。
だが俺はこの学校に小学校から入ってしまい、彼女は普通の公立へ行った。
まあそれはそれでいいのだ。学校違っても遊ぼうね、で済む次元なのだ。楽しい優しい頼もしい女友達。自分の学校で起きた厄介な問題も、結構一つ上ということから自分なりの解決法を考えてくれる優しいお姉さん代わり。それはそれで良かったのだ。
それだけだったら、俺はずっと彼女を姉のようにして楽しくつき合っていられただろう。俺には兄貴しかいなかったから、頼りになる女のきょうだい(のようなもの)は居心地の良い存在だった。
だがそう思っていたのは、俺だけだったらしい。
彼女がうちの高校を受験すると聞いた時には驚いた。反射的に俺は、嫌だ、と思った。何か判らないけど、ひどく、嫌だった。
だがサエナは優秀だった。うちの外部入試に、おそらくはトップで入っている。その後の成績も、内部も含めてトップを通しているのだから、間違いないだろう。
あの性格だから、教師達のおぼえもめでたく、何かと先頭切って走ろうとするだろう。そんな性格のおかげで生徒会長。…この学校では、女子では初めての。
そして彼女は俺が高等部に上がってから、わりあい気軽に声をかけてくる。持ち上がりのようなクラスメートの大半は、意外というように目を向ける。良くも悪くもない。それ自体は。だけど、何か、嫌だったのだ。
彼女の向ける言葉、視線、仕草の一つ一つが、昔とは違う。確かにまだ姉さんめいてはいたけれど、何かが違ってきている。
無言の、メッセージ。…俺に向ける、何かしらの感情。
あなたは弟じゃない。私はあなたの姉じゃない。
…そんなことをつらつらと考えていたら、後ろから頭をはたかれた。夕方の光に、その髪がいつも以上に明るく透けて見える。苦笑する顔。
「ひどいじゃないですか。置いてくなんぞ」
「あ、ごめん」
そういえば、一緒に来ていたのだった。コノエはおどけた顔をして肩をすくめる。
「ふくはら会長さまとお友達なんですかね。なかなか意外な」
「ねーさんみたいなものさ」
「サエナ嬢、美人ですな」
「そうなのか?」
「そうですよ」
あっさりと奴は答える。珍しいことだ。クラスの中の誰もそういうことを言ったことはないのに。
「ああいうね、流行を全く気にしないのに美人ってのは珍しいんですよ」
「へえ。そういうのが趣味?」
「いや別に。彼女は客観的に見て美人。ワタシの趣味は一人しか居ませんから」
そんなことを言って、やや芝居がかった調子でうっとりと目を閉じて両手を胸の前で交差させる。
「…本当に好きなんだなあ」
「ん?」
「タキノのこと」
「そりゃあまあ。あれがいなかったらワタシは生きてはいけないですからね。それを好きというならワタシは彼女がとても大好きなのでしょう?」
…俺は頭を抱えた。何か論法が変な様な気がするんだが…
「ま、それはそれとしてね、カナイ君や。ライヴ行く気もなくぶらつく気もないんなら、うち、来ますかね」
「…お前んち?」
「そう、ワタシんち」
ふらり、と明るい髪が揺れた。
「ワタシんち」は、学校最寄りの駅を真ん中にはさんで、点対称くらいの場所にあった。わざと蔦をからめてある、十五階建てのケーキのクリーム的な壁のマンション。
カードキーを通して、パスワードを押して入り口が開く。ちょっとばかり時代がかった感じを心がけてるのかと思ったら、中はハイテク。何かアンバランスだ。
「三階ですからね、歩いてきましょうな」
「エレベーターがあるのに?」
「好きじゃないんですよ」
何だかなあ、と俺は思う。そう言えばこいつは学校以外のところ――― エスカレーターや動く歩道があるような所でも、そういうものには近づこうともしていない。
毛嫌いするような言動は見せたことがないが、やや俺は不思議に思ったことがある。
扉の前まで来たら、今度はポケットからじゃらじゃらと音をさせて、金属の鍵を取り出した。幾つかついたそこから一つを選び出し、やや重たげな扉を開けると、そこには女もののサンダルが転がっていた。
「…ああまた脱ぎ散らかして」
え?
それをきちんと揃えるコノエを見ながら、それが誰のものだか、俺は記憶をたどっていた。
「あ、お帰りなさい」
…予想通りの声がした。靴を脱ぎながら、ぴょこんと顔を出す彼女にコノエはひらひら、と手を振る。
「ただいま。誰も来ませんでしたかね」
「うん誰も。七匹のこやぎのように来ても黙ってるよ」
「あれは食べられてしまうでしょ」
そうくすくすと笑いながら、奴は出迎えるタキノを抱き寄せる。最初に会った時のようだ。そうしてやっとタキノは俺に気付くんだ。あ、居たの、と言いたげな調子で。
「タキノも、来てたの?」
結構広い板張りの部屋に落ち着くと、俺は彼女に問いかける。すると彼女は不思議そうに首を振った。何でそんなこと聞くのか、というように。
「ねえ、言ってないの?」
「ああ… そう言えば、言ってなかったですねえ」
何をだ。何となくこの二人の会話というのは、時々言葉を省略しているようなところがあって、聞いてる俺には要領を得ない時がある。
「あたしは、ここに住んでるの」
「お前ら同棲してんのかよ?」
反射的に言った俺に、彼女はあはは、と笑いを飛ばす。大きなクッションの上にちょこんと座った姿は、何やら可愛らしい。
「違う違う。一緒に住んでるけど、同棲とは言わないじゃない。きょうだいだったら」
「そう言えば言わなかったですかね。名前だけ紹介すればそうゆうものかなあと思ったんですがね」
「…だってお前ら」
立て続けに言う奴らに、俺は言葉を失う。だってお前ら、何となく…
「あ、別に血はつながってないですからね、そうゆうことはそうゆうことで」
コノエは俺の言いたいことをさっさと先取りしてくれる。
「いろーんなお家があるの。だからあたしはこのひとの妹だけど違うの。それだけ」
タキノはタキノで、にこにことそんなことを言ってくれる。その他愛なさと、当たり前のような口調が、それ以上の質問を俺の口から封じ込める。
「ま、でもそれはキミにはあまり関係の無いことだしあまり関係あっても危なくなりそうだからきっとワタシも忘れたんでしょうな」
そしてコノエはコノエで。
何やら、物騒な単語か耳に入ったような気も、するが―――
「ま、てきとーにその辺のものでも見てて下さいや」
奴は立って、キッチンへ向かった。タキノはクッションにちょこんと座ったまま、奴が途中で買ってきた雑誌の袋をがさがさと開けている。
そういえば、何やら奴が読むとは思えないような製作系ファッション誌だと思ったら、彼女のためだったのか。何やら部屋の隅にはミシンのケースもある。
この部屋は一人で住むには確かに広かった。六畳を三つくらいつなげたようなワンルームに、キッチンルームとバスルーム、それにロフトがついている。天井も結構高い。
基本的に床は板張りで、普通のシングルの倍くらいありそうなマットレスが、一つは使われた様子で、もう一つは畳まれて壁と仲良くなっていた。使われた方のマットレスには、掛け布団が掛かったままだが、その下のシーツの乱れが、妙に生々しく感じられる。
と、ぴた、と頬に当たる冷たい、濡れた感触に俺は声を上げて飛び上がった。顔を上げると、真っ赤なアルミの缶。その上に奴の整った顔が、あった。
「ほい、コーラでいいですかね?」
「…サンキュ」
「あたしにも」
「もちろん。ほら」
コノエは彼女の頬にもぴた、と缶を当てる。気持ちよさそうに彼女は目を細める。そのまま頬に当てた缶は、くるくると回りながら彼女の鎖骨まで降りた。俺は思わず見入ってしまった自分に気付いて、赤面してしまう。
転がされた缶は、すとん、と彼女の手の中に入った。そして奴はその彼女の横に腰を下ろした。ぷし、といい音がして、缶が開く。
「そういえばカナイ君や、こないだワタシ、例の彼氏見たんですがね」
「例の彼氏?」
「ピアノの。我らがクラスメートのマキノ君」
「そりゃ見ることくらいあるだろ」
クラスメートなんだから。
「いやそうじゃなくてですね、キミ知ってましたかね。中町にACID-JAMってライヴハウスがあるんですけどね」
「あしっどじゃむ」
何やら奇妙な響き。音面は綺麗なのに、どうも内容は物騒なような。
「そこで?」
「彼氏を見かけた、と。ちょうどあれは何のバンドの日でしたかね、タキノ? 14日の」
「14日?ああ、ベルファだよ」
「べるふぁ?」
タキノは即座に答えを返す。俺は聞き覚えの無い名前に、繰り返す。
「BELL-FIRSTってバンドがあるんですがね。結構これが上手いんですよ。テクニックが確か。ワタシは結構好きですねえ… おや何か不服そうな顔」
悪いか。眉を寄せ、俺はコーラを一口含む。
「お前ら一体一ヶ月に何本行ってるんだよ?」
二人は顔を見合わせる。
「一ヶ月に何本ってねー…」
「まあ行けるものは行ってますよ、ワタシらは。アンテナに引っかかったものは」
「そうそう。そうゆうものは見られるうちに見て置かなくちゃ損損」
そういう問題ではなくて。高校生がそんなに遊び歩いていてよく余裕があるな、と言いたかっただけなんだが。
だが確かに、奴らにはそういう問題は無さそうだった。この住まいを見ても判る。この広さに、こんな暮らしを(血がつながっていないという奴の主張を信じたとして)都心できょうだいだけでやっているというのは、…結構な実家なんだろう。
「で、そのベルファのライヴに行った時でしたか。カウンタのとこで、何やら見覚えのある可愛い少年が居るなあと思ってましたらね、それが何と、我らがクラスメートの、ピアノ弾きのマキノ君だった訳で」
「じゃあこっち側の音楽も好きだったんだろーなあ」
「でしょうな。結構見た目には似合わず。それと、どーもあのバンド自体とも結構仲がいいみたいで」
は、と俺は目を丸くした。そんなことまで。奴はふっと缶を揺らすと、視線を宙に飛ばした。
「なぁんかですね、終わった後我々は、動いた後の美味しい食事を求めて中町のあたりをさまよってたんですが、その時にたまたまベルファのメンツと同じ店にたどり着いてしまったんですな」
…偶然かよ。眉唾だ。だが奴はそんな俺の考えには気付いてか気付かずか、続ける。
「そしたら居ましたね。メンバーと、カウンタ美人の方と、それとマキノ君が」
「へえ」
カウンターのおねーさんにまで気付くあたりがさすがというか。
「で、お前、あいさつの一つでもしたの?」
「誰が?」
「お前が」
「まさか。確かにあのバンドは結構好きですがね、そういうプライヴェイトを壊す程ワタシは無粋ではないですわ。それに当のマキノ君、賭けてもいいですけど、絶対ワタシのことなんか覚えちゃないですよ」
「嘘」
「だから賭けますかね?」
俺は顔をしかめた。こいつがこんな風に言うのなら、勝算があるのだろう。そういう奴だ。四月から一ヶ月半ほどつきあってきたが、さすがに判ってくるもんだ。
「彼氏、どーも今居る場所にキョーミも関心も持ってませんねえ、どうやら。もったいないことで。花も実もある人生なのに」
「…お前時々えらくじじいになるのね」
「いやん。まだ枯れてなんかないもーん」
すりすり、と彼女はコノエに抱きつき、俺は脱力した。