5-1 いい人必ず対象には
危ない、と俺は手を伸ばした。華奢な腕は、すっぽりと手の中に入ってしまう。
何だ何だと言いたげに、猫の目をした奴は、俺の方を向いた。前方には側溝。もう少しでマキノは足を突っ込むところだった。
ふう、と溜め息を一つついて俺は手を離す。
「お前ねえ、絶対睡眠不足か栄養不足だよ… ちゃんと寝て食ってる?」
飛び込む朝の光に、奴は目を細める。
「食ってるだろ?だいたい最近お前と何回メシ食った?」
「まあそれはそうだがな」
実際俺は、最近実によく、マキノと食堂で会っていた。
時々ピアノ室にも行く。人が居ようと居まいと、奴の腕は確かだった。
だけどあの日以来、あのタキノが「レクイエムじゃない?」と言った曲は弾いていない。
奴の好みは、結構柔らかな音色のゆったりした曲らしく、次第に短くなっていく夕暮れの光の中、穏やかにその音は古いその部屋いっぱいに広がっていくようだった。
そしてそういう時の奴も、結構綺麗に見える。お世辞ではなく、元々形的に整ってる奴なのだ。
ただ、ピアノの前以外の場所では、どうも何やら気力という奴が少なく見える。だらだらとしている訳じゃないけど、かと言って、何かを進んでやろうというタイプにも見えない。
と。
「あらお早う」
サエナが、旧校舎から新校舎への渡り廊下を行くところだった。会計の女の子を連れている。
「お早うございます、先輩」
俺より早くマキノはそう返した。たぶん俺は実に気むずかしい顔になっているだろう。どうしても、彼女に向かって、単純にいい顔ができない。
彼女はマキノに気付くと、にっこりと笑いかける。こういうことろが彼女は実によくできている。俺に何かしら言いたいことはあるだろうに。
「…ああこの間の。…もしかしてあなた、こないだ私に嘘ついた?」
「ええ、すみません。緊急事態に見えましたので」
奴はさらさら、とそう答える。まあ確かに嘘ではない。
「いいのよもう。でも、仲がいいのね」
「同じクラスですから。それに、最近はバンド…」
ふっと彼女の視線がきつくなった。マキノはそれに気付いたのか気付かないのか、そのまま続ける。
「…の練習を見学するのも楽しいかな、と」
「メンバーじゃあない訳ね」
「ええ」
「忠告しておくわね。バンドはやらない方がいいわよ」
「どうしてですか?」
奴は目を少し大きく見開き、いけしゃあしゃあとそんなことを聞く。確かその理由は俺から聞いていたはずなのに。
「どうしてもこうしても… ここはそういう学校でしょう?」
当たり前のようにサエナは言う。そしてマキノは――― 笑っていた。くくく、と含み笑いが、そのあくびをした猫の様な表情の中に浮かぶ。サエナもさすがにその様子には眉をひそめた。
「何がおかしいの」
「そういうこと言うのは、会長らしくないな、と思いまして」
俺は弾かれたようにマキノの方を向いた。サエナの声がやや低くなる。
「私らしくない?」
「だってそうでしょう?あなたは外部入学の人で、この学校にはこれまで女子の生徒会長はいないって聞いても立候補して、当選した人じゃあないですか。伝統を伝統としてそのまま認める人ではないと思っていたんだけど」
「あなた」
「マキノです」
俺はそのやりとりに結構驚いていた。少なくとも、目が離せなくなっていたことは事実だ。マキノは冷静にそれだけ言って、言ってしまった後もなおも冷静だ。
サエナは――― 平気をとり繕ってはいるが、内心動揺していることは、俺には判る。衣替えした上着の袖の下、握りしめている指の先が白くなっている。彼女のくせだ。悔しい時には、手を思い切り握りしめる。
そしてマキノはまた、実に冷静。
「マキノ君ね。覚えておくわ」
「ありがとうございます」
奴はとびきりの笑顔を彼女に返した。俺はなかなかその様子を見て、驚いていた。なので、思わず、そのまま教室へ行こうとする奴の肩を掴んでいた。奴は何、と問い返した。
「マキノさあ… お前って、もしかして、実はすごく性格悪くない?」
すると奴は実にいけしゃあしゃあと。
「悪いよ。知らなかった?」
ああ知りませんでしたよ。全く。
*
結局俺達は、一時間目の授業をさぼってしまった。
食堂でブリックパックを買って、ピアノ室の床に座り込み、お互い適当な方を向きながら、いつのまにか何となくだらだらと喋りだしていた。
やがて話は、外での続きになった。サエナの話題だ。
どうやらマキノも、サエナがこの学校では浮いた存在ということは気付いていたらしい。だからこそ、「人を覚えない」奴がクラスメートの俺よりもちゃんと把握していたのだろうが。
そして俺は、今まで誰にも言っていなかったことを言う。コノエにだって、他のクラスメートにだって言っていない。
「あれはね、俺のことが好きなの」
「あれ、ってサエナ会長?」
「他に誰が居るよ?」
「あの会計の子」
「ばーか、あれはサエナが好きなの。お姉さまって感じ」
俺は肩をすくめた。ああいう子が、彼女の回りには多いのだ。奴はは、とやや呆れたような顔で空を見上げた。
「はあ、なるほど。まあそんなものだね」
「大体俺は、ああいうのはタイプじゃない」
「へえ。お前でもタイプってあるの?」
ふ、と俺の脳裏に、白い腕が浮かんだ。だがその持ち主までは、浮かばなかった。その気配をうち消すように、俺は片目を細めた。
「お前ねえ… 本当にいい性格してやがる。こういうのがタイプじゃない、ってのは判るよ。だけどこれがタイプってのは…あいにくわからん」
「ふーん…」
そして俺は、ずっと聞きたかった質問を口に出す。
「お前はどうなのよマキノ、お前は」
俺? と奴は目を大きく拡げる。
「笑ってごまかすんじゃねーぞ?」
奴は苦笑する。唇の片側だけ上がる。言っていいものかな、という表情だ。
「驚かない?」
「驚かない」
だって俺は。ただ。
「BELL-FIRSTのトモさん」
奴の口からその言葉はするりと飛び出した。何の迷いもなく。
俺は五秒ほど動きを止めた。答えに驚いた訳じゃない。だって俺はその答え自体は初めから知っている。驚いたのは、その答えが奴の口からこうも簡単に出てきたことだ。
そして俺の口からは。こんな台詞しか出てこない。
「冗談はよせ」
奴を軽くこづく。口が乾いて仕方がない。俺はブリックのコーヒーを含んだ。
「だってカナイ、お前もRINGERのギタリストさんが凄いとか言ってなかったっけ?」
「馬鹿やろ」
吐き捨てるように、俺は言う。それとこれとは別だ。―――別だと思う。
「別にからかってなんかいないよ」
「あのなあ。俺は単純に憧れてんの」
奴の目が意味深に動く。
「そりゃ俺は、ギター弾きじゃあないから、ギターだけじゃないなあ。楽器弾きじゃないから、歌うことしかできないけれど―――」
そして俺はほんの少し、考える。俺は、どうなりたいんだろう。憧れている。だけど。
「俺はね、あの人と対等に話せるようになりたいんだよ」
「対等」
「そうだよ、対等。俺いつも思うもの。…あのさ、ライヴハウスに来る女どもって居るだろ?」
うん、と奴はうなづく。
「あれってさ、結局、別の次元に居るって感じ、しねえ?」
「別の次元?」
「うん。そりゃさ、例えばファンでも、コアなファンでさ、追っかけって類?…打ち上げとかついてきて、結局寝てしまうこともあるっての、あるじゃん」
俺は慎重に、言葉を選ぶ。あるね、と奴は答えた。
「でもそれって、結局、スターとファンの関係に過ぎないだろ?」
「スター――― ってお前、その言い方…」
「うるせーっ! どうせ俺はボキャブラリィが少ないよ!」
俺はやや赤面する自分を感じる。言葉を選んでいる時に、そう指摘されるのは、なかなか辛い。
「とーにーかーくー、バンドの奴は相手をファンとしか見ないし、ファンは相手をバンドの人とかしか見ないだろ? もし寝たとしてもだよ?」
言ってからしまった、と思う。この例えだとちょっとまずいかも。とにかくまとめに入ろう。
「俺、そういうのは嫌だから」
「でもファンから本当に深い仲になる場合だってあるだろ?」
「あることはあるさ」
だって、お前は。
「だけど俺は、嫌なの、俺はね」
「カナイは、嫌なんだ」
奴は真顔で訊ねる。
「お前はいいの?」
慎重に訊ねる。
だって俺は知っている。奴がそのものだ、っていうことは。
「俺は――― 別に。双方結局好きならいいんじゃない?」
そして終わりよければ全てよし、と何処かの国の作家のようなことを言う。少しばかり奴は視線を空に飛ばした。俺は何か奴にもう少し聞きたいような気がしたが――― 何を聞いていいのだか、判らなかった。
そして逆に。
「あのさあ、カナイは、誰かを好きになったこと、ない?」
心臓が、飛び跳ねた。俺はえ、と問い返した。
「憧れじゃなくて、欲望つきの奴」
急な質問に、返す言葉が無くて、黙っていたら、奴は無いんだろ、と決めつけた。
さすがに俺も少しばかりかちんと来た。
「お前はあるのかよ」
「あるよ」
マキノは即座に言い返した。
「今年初めてだけど、俺はあるよ。欲しくて、欲しがって」
「あ、そう…」
「そういう時まで、そんな建て前守っていられる?」
建て前? 建て前と言うんだろうか。
時々考える。決して間違ったことは言っていない、考えてないと思う。それは自分の本心だと、思う。なのに、それは時々、人からしたら、建て前のように聞こえるらしい。
建て前。そうかもしれない。俺が口に出すのは、だいたいにおいて、俺の努力目標みたいなもんだ。こうなりたい自分。こうしたい自分。そういうものが、口をついて出るのだ。嘘ではないが、確かに建て前なのかもしれない。
だとしたら、俺には、それを越えてしまう瞬間というのがあるのだろうか。
この一見大人しそうな奴が、あのベーシストさんにそうしたというのだろうか。
「判らん」
思わず俺はつぶやいていた。奴への質問への答えだけではない。自分自身に対しても、俺はそう言っていたのかもしれない。
「でもその時は、その時だ」
奴はそれを聞いて、くくく、と笑った。俺は何だよ、と顔をしかめる。
「で、どうなの?カナイ」
「何が」
「サエナ会長。彼女、お前のこと好きなんでしょ?」
俺は思わず頭をかきむしる。
「あのなあマキノ… さっきのその、お前の話の流れで行こうか。俺はサエナは嫌いじゃない。だけど、欲望は持てない」
ああ、と奴はうなづいた。
「いい人なのにね」
「いい人だよ」
全くだ。それについては、異論のはさみ様がない。何せ、判ってしまうのだ。例えば、何気なく見せる姿。嬉しそうな表情。彼女なりの、アドバイスという奴。あちこちから、彼女の思いという奴はこぼれていく。
だけど、やはり哀しいかな、俺としては、彼女に対して、そういう目で見ることはできないのだ。
サエナの腕も、細くて白いのかもしれない。だけど、きっと俺は、その白さには心を動かされることはないのだ。