4-2 訃報あり
気がついたら、足はACID-JAMに向かっていた。そう言えば、一人で来たのは初めてじゃないか。もう時間が時間だったので、幾つかのステージが始まり、終わっていた。
俺は別に目当てのバンドがあった訳じゃないので、まっすぐカウンターの方に向かった。ふわふわした髪が視界に入る。ナナさんだ。
「あれキミ。カナイ君?」
「ナナさん、久しぶり」
「どうしたの、何か、顔白いじゃない」
ライトのせいじゃないの、と俺は思ったが、反論する気もなかった。ナナさんは何か言いたそうだったが、何も言わず、何にする、と訊ねた。
俺はジンジャーエールを頼むと、一口口に含む。炭酸の口当たりが、ひどく気持ちいい。そのままプラコップを頬に当てる。水滴が、頬を濡らす。
「マキノ、今日居ます?」
「…ううん、いないのよ」
「最近、奴見ないですよね」
「…うん」
ひどく、口調が重かった。それが混乱のせいで、何処か変に張っていた神経に触れた。
そう言えば、ナナさん自身も何か雰囲気が重い。そう話すことはなくても、ちょくちょく目にしていた、あの明るい彼女とはやや違う。
理性が戻ってくる。嫌な予感。
「ねえ、学校で話すこと、今でも無いのかなあ? カナイ君、あの子と」
「こないだちょっと喋りましたよ」
「ちょっと」
「俺ちょっと、女の子に追われていたことがあって。奴がたまたまピアノ室に居たんで、かくまってもらったんですよ。それでやっと俺のこと覚えさせた」
「あの子らしいわ」
くす、と笑う。だけどそれはまだ重い。
「君も女の子に追われるなんて、なかなかじゃない」
「ま、ちょっとね」
彼女はカウンターに両腕をついて、ぐっと俺に近づく。綺麗な眉の下のくっきりとした目が、急に真剣味を帯びる。俺は反射的に避けようとしたが、彼女の手の方が早かった。髪なのか、コロンなのか、そんないい香りまでが、感じられる。
「真面目な話、あの子と話せるようになったのね?」
「え? あ、ああ」
「だったらお願い。いつでもいい。あの子をここへ連れてきて欲しいの」
俺は眉を寄せる。目の前のナナさんは真剣な声、真剣な目。嘘はついていない。
「何が、あったんですか」
更に接近する。髪が耳に当たる。そして囁かれた言葉に、俺は、再び身体が冷えるのを感じた。
「…嘘だ」
「嘘じゃないわ。こないだの雨の日よ。まだ、内輪にしか知られていないけど」
あのベーシストが―――死んだ?
人混みの中、マキノが熱っぼい目で見つめていた、あのベーシスト。黒い上下の、背の高い。名前は確か―――
「トモさん、って呼ばれてた」
「そう彼」
ナナさんはうなづく。
「その話はここじゃ詳しくはできないけど――― でも何処だって一緒よね。あの子、確認に来たらしいんだけど、それからずっと、ここに顔出していないの」
「奴はしょっちゅう来ていたんですよね」
「三日明けることが無い、みたいなもんよね。そうじゃなくても、トモ君の部屋にはちょいちょい行っていたみたいだし」
「…台風の日も?」
ん、と彼女の形良く描いた眉が片方上がる。ぴん、とおでこが弾かれる感触に俺は顔を上げる。そして目を細めて、彼女は両方の口元を上げた。
「見ていたな」
「すいません」
「謝ることはないわよ。うん。あの時はね、まあ…あの子家に戻ったところで誰も居る訳じゃないらしいから、彼が連れて帰ったのよ」
「バイクを乗せて?」
「トモ君は絶対に人間は後ろに乗せなかったからね。事故に遭った時に、人を巻き込むのはごめんだって」
そして彼女の言葉が途切れた。
「そういうこと言ってるから、いけないのよ。あの子でも乗せて走っていれば、も少し…」
「ナナさん」
「うん、そう…で、あの台風の日は、あの子は彼の部屋に泊めたらしいけどね。まあ前からちょくちょく泊まってはいたから、他の所よりはあたし達も安心だったしね」
「可愛がられてるんですね」
「あの子は可愛いわよ。君とは別の意味でね」
俺はやや自分の顔が赤く熱くなるのを覚えた。さすがにこういうところが、年上の女性、なんだな、と思う。
年上の女性。
考えてみれば、サエナもそうなんだよな。
不意に彼女の顔が浮かんだ。
だけどナナさんとサエナじゃさすがに年季が違う。それはたぶん、年齢という問題ではない。
決して母親的というのではないのだけど、ナナさんは俺やマキノあたりなど、異性としては全然意識していないように見えるのだ。
「どうやって奴はベルファと出会ったんですかね」
聞きたくなった。そこまで言われる程、奴はここでは生き生きとしていたのかもしれない。俺の知らない部分。俺は知りたくなっていた。
コノエのことを全く知らなかったこの反動かもしれないけど。
「最初は、あの子が終演後の、この近くで絡まれていたことよ。ちょうど通りかかったから、皆で。偶然と言えば偶然なんだけど」
「確かに偶然ですね」
「でもそれで気に入ってしまったからね。あたし達の方が、あの子を可愛がっていたから。やってくればとにかく裏に連れ込んでたもの。あ、変な意味じゃないわよ」
はいはい、と俺はうなづく。
でもちょっと待て。
「ねえナナさん」
はい? と彼女は首をかしげる。髪が、ざらりと揺れる。
その時、その質問は、ひどく自然に、俺の口から出ていた。
「マキノは、彼のことが、とても、好きだった?」
彼女の表情が、凍り付く。
俺は氷でずいぶんと薄まったジンジャーエールを飲み干す。
「どういう意味で言ってる? カナイ君」
「どういう意味も。そのまま」
ただの、ベースの師匠と弟子ではなくて。
「どうしてそんなことが考えられる? 君は」
「ナナさんは、どうしてそんな言い訳をしたの?」
変な意味だ、なんて。そんなこと言わなければ考えつきもしない。普通なら。
弁解をするのは、何処かにつながるものがある時だ。
「君は…」
「だから、マキノが来ない、と思っているんじゃないの? ナナさんは。奴は、来られないんじゃないかって、思ってるんじゃないの?」
カナイ君、と彼女は苦しそうに言う。だけど、俺の言葉は止まらない。
「そういう関係だったんじゃないの?」
「それ以上、ここで言うんじゃないわよ」
そうだね、と俺は黙った。
*
だがそう彼女に言ったはいいが、実のところ、そういう関係、が具体的にどういう関係なのか、俺には判らなかった。
確かにあのベーシストを見る奴の目は何やら強いものがあった。好きなのかな、と思う。好きなんだろう、と思う。
だけど好きだから、と言ってそれがどういうつき合いになるのか、具体的な図が浮かばなかったのだ。
だって。俺は思う。だって、マキノは男だし、あのベーシストも男じゃないか。だとしたら、それは。
だがナナさんが口にしたのは、確かに、それを意味していた。
俺は閉店した後の店で、それを聞かされた。
おかげでコノエのことでこんがらがっていた頭が、それどころではなくなってしまった。どうやら俺の単純な頭は、二つのものごとを同時に悩むことはできないらしい。
それから数日、コノエは学校を休んだ。
奴はクラスの内外でもその成績といい容姿といい、目立つ。だが特定の友人という奴が意外にも殆どいないので、質問の矛先は俺に回ってくることが多かった。
だがその原因は俺が聞きたいくらいだ。彼女の存在を喋ることができない以上、俺に応えられることは何もないのだ。
何となくそんな周囲の声が鬱陶しくて、結局俺は休み時間には教室の外に居ることが多かった。
廊下の所々に、文化祭のポスターが貼られている。そのポスターの最初は、校内の公式掲示板だった。その横には、こないだのテストの結果が張り出してあった。…意外にも、俺は一二位に入っていた。そんなに勉強した覚えはない。苦手の英語の成績も上がっていた。やはりそれは、トップに名前のあるコノエのせいだろう、と思わずにはいられない。
一体何があったというんだろう。視界に奴の姿が無いというのは、ひどく気にかかる。
だがもう一つの気がかりが視界に飛び込んできたら、さすがにそっちのことはとりあえず横に置いておかなくてはならなかった。大人な女性の頼みは断れまい。
講堂での催し物の出場者募集のポスターの前に、俺はマキノを見つけた。
「何見てんのマキノ?」
俺は奴の後ろからそうっと忍びより、いきなり肩を掴んだ。そして驚かすつもりが、驚いた。何って華奢な肩。
だが平静なふりをして、向こう側のポスターをうかがう。
「あ、俺もこれに出るのよ」
「君が?」
奴は振り返る。
「そんな意外そうな顔せんでもいいでしょ?バンド組むの、バンド」
すると奴は驚いた。どうやら、俺が楽器の一つもできないことは知っていたらしい。ヴォーカルというと納得した。
「でも君声がいいから、いいかもな」
「お世辞?でもサンキュ」
俺はそう返した。奴は曖昧な笑みを浮かべた。だがその表情からは、何も読みとれない。
それから俺は、コノエの居ない間の、持て余す程の暇を、バンドのメンバーと、マキノと一緒に居ることで埋めていた。
バンドのメンバーは、結局クラスの友人達だった。今原と木園と西条の三人。特別仲がいいという訳でもないが、何せ小学校からの馴染みだ。よく放課後に食堂で、どうでもいいことを喋ったりして時間をつぶすことのできる奴らだった。
だが皆楽器に関しては、素人も素人、どがつく程の素人だった。音を合わせようとするたび、苦笑せずにはいられなかった。そして、楽器とはそうそう簡単には上達しないものだ、と思い知った。
ナナさんの話によると、マキノはベースがずいぶん早く上達したらしい。だがそれはどうやら、適性というものがあるようで、俺とそのバンド仲間には使われない言葉のようだ。
休み時間が、放課後が、やけに長く感じられる。バンド仲間と、マキノの間を往復していても、何か物足りない。授業中の背中が、落ち着かない。
…いい加減出てこい、コノエ。