兄が土産と称して魔王を持って帰宅した件とその顛末について
勢いで書きました(-_-;)
内容はタイトルに集約されているとおりです。
*
十日前に魔境の境界線まで遠征に出掛けてくると言い、引き止める間もなく飛び出して言った兄が先刻、帰宅した。
因みにここで言う遠征とは、兵士が行うような正式なものでは無い。
身内で使われる『兄の気まぐれ狩猟本能のもとに行われる遠方への旅』の通称である。
無事に戻って何よりだと思うより以前に、ドアの耐久度が気になる私。
いつも通りドアを破壊しそうな勢いでノックする兄に溜息を零しながら出迎えた。
ちょっと待て、先週も一枚破壊したばかりだろうと内心で思いながら。
冬の月の被害が三枚に抑えられたお陰で、気を緩めていたのが災いしたのだろう。
春の月を迎えてからというもの、すでに先週までで七枚のドアが使いものにならなくなっていた。
ドアを壊すのは何も兄だけに限らない。
弟も先々週に帰宅した際には、立て続けに二枚壊していた。
その折は兄が自分の日ごろの行いを棚に上げ、弟に説教をしていたので、無言でチロルをけし掛けておいた。
滅多にない私からの号令に、意気揚々と体を膨らませたチロル。
次の瞬間には、チロルは特大の炎で兄の頭頂部を吹き飛ばしていた。
容赦ない。
流石にそこまでしろとは言ってないんだが、チロル……。
そんな私の内なる声は、あまりの惨事に放心してしまった兄には届かない。
髪が復活してこないと叫び、泣きながら家出した兄。
知り合いの魔術師の家へ駆けこんで、泣き付いたらしい。
翌日にはケロリとして帰って来たのが、今よりひと月前のことである。
この時は、数日して魔術師から菓子折が届いた。
面白いモノを見せて貰った礼だとメッセージが添えてあった。
兄の交友関係に一抹の不安を抱く私である。
これ以上ドアの犠牲を増やさぬよう、足早に駆けつけて開いた先。
そこには爽やかに片手を上げる兄。そして小脇に抱えられた謎の麻袋。
その麻袋の大きさと膨らみに半眼になる妹。
今日も何か、拾って来たらしい。
「ただいま、リズ。戻ったよ」
「見れば分かるわ、兄さん。……おかえり、今日は何?」
「ああ、これかい?」
兄はどこか得意げに麻袋を掲げ、縛っていた紐を解くなりテーブルへ中身を転がした。
「今夜は………オオカミ鍋だ!!」
兄はその時、胸を反らせて鍋宣言をしていたので転がった中身を見ていなかった。
だからこそ、その瞬間に生じた奇妙な沈黙にすぐには気付かなかったのだろう。
兄は、私が何も言わないことに疑問符を浮かべ視線をテーブルの上へ向けるなり。
困った様子で、私に問うた。
「……これは、どういうことだろう?」
「……私が聞きたいわ、兄さん」
兄妹がそんな遣り取りをするその横、テーブルの上。
それはどこからどう見ても、オオカミではなかった。
麻袋から、齢十ほどの少年が意識を失ったまま転がり出ているのである。
ついに兄はやらかしたのだろうか。
疑いの眼差しを向ければ、兄は本当に困惑した時にしか見せない表情で固まっていた。
……うん。これは何か手違いがあったらしい。
思い直した私は、取り敢えず少年の様子を見る。
細かな擦り傷は沢山あるものの、どうやら危急性のある傷は見当たらない。
いつの間にやら、少年の傍まで近寄っていたチロルが鼻を近づけて匂いを嗅ぐなり、全身の毛を逆立てて部屋の隅へ縮こまってしまった。
……何事?
何時にないチロルの反応に、疑問を抱いて再び少年に視線を落とす。
一見したところとても可愛らしい容姿の少年ではあるが、よくよく見ればその腕には独特な紋様が見て取れる。
唐突かもしれないが、私には解析のスキルがある。
簡単に言ってしまえば、大体のモノを見ればそれが何であるか分かるというものだ。
このスキルを使用している時は、普段の茶褐色の目が不思議な色彩に変わるのだと兄や弟は言う。しかし自分でそれを確認したことはない。
というより出来ない。
解析の間、私の目はそれを見ることにしか使えないからだ。
鏡越しに解析している自分の目を見ようとしても、同時に鏡の解析が始まってしまうので自分の目をそもそも認識できないというのが主な理由。
だから私に唯一解析できないものがあるとすれば、それは自分自身ということになる。
話しが大きく脱線してしまった。
何しろ、少年の腕の紋様を見た瞬間から悪寒、冷や汗、何で寄りにも依っての三拍子。
思考が飛び掛けるのを必死に冷静に保とうと思ったら他のことに意識を向けるくらいしか咄嗟に思いつかなかったのである。
何故か?
それは解析によって明らかになった少年の素性に、頭痛どころか半ば放心しているからに他ならない。
やはり兄は兄である。
幼少の頃から、兄はとにかく色々なものを家に持ち込むことが多かった。
それに影響を受けたのか、弟もまた拾い癖がついた結果がつまり妹の頭痛の種である。
兄五歳の折、家中が血塗れになった『野獣捕獲後、持ち帰って来たよ』事件。
兄十三の折、『扉を開けたらそこは屠殺場でした』的な朝の一幕。
偶然通りかかった友人のエルーカはそれがトラウマになって今も時折夢で見るとぼやいていた。それでも友人でいてくれる懐の深さに常々感謝している。
……思えば兄は今日に至るまであんまり成長していない。
何か大体血塗れ。そしてその後始末は自分主動になる。
本来なら、全て片づけさせればいいのだろう。
けれどもあの兄に、事後処理を任せれば何が起こるか分からない。
この十余年あまりにして悟った妹である。
まず、深呼吸してみよう。
先程から腕の震えが微妙に止まらないのだ。
こんなことならまだ、兄が犯罪に手を染めたという流れの方が救いがあったかもしれない。
その時には全力で弟と共に粛清し、警吏につき出して更生への道を歩ませるだけで済んだ。
それさえも夢霞の如く。
目の前の現実は、少女にまざまざと伝えていた。
これ、魔王。
魔族の中心を束ねる王族の頂点にして、魔境を統べる長。
容姿はともかく、この子の腕に彫られた刺青は隠しようも無い事実を伝える。
………どうしたら魔王を家に持ち帰るなんて事態が起こるの?
我が兄ながら、もはや理解の及ぶ範囲などとうに突き抜けている。
彗星の如く帰宅した兄が麻袋から土産と称して転がした中身が、魔王。
しかもこれ、兄自身自覚してないんです。
今も逃がしたオオカミを思って空を仰いで悔しがっているもの。
それを私にどうしろと。
そもそもどうして解析してしまったの、私。
お陰で当人が気付く前から理解してしまった。
何時の間にやら当事者になっていませんか。
え、何この理不尽。
目覚めた瞬間に終わりの流れですよね、これ。
生きてますもの、魔王。
せめて、せめて……兄よどうしてこんな所だけ詰めが甘いのか。
………魔王を生け捕りって。
この事後処理を知る人がいるなら、今すぐに飛んで来て欲しい。
解析した時点で、このカオスの起因は私の頭の中でぴたりと嵌っていた。
兄はオオカミを捕まえていたのだろう。
確かに、それはオオカミだった。
やたらと禍々しいオーラを纏った漆黒のオオカミだったことでしょう。
けどね、兄さん。そのオオカミが魔王だったの。
きっと壮絶な死闘が繰り広げられたのでしょうね。
何時になく兄が衣服をぼろぼろにしているくらいだから。
けど、魔王相手に図らずも戦った結果が服がぼろぼろ程度で済む兄……
きっとご近所の勇者候補ミカエル君が聞いたら泣いてしまうだろうな。
兄は寄りにも依って気楽に狩に出たその先で、魔王と鉢合わせしたのだろう。
歴代の勇者たちが聞いたら卒倒する事態でしょうね。
道行けば、魔王。
そんな恐ろしいことが現実に起こるだなんて誰も予想できない。
「………むー、折角禁猟区のじいさまを出し抜いて大物を仕留めたと思ったんだがなー……なんでこんな坊主に入れ替わってしまったんだろう……」
ごめんなさい、やはり兄の所為です。
これは全面的に兄が悪い。
ぶつぶつと呟きを零す兄を伸べ棒で叩きのめすことに、一縷の躇いもありませんでしたが何か?
床に転がった兄を一瞥し、チロルに弟を呼びもどす様に号令。
待ってましたとばかりに翼を広げて飛び去っていくチロル。
現状、この家の中にいるのが余程に嫌だったんだろうな、と思われる勢いでした。
その背中を見送って、やれやれどうしたものかなと結局思案する自分。
ん?
この状況はおかしいと思われる?
まあ、兄相手に普段なら掠り傷にもならないでしょうね。
けれども解析を使っている間の自分なら、油断している兄を背後から仕留める位は造作も無いことなのです。
ああ、目が疲れた。
これほど頻繁に使ったのは久方ぶりです。
目の疲れは肩にもくるって本当ですね。身をもって実感します。
立ったまま肩をくるりと回して、未だに意識の戻らないテーブルの上の魔王と床に転がる兄を交互に見た後はとりあえず戻ります。
うん?
もちろん夕食の準備ですよ。
伸べ棒を持っていたのも、別にそのまま手にしていたもので殴ったに過ぎません。
全ては生地をこねている途中に空気を読めずに帰って来た兄の因果です。
水できれいに洗い流して、清潔な布巾で拭き取った所でようやくごはんの支度に戻ります。
やれやれ、といった心境でこねておいた生地を丸く整えた後は、中に香草と保存しておいた雉肉を詰めて再度丸めます。
これで蒸し焼きにすれば庶民派料理として名の知れた『キムジー』の完成。
本当なら手を休めている暇など自分には無いのです。
時間を無駄にすることは、貴族様の特権。
私たち一般庶民は日々の糧に感謝しながら、限られた時間で仕事をこなしていかなければ生きてはいけませんから。
兄がまともな食料を運んでこなかった今回は、もれなく普段通りの食卓メニューです。
ん?
けして根に持っているわけではありませんよ。
少し残念に思っているのは事実ですけど。
育ち盛りの弟が不平を零したその時は、兄を差し出せばいい話ですから。
それから数刻ほど経って、遠くから戻って来る羽音を聞いたと思った時には。
ものすごい衝撃と共に、振り返った先のドアが破片を散らして大破していくのが見えました。
その原因を考えるまでも無く把握した少女の内心は、冒頭を思い出して頂ければ分かるとおりである。
弟よ、お願いだから物はもう少し大切にしてほしいと思うの。
だからこれは教育的指導だ。
ドアの惨状を知覚したと同時に振り抜かれた伸べ棒は空を裂き、見事な正確さをもって弟の額を直撃する。
もはや少女の半身と言っても過言ではない伸べ棒は艶やかな光沢と強度を保ったまま、傷一つ無く床へ転がった。
歩み寄ってそれを拾い上げた少女は不甲斐ない弟と、未だに起き上がらない兄とやはりテーブルに転がったままの魔王を見て溜息を零す。
「……チロル、魔王の事も合わせて伝えたのね」
「………キュ」
弟の様子を見た限り、おそらく様々な誤解と想像を抱いて家に駆けつけてきたことはなんとなく伝わった。
ただし、それはドアの破壊とはまた別の話だ。
幾ら焦っていたからと言って、ドアを壊してまで駆けつける意味は全くない。
鍵が掛かっているわけでもないのだから。
何度言ってもそこを理解しない兄と弟を持つ少女の苦労は昔からまったく変わっていない。
「ごめんね、チロル。言葉が足りて無かったね。……取り敢えず、裏の納屋からスペアのドアを持って来ておいてくれる?」
「……!…… キュウ!!!」
そんな青ざめて震えないで、チロルさん。
魔王はテーブルの上だから。
それとも、ここで君を叩きのめすほどに私は普段の行いがあれなのかな………?
何だか見ていて哀しくなるから、できれば超速で飛び出していかないで。
まるで軍隊みたいに掲げた翼がきっちり直角だったのが気になる。
君はそういうものをどこで覚えてくるんだろう。
それから裏の方で再び轟音が聞こえてきたけど、きっと気の所為だと思う。
この世の終わりみたいに鳴き声を上げたチロルさんの声が物悲しい。
………スープ、新しく作り直そうと思っていたんだけどな。
やれやれと嘆息した。
布巾を椅子に掛けて、家を出た少女。
向かった先で納屋が屋根ごと崩れ落ちているその光景に絶句するまであと僅か。
それから様々な苦悩はあったものの、埋もれていたチロルの救出とスペアのドアの発掘を終えて戻ったのが日が暮れて薄闇に包まれ始めた頃のこと。
チロルさんが私を見上げる目に、生命の危機的不安が宿っているのがありありと分かる。
私よりも遥かに大きく成長した今も、こういう部分は幼獣期と変わらないのだから不思議だ。
チロルが本気になれば、私など一瞬で灰燼に帰すと思えるのだけれど。
刷り込みって、間違えれば洗脳に近いかもしれないな。
そんなどうしようもないことをつらつらと考えつつ、全身を震わせたままのチロルさんを連れて家に戻ってみれば。
家の中で、すでに何かが勃発していた。
「子供だからと言って容赦はしないよ!!! お前のお陰でオオカミ鍋がおじゃんになったこの恨み、その身をもって償え!!!」
「ちょ、兄さん!! たんま、待って。それ子供違う。何で気付かないのさ、鈍感兄!!」
「……ええと、取り敢えず落ち着いて……?」
既に三人とも目を覚ましていた。
そして目を覚ますなり、どうやら兄は怒りの矛先を麻袋に入っていた少年こと魔王に向けたらしい。
大人げない。
何も知らぬ第三者から見ればそう言われるであろう光景。
しかも肝心の魔王が宥めに入っている。これではどちらが大人か分からない。
というか、全くもって魔王には見えないね、少年。
そんな二人の間に入って兄を必死で止める弟。
それもそうだ。こんな一般家屋で最終決戦とか何の冗談だと言いたい。
ここは良識的な弟をもったことに安堵すべきところか、それを上回る勢いの愚直な兄をもったことに嘆くべきなのか。
究極の二択である。
「ちょ、リズ姉!!! 見てないで止めてよ。結界を張るにも両手がふさがってちゃ話にならないよ。え、まだ怒ってるの? スペアのドアの代金は後で請求する? ………分かったよ。こんな時でも冷静だね姉さん………じゃなくて!!それどころじゃないよね?! 早く手伝ってよぉ!!」
弟の必死さに免じて、早々に片を付けることにした。
取り敢えず、ここでまず沈めるべきは兄一択。それ以外無いと判断してちら、と見下ろした先。
取り敢えずこれで良いかな、と抱える。
多少の被害はこの際目を瞑るしかない。
背後にいたチロルさんが、慌てて部屋の片隅へと潜り込むのを感じ取りつつ。
よっこらせと振り上げたそれで、兄と少年の間を物理的に遮断する。
思ったよりも勢いが付いて床に突き刺さったそれは、破片と砂埃を巻き上げつつ、即席の壁になる。
もはや使いものにならなくなった、我が家のドアのなれの果てである。
弟は沈黙し。
チロルは部屋の隅でガタガタと震えて縮こまっている。
呆けた様子の魔王を横目に、青ざめた兄に微笑んで告げる。
「………兄さん? そろそろ夕食にしたいの。騒ぎたいなら外でお願い」
数刻後。
掃除を弟に託し、スープを温め直しにかかった。
食卓の準備を終えた少女は、ようやくその日の最後の糧に感謝を捧げていた。
普段ならば『キムジー』と作り置きのスープ、付け合わせの林檎一つでは弟から文句が出る並びである。
しかし、珍しく何も言わない。
視線を向かいに向ければ、然もありなんと少女は納得した。
今宵の食卓は、四人分。
魔王と囲む食卓で、普段通りの会話を出来るかと言われれば普通は否である。
ドアを用いて収拾した騒ぎの後、家の中はしん、と静まり返っていた。
あ、これは少しやり過ぎたかも知れないと少女が内心冷や汗を流している間。
それは庭の夏虫の輪唱が聞こえるのみの、それはもう完全なる沈黙の中から勇敢にも口火を切ったのは、事の発端にあたる人物の声だった。
魔王その人である。
「すみません、空気を読めていないのは分かるんですけど……あの。ここは何処で、あなたたちは誰なのか聞いても?」
魔王の思いがけない発言に、声を失う少女と弟。
そして一人首を捻る兄。
「………?」
「兄さん、まさか奇襲だけで顔を見られていなかったとかいうオチなの?」
「そんな、馬鹿な……いくら兄さんとはいってもそれは無いでしょ……」
少女の問い掛けに続いて、弟が信じられないといった風情で呟きを零す。
「……うーん? というか、結局オオカミは何処に行ったんだろうなぁ………」
暫くして呟かれた兄の言葉に、少女と弟は文字通り絶句する。
勿論この時の、二人の内心は同じ叫びに満ちている。
………え、まだそこなの………?!!
兄、ヴィー・エルドール・エイム。
十二歳の時に公国の騎士試験を最年少で突破し、将来を確実視されながらもその身についた放浪癖が故に僅か二年の騎士団在籍の後に帰郷。
現在はフリーの猟師を名乗りながら各地を転々とする楽天家。
たとえ一時期であれ、騎士であったからには魔物の討伐も仕事の一部。
魔力値の測定は一般常識。
そう思ってきた少女と弟はまさかと思いつつ、今になって確認する。
「ねぇ、…兄さん。一つ聞いてもいい?」
「何? お前が俺に聞いてくるなんて珍しいな、ラース」
ラース・エルミタージュ・エイム。
弟は兄が帰郷するのと入れ替わりで、公国の魔術師試験をこれもまた最年少で突破した鬼才である。
幼少からその貪欲と言っていい知識欲を以てして、ありとあらゆる知識と技術の理解と習得に長けていた弟は兄とは違った意味で村でも目立っていた一人だ。
幸運なことに兄とは違って放浪癖に身を窶すこともなく、現在は上級魔術師の一人として公国の西側の守護を任されている。
そんな彼を呼び出すことになったのは、まさに今回の事態がその流れ次第で魔境と公国の全面戦争の引き金にならないかと危惧した為である。
そして呼びだされた弟は、最悪の事態を想定して駆けつけたのだろう。
我が家のドアを犠牲にして飛び込んできた弟を迎えたのは魔王と兄の死闘ではなく、姉の手から放たれた強烈な一撃だったと。
つまりそんな予測不能な流れの後で、とうとう明らかにされたのは兄の真実だった。
「魔力測定、出来るよね?」
「………いや、する必要も無いと思ったし。なんか苦手なんだよね、あれ」
いや………苦手なんだよね、あれで済む話なのか。
仮にも元騎士が、魔力測定もせずに魔獣の討伐を行っていたという衝撃の事実に弟は耐えきれなかったらしい。
テーブルに突っ伏したまま、再起不能になった弟を同情の眼差しで見る少女。
そしてなんだかよく分からないが、重い空気に一層気まずげに縮こまる魔王。
空気読めてるな、この子。
向かいで少女は魔王を観察しつつ、スープを啜る。
そしてふと、思った。
もしかしてと一抹の不安の様な期待を抱きつつ、魔王である少年へ問いかける。
「あの、事情を話す前にあなたの名前を聞いても?」
「あ、そうですよね。僕の名前は…………」
沈黙。
これは予想した通りの展開かもしれないと思い始める少女。
ただ首を傾げたまま事態を見守る兄。
未だにテーブルに沈没したままの弟。
そんな彼らの向かいで、続く筈の言葉を出せない少年はとても魔王には見えなかった。
ひどく困った様子で俯き、暫く頭を掻いていた少年はやおら諦めた様子で顔を上げる。
「…………すみません、何と言えばいいのか」
「…………忘れたんですね?」
「………そうみたいです」
「……… って………ええええええ???!!!」
あ、沈没していた筈の弟が復活して来た。
此方は予想していたより早い。
何にしろ、これで状況は出揃った。
兄が家に持ち帰って来た魔王はどうやら記憶を失くしたらしい。
この事態から、まず言えることを纏めたい。
取り敢えず、現時点で魔王からの報復の虞は回避された。
馬鹿正直にオオカミ鍋にしようと思って襲いかかった挙句、持ち帰って来ましたと懇切丁寧に説明しない限りは大丈夫だろう。
これは考え得る限り、最善の顛末である。
しかしながら良い面だけで終わる話など、現実にはそうそう無い。
勿論今回もその例外には当たらない。
記憶を失くしたことで、今日が最期の日になることは免れた。
しかし、それがいつ戻るとも限らないのは勿論のこと。
そもそも、記憶を失くした魔王が魔境へ帰ることは出来るのか?
道のりは勿論、果たして本人は自分が魔王だと知らされて素直に受け入れるのだろうか。
そこは甚だ疑問である。
「姉さん、まさかと思うけど魔……この子、記憶喪失なの?」
意識して語尾を濁した弟に、内心安堵する。
確認しながらも、弟もまた事態を正確に把握していることが窺えた。
「この反応を見る限りはそうなんでしょうね。……ラース、一応聞くけれど。魔境までこの子を送り届けるのは無謀かな」
「…………本気で聞いてる?」
「やっぱり八方塞がりか……仕方ないね。今回兄の仕出かしたことは本人の首だけでは済まない話だものね」
「…………基本的に姉さんは兄さんに冷たいよね。けど、結局いつでも後始末をつけるのは姉さんだ。自覚ある?」
返答の代わりに、苦笑する。
それでも、通じるものはあったのだろう。
「兄さんへの説明は任せて。姉さんにはその子を任せるよ」
ラースはそう言い置くなり、未だに首を傾げたままの兄を引き摺って庭へ出ていく。
普段なら引き摺るなど体格差もあって到底無理な弟も、時折火事場の馬鹿力的なものを発揮することがある。
何気ない日常にも、不思議は満ち溢れているのだ。
「仲の良い兄弟ですね」
「………そう見えるのね。うーん、全面的に肯定するのは難しいわ。あれでも昔はしょっちゅう殺し合いに近い喧嘩を繰り返していたから。あ、でもそれを考えると今は大分落ち着いて来たと言えるのかな………」
仮にも魔王と、こんな風に言葉を交わしている今も大抵不可思議だ。
「随分待たせてしまったけれど、事情を話すわね。ただ、初めにこれだけは伝えておく。貴方には少しの非も無い。悪いのは兄です。……もしこの話を聞き終えた後、貴方が望むなら記憶を取り戻すその日まで、この先暮らしていく為の援助をさせて貰いたいの。これはせめてもの償いで、私たちが思いつく限りの誠意でしかないけれど」
「でも、それは………分かりました」
言い掛ける少年を、目だけで制する。
実際それでも釣り合わない。
兄は、それだけのことを彼にしたのだから。
そして、卑怯だと分かっていても細部を暈して伝えた経緯。
少年は疑う様子も無く、ここまでの次第に耳を傾けた。
最後に頷いた少年は、ある希望を告げる。
それに頷いて、私は再度彼に謝罪した。
『魔王』だった少年は、その謝罪を受け入れた。
その日以来、記憶を失くした『魔王』は魔境と公国の境にあるエイム家に居候することとなった。
それは当人がそれを希望したためであり、それに纏わる経緯はエイム家の住人以外に知る者はいない。
兼ねてから有名であったエイム家に、奇妙な同居人が増えたらしいという風聞は公国の西一帯にあっという間に広がっていった。
エイム家。
それは知る人ぞ知る名家である。
当主夫妻は伝説の勇者と聖女。
その長男は当代一と称される騎士として名を馳せ、将来を勇者候補として期待されながらもその放浪癖から公国騎士団より自主除籍を申し出て、帰郷した後はフリーの猟師を名乗って各地を点々とした揚句、行く先々で伝説級の魔獣の討伐を行う流離人。
そして二男は国でも五指に数えられる上級魔術師に最年少で上り詰めた鬼才。
その若さにして、実力は折り紙つき。数々重ねた魔術改良の功績を認められ、公国と魔境の境にあたる西地区の守護者を任じられた。
彼はその兄と合わせて公国の双璧と呼ばれている。
そして、エイム家に唯一生まれた娘。
リズ・スカラティーヌ・エイム。
彼女は国にその能を所望されながら、両親と双璧によって尽くその身を守護されたエイム家の秘奥である。
彼女が持つ『解析』のスキルを、国の中枢では次のように呼ぶ。
森羅万象の神眼
文字通り、神が持ち得る万物の理を見る目のことである。
彼女の身を守るのは、彼らだけでは無い。
純白の翼を持ち、その全身を覆う鱗は歴戦の戦士の剣も通さぬ鋼の強度を誇る最強の魔物。
少女がチロルと名付けたそれは、世界で数えるほどしか生息を確認されていない古代竜の裔である。
そして新たに加わったのは、魔境を統べるものとして公国から次のように呼ばれる人物。
『魔王』
一つ屋根の下、彼らの日常は世界の行く末を握っていると言っても過言ではない。
ただし、その当人たちがそれを果たして自覚しているのかは、甚だ疑問である。
チロルさんも拾われてきた一人です。(・・・一匹? 一頭?)
こちらは弟君の顛末で語れれば、と思っています。
8/7誤字訂正致しましたヽ(´o`;