01
ユーフォリア〔Euphoria〕多幸症
5月。麗らかな光の差し込む、昼休みの教室。
ゆっくりと昼食を摂りながらのお喋りに、球技に興じる男子の歓声が窓の外から混じる。
そんな穏やかな、中学校の午後――。
「ねー、さやちゃんさぁ、いい加減呪詛はやめてご飯食べようよ」
「だって信じられない、あんな奴がいたなんていたなんていたなんて……」
窓際の一番後ろ、二つの机を合わせた席に、平和な昼休みを満喫していない少女が二人。より正確に言うと、満喫していないのは肩につく髪をかきむしっている鳥居莢花のみであり、既に昼食を済ませ、長い黒髪を梳かしている三嶋瑞梨は彼女の呪詛に付き合わされているだけであった。
こんな光景は1年1組では少々珍しかった。普段の彼女たちの立場は、どちらかと言えば今と逆なのである。突っ走るのは瑞梨の常で、それを宥めるのが莢花の常。だからこそ二人の姿は目を惹き、ちょっかいをかけて来る命知らずな輩もいた。
例えば1組随一の熱き報道魂を持つ和園明、通称・園明。果敢にチャレンジスタート。
「よーよーよー、鳥居ちゃんに三嶋っち。どうしたどうした、何かあった!?」
馴れ馴れしくも陽気に、莢花と瑞梨の間に割って入る。しかし莢花は、そちらに視線を寄せることすらしなかった。
「黙れソノアキ、このアホンダラ」
「ぎゃふん」
「今日日なかなかぎゃふんって言わないね」
「今日日ってのもなかなかどうかと思うぜ三嶋っち……」
それでもめげない男、和園明。少女らの冷たい言葉に一度は沈むものの、すぐさま立ち上がり猫撫で声で詰め寄る。
「鳥居ちゃんつれないなぁ。珍しいじゃんか、鳥居ちゃんが昼飯食べないでさぁ」
「欲しけりゃくれてやるわよ」
莢花が殆ど手付かずの弁当を無造作に差し出すが、
「ノンノン、俺が欲しいのは記事になりそうなオイシイ新鮮なネタ! 天下の鳥居莢花がそんなダークな空気背負っちゃってるから、こりゃ何かあるんじゃないかと踏んだ訳だ」
正解!? とでも言いたげに人差し指を向けてくる和園。いつもなら「天下のって何よ~」と笑って流す莢花だが、この時ばかりは事情が違った。その指をぐっと握る。和園の笑みが凍りついた。
「この指折られたくなきゃ、アンタの労働力をあたしに献上しな」
「ろ、ろうどうりょくっすか~……」と途端に勢いを失う和園を見て、やっぱり親友の枕詞は『天下の』だわ、と思う瑞梨であった。
それは今朝のことだった。
いつまでもいつまでも夢に浸っていたいと思うのは、思春期ならば誰しも覚えのあるモラトリアムであろうが、彼女の場合、夢とはすなわち将来ではなく睡眠を指す。
高校生の兄と小学生の弟、そして共働きの両親は、互いに家族の寝坊には関与しない。自立こそが鳥居家の金科玉条だからである。
――と言うのは建前で、単に意地悪なだけよ!
始業に間に合うか間に合わないかの、ぎりぎりの時間。陸上部の脚力を見せてくれる、と自転車を漕ぐ、漕ぐ、漕ぎまくる。
――もしも莢花がパンをくわえて走っていたのなら、次の瞬間恋が始まっていたのかもしれない。もしも、相手が転校生であったのなら。
そもそも二人が、出会いがしらにぶつかっていたのならば、という仮定の話は、まさしく仮定の話でしかなかった。
莢花は朝食米飯党であり、可愛らしく駆けると言うよりは鬼の形相で自転車を漕いでいた。そして相手も莢花同様に自転車であり、また転校生ではなく、更に狭い路地から標識を無視して飛び出し、慌てて急ブレーキをかけた莢花をひらりと避けたのだった。
「っっぎゃあ!」
バランスを崩した莢花は、咄嗟に目の前に迫った電柱に、足をかけた。ぎゅむむっとブレーキを握り締める。引き攣るような停止の音は、彼女の抗議を表すかのごとく響いた。しかし、本人はブレーキ音の代弁で済ませるほど仏ではない。足を振り上げた体勢も忘れ、飛び出してきた男に猛抗議を――そう、男だった。正しくは、学ランを、莢花と同じ中学の制服を着た少年。
電光石火の速さで口をつこうとした怒号が押しとどめられたのは、一瞬見蕩れてしまったからだ。朝陽に透けた薄い色の髪。くっきりとした二重瞼の、大きな眼に、強い光が見える。
こんなひとが、同じ学校にいたのかと思った。
どうして今まで気付かなかったんだろう、気付かないでいられたんだろう。すらりと伸びた背、手足。少し開いたカラーに付けられた学年章は同じ1学年であることを示しているのに、クラスの誰とも違う存在感がある。
まるで3年の神埼先輩のようだと、このとき莢花は感じ入った。生徒会長として全校の女子から無数の熱視線を集め、また男子からの信頼も厚い、あの中3にして完璧な空気を背負った彼に、どこか似た雰囲気があると。
抗議しようとして口を開けたまま、じっと見つめる莢花を、少年もまた見つめていた。光を帯びた眼がすっと細められ、どきりとする。
しかし、自然発生した期待感は呆気なく潰れ果てた。
「なんだ、スパッツかよ。色気ねえ」
そう吐き捨てて、一瞬にして硬直した莢花を置き捨てて、少年は自転車を漕いで去っていったのである。
電柱から足を下ろすこともできないまま、莢花はただ呆然とするのみだった。
りーんごーんがーんごーんごんごんごん……。
遠くで、始業のチャイムが虚しく響いていた。
『天下の』鳥居莢花は、この恨み晴らさでおくべきかとばかりに拳を握り締めた。
「そいつが一体誰だか探して欲しいのよ! あたしそしたら、一生そのクラスには近寄らないから!」
しかし、口を挟む余地もなく話を聞いていた瑞梨と和園は、きょとんと互いの顔を合わせたのだった。
「それって、あいつみたいだなぁ三嶋っち……」
「外見描写はねぇ、ソノアキ。でも……」
「うーん、でも、あいつが、かぁ?」
「性格描写はまるで真反対ねえ」
どうやら即座に同じ人物に行き当たったらしい。それはそれで少し拍子抜けするもので、莢花は毒気を抜かれた気分で二人を制する。
「ちょ、ちょっと待って。なに、そんなすぐに判るものなの? 話聞いただけで?」
どう説明したらいっかなー、と口に手を当てて考え込む和園を、莢花は初めて見た。上唇と下唇をくっつけたら死ぬんじゃないかと評判の、和園明なのに。
そんな彼が至った結論は、
「実際見てみた方が早いかもしんないなー」
百聞は一見に如かずってな、と言いながら、和園が示したのは耳だった。とんとん、と自分の耳をつつく。「一見に如かずなんじゃないの~」と茶化す瑞梨をぺいっとはたいて、
「鳥居ちゃん。耳、澄ましてみ」
窓辺の席では当然、校舎の外の物音がよく響いてくる。球技に興じる男子の声、時折混じる女子の歓声――それは先程よりもやけに主張気味の、黄色い悲鳴。
ぴくりと動いた莢花の眉を見て、和園は得意げに言い放つ。
「な、あれ」
「あれって何よ」
「だから、それ」
「それって何よ」
「あのお嬢さん方の視線の先を五郎次郎」
「それを言うならご覧じろよ」
「さすがは三嶋っち」
瑞梨と和園の応酬を放置し、莢花は窓枠に腕をかけた。
1年の教室は二階にある。そこから校庭にいる人々の表情を、しかもその視線を追うというのはなかなかの困難であったが、それでもすぐに、理解した。「お嬢さん方」はみな一様に、一つの――一人のいる方向を向いていたからだ。「彼」が駆ければそちらに悲鳴、「彼」が立ち止まればそのまま悲鳴。女子の歓声をそれほど集めることが出来るのは、莢花の知る限りではたった一人であったが。
「神埼先輩、じゃないわ――ね」
「うん、神埼先輩は今は生徒会室でご公務中」
呟いた言葉に返事が返ってきた。差し向かいの友人は、食後の袋菓子を開けながら、さも当然のような顔をしている。
「瑞、みっちゃん、あんた……ストーカー?」
「んまあ失礼ね! さっき通りがかったら生徒会が会議してたの見てただけよ。まあ確かに先輩はストーキングされても不思議じゃなかろうけどさ」
「おいおい三嶋っち。お前がストーキングで捕まったら俺情けなくて記事に出来ないからな」
「しなくていいしね。お前って呼ばないで。で、莢ちゃん肝心のひとは見えたん?」
「え? あぁ、ここからじゃちょっと遠くて顔までは。――でも、つまり、あの歓声の的があたしの探してる奴だって、そう言いたいわけね?」
鳥居ちゃん貸そうかオペラグラス、やだわソノアキこそストーカーっぽいじゃない、などとふざけあっている二人は、ふざけるついでに頷いた。
「そうそう、外見描写だけだったらばっちり。レベル神埼龍彦なんてそうそういないもん」
「つうか鳥居ちゃんが知らないってのが意外だよなあ。灯台下暗しとはこのことかね」
あまりの言われように、莢花は和園の取り出していたオペラグラスをひったくった。確認し、そして証明したかった。彼らの見解は間違っている、と。
(あんな性格の悪い奴が、あんなにもてる訳がない!)
確かに他のクラスの生徒のことなんて、まだあまり詳しくないけれど。
レンズを覗き込み、まばたきをする。校庭でサッカーに興じている男子たち。その中で、動くたびに女子の歓声を集める一人にピントを合わせる。
「でも性格的にはほんと真反対だよな。この和園明の知る限りじゃあ、奴はそういうタイプじゃないが」
「誰の知る限りでも、じゃない? 少なくともこの一ヶ月そういう話は聞かないわねえ」
訝しげな会話を背中に、莢花はそっとオペラグラスを下ろした。
「あれ――あいつ、何ていうの」
「1年4組の鷹本透だよ。神埼龍彦が3年のプリンスなら、さしずめ奴は1年の星だな」
「何か表現が古いよ報道部」
「三嶋っち酷――おわあ!?」
振り返るなり、騒ぐ和園のカラーを鷲掴む。それをそのまま引き寄せた。
「どっどっどうしましたか鳥居ちゃん、鳥居嬢、鳥居姐さん」
冷や汗を浮かべながらホールドアップ体勢を取る少年は、ぎらりと光る少女の眼に全てを悟ったであろう。
莢ちゃん怖いよ、と笑う呑気な瑞梨に、『天下の』鳥居莢花は低い声を洩らした。
「瑞、ソノアキ――あたし、4組にはいっっしょう行かない」