話し方
さすがにご飯だけでは味気がないだろうと考え、直人はインスタントのみそ汁も月乃のために用意した。結局、毎朝直人が取っている朝食と同じ献立である。
月乃は初め、熱いみそ汁とご飯にたべにくいです、と悲しそうな顔をしていたが、慣れてくると箸が進むようになり、十分ほどでぺろりと一食分を食べきってしまった。そうして出てきた言葉が、とてもおいしかったです、となれば直人としてもうれしい限りだ。これから毎食餅を出さなければならないわけではなくなったのだ。直人が内心で胸をなでおろしていると、でも、と月乃が口を開く。
「やっぱり、お餅のほうがおいしいです」
軽くなった気持ちが再び重みを増す。結局、定期的に餅を買う必要はあるようだ。
「それでも、この食べ物もとてもおいしかったです。こちらの世界ではこういうものを毎日食べるのですか?」
笑顔でそう尋ねられると、直人は目のやり場に困る。恥ずかしくてその顔を直視できないのだ。
「えと、ぼ、僕は、まいに、ちかな」
「どういうことです? 食べ物はこれだけではないのですか?」
首をかしげながら月乃は訪ねてくる。どうやら、食品はこれ一つと勘違いしているようだ。
「ま、まだ、他にも、た・・・くさん、あるよ、この、世界には」
「本当ですか? 他にはどういったものがあるのですか?」
勢い込んで訪ねてくる月乃に、直人は困った表情で一歩体をひいてしまうが、月乃はお構いなしに迫ってくる。直人は「ちょ、と、待って」といってから、冷蔵庫に向かう。そこには、先ほど月乃のために買ったアイスがあった。
冷蔵庫からアイスを取り出し、包みを開けて月乃に差し出すと、「なんです、これ?」といって首をかしげた。
「た、べるもの・・・」
直人がぎこちなく説明する。月乃はしばらく直人の手にあるアイスを不思議そうに観察していたが、やがてゆっくりと手を伸ばし、直人が示す木の棒をつかむ。それからよく見えるようにアイスを回転させ、アイスを三回転させたところでようやく口をあけてその角を少しかじった。
「つ、つめたいです」
目をきゅー、とつぶって呟く。直人はあまりに冷たそうにするものだから、少し心配になりあたふたしそうになる。
「あ、でも、とっても甘いです」
しかし、そんな月乃の言葉でほっと一安心できた。そのあと月乃は、一口ごとに冷たそうに目をつぶっては、しかし最終的には幸せそうにアイスを食べていた。
そんな月乃の様子を見ながら、直人はまだつけっぱなしになっているテレビに視線を向ける。そこでは、どこだかわからない大学の教授たちが熱心によくわからない理論を語っていた。
月からクレーターというクレーターが消えたというニュースで、世間はてんやわんやだった。正確には月にめだった凹凸がなくなっただけではないのかという説もあったようだが、どこだかの天体観測所からとった拡大写真を見る限り、今まであったクレーターがなくなったということで間違いがないようだった。
テレビのなかの学者たちはプラズマだの月の地盤変化だのよくわからない理論を延々と語っているが、直人にとってはどうでもよかった。どういう原理でクレーターが消えたかはわからないが、消えた理由は今じぶんの目の前でアイスを食べていた。それも少女の姿をして。
神の仕業かはたまた単なる現実が重なったか。どちらにしても現実離れしすぎていて信じられなかったが、とにかく目の前にそれは存在している。もちろん少女がウソをついている、もしくは事実とは異なったことを語っている可能性もあるが、それにしては話が出来過ぎている。どう考えても、この少女が語っていることが真実だというのが一番単純で明快な答えだった。
ただ、やはり疑問は残る。もし少女が語ることが真実だとして、どのようにして少女はここへ来たのか。月ではウサギの姿のはずだったのになぜ人間の姿でいるのか。そして、なぜここへ来たのか。
しかし、直人にとってその質問を月乃にぶつけるのは東西ドイツ時代のドイツ国民がベルリンの壁を超えるよりも難しいことだった。なにせ今まで自分からまともに話しかけたことなど一度もない。基本月乃に話しかけられて、その受け答えすらもたどたどしい状態なのだ。自分からまともに話しかけられるなどできるはずもない。
まだアイスを食べている月乃を見ながら、直人は心の中でため息をついた。結局なんの疑問も解決せず、さらにこれからどうしていけばいいのかもわからない。形的には今月乃と二人暮らしという状態だが、このまま月乃を家においてもいいのか、それとも警察に届け出るべきなのか。そして、月乃はいったいどちらを望んでいるのか。
そんな直人の思考を遮ったのは、アイスが溶け出して服にアイスのしずくが落ちてうろたえ出した月乃だった。直人は急いで服を拭きながら、心の中にもやもやを仕舞い込んだ。
直人が月乃に対してどうすべきか迷っているうちに時間は過ぎ、時刻は午後三時となっていた。もちろん月乃の興味が尽きることなど一度もなく、直人は延々と質問攻めにあい、その合間になんとか月乃の服と餅を通販で即日注文し、今日の夜には近くのコンビニに注文した商品を取りに行くことになっていた。昼食は直人がいつも食べているカップラーメンを出したところ、初めて見る麺という食べ物に戸惑いつつも、しっかりと完食した月乃であった。
そんなこんなで、現在はどうしているかというと、月乃は直人の隣に座り込み、パソコンの説明をせがんでいた。直人がプレイしているギャルゲーに興味を持った月乃は、もちろん全く物おじすることもなくゲームについて質問を次々と投げかけてきていた。直人はこんな状態でゲームなどやりたくなかったが、隣で月乃にせがまれるとやめることもできない。
「この中には、たくさんかわいらしい女の子がいらっしゃるのですね」
月乃がパソコンの画面を見つめながら呟く。直人は何と返していいかわからず、キーボードを操作して画面を進める。
「あの、直人さん、少しいいでしょうか?」
黙ったままキーボードを操作していた直人は、指を止めて、どうしたのかと月乃を見る。まだ名前を呼ばれることに慣れておらず、顔を直視することはできないが、相手の首元を見つめればいいのだとどこかの面接練習で聞いたことを思い出して底に視線を送るようにすれば、何とか顔を月乃に向けることはできるようになった。
「なにか、私にいけないところがあるのでしょうか?」
しかし、そんな言葉が出てきたことに驚いて思わず月乃の目を見つめてしまった。そのすんだ瞳に吸い込まれそうになったが、一秒で恥ずかしさが勝りすぐに視線を戻す。月乃は、どこか悲しそうな表情で続けた。
「なんだか、直人さんが私に話しかけるとき、すこし話しにくそうにしていらっしゃる気がするんです。昨日出会ったときは、それがこちらでの話し方なのかとも思ったのですが、さきほどから出てくるこの中の女の子たちは私のようにすらすら話しておられます。だから、何か私と話したくないために無理に話していらっしゃるから、そんな話し方なのかと思いまして」
月乃は、どこまでも素直で純粋だ。世の中を知らないがために、普通ならば人に聞かないようなことでも単刀直入に聞いてくる。
「もし、直人さんが私と話したくないとおっしゃるなら、こんなに話しかけているのは迷惑な気がするんです。だから、もしそうなら私にそう正直に言ってください」
たとえ自分が傷つく可能性があったとしても、隠されたまま過ごすことを良しとしない。素直に、正直に、まっすぐに生きていく。月乃にとって、隠し事をすることも、隠し事をされることも、あってはならないことなのだろう。
「ち、ちがう」
月乃の質問に面喰っていた直人だったが、なんとか月乃を安心させなければと考え、とっさにそれだけ口にする。
「なら、どうしてそんなふうにしか私に話されないのですか?」
まだ不安そうなまま聞いてくる。そんな表情をしないでほしい、本当に違うんだと言おうとするが、言葉が出てこない。なぜなら、直人自身、自分が人とまともに話せない理由を明確には把握できていないからだった。
「そ、その、ぼ、くは、えと、あん、ま、り、人と、話すのが、と、くい、じゃ、ない、から」
何とか今の自分が言える精いっぱいの説明をする。しかし、月乃はすぐさま首をかしげる。
「得意じゃない、というのは、どういうことなのでしょうか?」
「え?」
月乃が言っている意味を取りかねて、直人は思わず聞き返す。月乃はなおも首を傾げたまま、言葉をつなげる。
「話すというのは、自分が思ったことを口にすることだと思うのですが、なぜそれが苦手なのです? 私は今まで一人でしたか、話すことはできます。思ったことを口にするだけですから」
う、と直人は言葉に詰まる。それは正しいことなのだが、直人の中にあるのはそんな簡単なことを遮る何か、なのだ。それを直人自身、把握できていない。いや、把握しようとしていない。
「思ったことを言葉にすることが苦手、ということでしょうか? なら、そんなふうに言葉が変なところで詰まってしまうとは思えないのですが」
困ったような表情で月乃は直人を見つめてくる。まるで答えがわからず母親に答えをせがむ小学生のような表情だった。
「それとも、やっぱり私のことが嫌いなのでしょうか?」
直人がなにもいえないでいると、再び不安そうな表情になってそんなことを聞いてくる。直人はあわてて、「ちがう」とまたいうが、「じゃあ、どうしてですか」と聞かれると言葉に詰まってしまう。
以前の自分は、特に今のようだったわけではない。どんなニートでも同じように、生まれた瞬間からニートだったわけではない。きちんと幼稚園や学校にもいったりしていた人間が、何かの拍子やきっかけで、突然、あるいは環境によって徐々にニートになっていく。そして、自分の場合は前者のタイプだ、と直人は考えている。自分も、昔はただのおとなしい性格の学生で、普通に中学に通い、高校にも入学した。しかし、そこである事件が起き、完全に道を踏み外してしまったのだ。自分の人生を狂わすほどの事件が・・・。
そこまで考えた時、直人は目をギュッとつぶって、思考を停止させようとした。これ以上は思い出したくない。しかし、思い出さないようにすればするほど、思考は暴走していく。直人は両腕で頭を抱えるようにする。やめてくれ。もう出てくるな。それでも溢れ出てくる、記憶の断片。少女の笑い声と、その言葉と・・・・。
「あの、大丈夫ですか?」
突然響いたその言葉に、直人は我に返った。気づくと、両腕で頭を覆ったまま、床に丸まるような姿勢になっていた。その頭上から、やさしい声が降りかかる。
「どうされました、直人さん?」
もう、少女の声は頭の中から消えていた。目の前にいるのは、昨日知り合ったばかりの、別の少女。
直人は、なぜかその少女を黙って見つめてしまった。あれほど顔を直視するのが恥ずかしいと思っていたのに、今はそんなことすら思わない。ただ、心配そうにしている少女の顔から、瞳から、なぜか視線を外せない。
月乃が、静かに右手を挙げ、直人の頬に添える。そのやわらかい手が触れた瞬間、直人の体は一瞬、強張って震えた。
「私が、怖いですか?」
その言葉で、直人は自分の中にあるものの存在が何であるかを理解した。それは、恐怖。
相手に嫌われないか。相手が自分のことをどう思っているのか。表面上はやさしいふりをして、実は自分のことを嫌っているのではないか。
なぜか、人とふれあっているとそんなことばかり考えてしまった。だから、自分から発言ができないようになってしまった。自分はオタクで、ニートで、気持ち悪いやつだから、なにか自分から発言するとそれだけで周りからひかれてしまう。だから、極力相手に合わせて話すようにしよう。相手に気に入られるように、同意だけしていよう。
しかし、それは何の解決にもならなくて、むしろ自分の中の恐怖感を増長させる結果にしかならなかった。自分からは話しかけず、話しかけられても相手にそうだよね、僕もそう思う、などという言葉しか投げかけられなくなってしまった直人に、積極的に触れ合ってくれる者は少なくなっていった。直人の中では、自然、自分は嫌われて来たから話しかけられなくなってしまったのだ、という考えが出てくる。その結果、余計友達に話しかけられなくなり、まともに会話をかわす相手さえいなくなっていく。
気づけば、直人は一人になっていた。
自分の殻に閉じこもり、誰とも触れ合わないようになっていった。人と触れ合わないようにすれば、嫌われるということもなくなる。嫌われるたびに味わう苦しさをなめなくても済む。だから、人と触れ合わない。
それが、直人の正体だった。人に嫌われる怖さから、目をそむけ、逃げた臆病者。それが自分自身だった。
「ぼ、くは・・・」
気づくと、頬をふた筋の涙が流れていた。それを気にも留めず、直人は目の前の少女に向かって言葉を紡いでいく。
「人に、きらわ、れる、のが、こ・・・わくて」
やさしい掌が、直人の涙をぬぐってくれる。それでも、感情の流れは止まることがなく、外へと流れ出ていく。
「だから、ひ、とと、はな、せ、なくて」
涙をぬぐいながら、月乃の瞳は直人の目をじっと見つめている。その瞳に吸い込まれるように、直人は言葉を紡いでいく。
「あ、んな、ことが、あって、から、そう、な・・・て」
気づけば、直人は月乃に語り始めていた。あの封印していた記憶を。




